312 《韓愈哲学 《「原毀」》 儒家道徳の根源・本質をたずねる論文。》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3886
- 2014/03/13
- 00:15
2014年3月13日 | の紀頌之5つのブログ | ||||
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 | |||||
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩 | 張平子(張衡)《西京賦》(30)(建章宮の池)#12-2 文選 賦<114―(30)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1067 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3883 | ||||
●張衡『西京賦』 | ●古詩十九詩 無名氏 | ●女性 | ● | ||
Ⅱ中唐詩・晩唐詩 | 《作事年別-青年期・孟郊、張籍と交遊・汴州の乱に遭遇》index-1韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <980> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3884韓愈詩-index-1 | ||||
孟郊 | 張籍 | | | | |
Ⅲ杜甫詩1000詩集 LiveDoorブログ | これまでの杜甫詩 (11)762年寶應元年 杜甫51歳 浣花渓草堂~蜀中転々 43首漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3885 杜甫詩1000-680-inDex-11/1500 | ||||
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている | |||||
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ | 312 《韓愈哲学 《「原毀」》 儒家道徳の根源・本質をたずねる論文。》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3886 (03/13) | ||||
| | | | | |
●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 | |||||
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor | 13-15《玉樓春四首其一》顧太尉敻(顧夐【こけい】)五十五首Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-468-13-(15) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3887 | ||||
●花間集(6) | ●花間集(7) | ●花間集(8) | ●花間集(9) | ●花間集(10) | |
孫光憲47首 花間集7・8巻 | |||||
魏承班15首 花間集8・9巻 | 鹿虔扆6首 花間集9巻 | 閻選8首 花間集9巻 | 尹鶚6首 花間集9巻 | 毛熙震29首 花間集9・10巻 | 李珣39首 花間集10巻 |
312 《韓愈哲学 《「原毀」》 儒家道徳の根源・本質をたずねる論文。》 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3886 |
| | | | | |
| | ||||
| | ||||
| 《「原鬼」》 | | |||
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
| | | | | |
#1一段目-(1)
古之君子,其責己也重以周,
古代の君子といわれる成徳の人は、自分にたいして責めることは重くして、それをどんな事にもあまねく行きわたっているのである。
其待人也,輕以約。
その君子は他人にたいして期待することにおいて、軽くて簡略なものとしているのである。
重以周,故不怠。
自己を責めることが厳重でありどんな事にもあまねく行きわたっているのであるから、それゆえ怠惰でないのである。
輕以約,故人樂為善。
人に期待することが軽くてひかえめであるから、それゆえ人々は善をなすことを楽しむことができるのである。
聞古之人有舜者,其為人也,仁義人也。
聞くところによると、古代の五帝の舜があって、「その人物はひととなりがよく、仁という博愛の心があり、義という理性をもってすじみちを行う人である。」と。
古の君子、其の己を責むるや重くして以て周に、其の人を待つや、軽くして以て約なり。
重くして以て周なり。故に怠らず。
軽くして以て約なり。故に入善を為すを楽しむ。
聞く古の人に舜といふ者有り、其の人と爲りや仁義の人なりと。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #1一段目-(1)
古之君子,其責己也重以周,其待人也,輕以約。
重以周,故不怠。輕以約,故人樂為善。
聞古之人有舜者,其為人也,仁義人也。
(下し文)
古の君子、其の己を責むるや重くして以て周に、其の人を待つや、軽くして以て約なり。
重くして以て周なり。故に怠らず。
軽くして以て約なり。故に入善を為すを楽しむ。
聞く古の人に葬といふ老有り、其の人と爲りや仁義の人なりと。
(現代語訳)
古代の君子といわれる成徳の人は、自分にたいして責めることは重くして、それをどんな事にもあまねく行きわたっているのである。
その君子は他人にたいして期待することにおいて、軽くて簡略なものとしているのである。
自己を責めることが厳重でありどんな事にもあまねく行きわたっているのであるから、それゆえ怠惰でないのである。
人に期待することが軽くてひかえめであるから、それゆえ人々は善をなすことを楽しむことができるのである。
聞くところによると、古代の五帝の舜があって、「その人物はひととなりがよく、仁という博愛の心があり、義という理性をもってすじみちを行う人である。」と。
(訳注) #1一段目-(1)
古之君子,其責己也重以周,
古代の君子といわれる成徳の人は、自分にたいして責めることは重くして、それをどんな事にもあまねく行きわたっているのである。
○其責己也 その人、古の君子が自己を責める場合に。責は追求する。
其待人也,輕以約。
その君子は他人にたいして期待することにおいて、軽くて簡略なものとしているのである。
重以周,故不怠。
自己を責めることが厳重でありどんな事にもあまねく行きわたっているのであるから、それゆえ怠惰でないのである。
○重 おもくきびしい。厳重。
○周 あまねく、手落ちがない。おろそかでないこと。
○怠 怠惰。
輕以約,故人樂為善。
人に期待することが軽くてひかえめであるから、それゆえ人々は善をなすことを楽しむことができるのである。
○軽 軽く少ない。
○約 つつましい。簡略。ひかえめ。
○楽為善 楽しんで善いことをする。
聞古之人有舜者,其為人也,仁義人也。
聞くところによると、古代の五帝の舜があって、「その人物はひととなりがよく、仁という博愛の心があり、義という理性をもってすじみちを行う人である。」と。
○舜 古代の伝説上の聖天子の名。三皇五帝の三皇を伏羲、女媧、神農、五帝を黄・堯・舜・禹・湯とする一人。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。 舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。
○為人 人物、人がらをいう。
○仁義 儒家の遺徳の最大のものである博愛と義理。
#2一段目-(2)
求其所以為舜者,責於己曰:
その人が舜というすぐれた人格であるわけのもの、仁義を求めて、自分を責めていうのである。
「彼人也,予人也;
「彼も人間であり、自分も人間である。」
彼能是,而我乃不能是。」
「彼、舜はこの仁義を行うことができるのに、それなのに我々はこれができない。これではならぬ。」と。
早夜以思,去其不如舜者,
朝晩これを思い求め、舜のようでない所から去ることである。
就其如舜者。聞古之人有周公者,
その舜のようである所に就くのである。聞くところでは、古の人に周公旦というものがあった。
其為人也,多才與藝人也。
その人物は心の働きである多才と多芸、学芸との多い人であった。
#2一段目-(2)
其の舜為る所以の者を求め,己を責めて曰く:
「彼も人なり,予【われ】も人なり;
彼是を能くするに,而も我は乃ち是れを能くせずに。」
早夜に以って思い,其の舜の如くならざる者去り,
其の舜の如き者に就く。聞く古の人に周公という者有り,
其の人と為りや,才と藝と多き人なり。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #2一段目-(2)
求其所以為舜者,責於己曰:
「彼人也,予人也;彼能是,而我乃不能是。」
早夜以思,去其不如舜者,就其如舜者。聞古之人有周公者,其為人也,多才與藝人也。
(下し文) #2一段目-(2)
其の舜為る所以の者を求め,己を責めて曰く:
「彼も人なり,予【われ】も人なり;
彼是を能くするに,而も我は乃ち是れを能くせずに。」
早夜に以って思い,其の舜の如くならざる者去り,
其の舜の如き者に就く。聞く古の人に周公という者有り,
其の人と為りや,才と藝と多き人なり。
(現代語訳)
その人が舜というすぐれた人格であるわけのもの、仁義を求めて、自分を責めていうのである。
「彼も人間であり、自分も人間である。」
「彼、舜はこの仁義を行うことができるのに、それなのに我々はこれができない。これではならぬ。」と。
朝晩これを思い求め、舜のようでない所から去ることである。
その舜のようである所に就くのである。聞くところでは、古の人に周公旦というものがあった。
その人物は心の働きである多才と多芸、学芸との多い人であった。
(訳注)#2一段目-(2)
求其所以為舜者,責於己曰:
その人が舜というすぐれた人格であるわけのもの、仁義を求めて、自分を責めていうのである。
○所以為舜 舜は聖人であるわけ。仁義をもついう。
「彼人也,予人也;
「彼も人間であり、自分も人間である。」
○枚人也、予人也 彼もわれも同じ人間である。『孟子』願文公上農に「成観(刷)斉の景公に謂つて日く、彼も大夫なり。我も大夫なり。吾何ぞ彼を畏れんやと。顔淵円く、舜何人(琶ぞや、予何人ぞやと。為す有る者も亦是の若し」とあるのによる。
彼能是,而我乃不能是。」
「彼、舜はこの仁義を行うことができるのに、それなのに我々はこれができない。これではならぬ。」と。
○乃 それなのに。
早夜以思,去其不如舜者,
朝晩これを思い求め、舜のようでない所から去ることである。
○早夜 朝晩。早は一に蚤に作る。
○去 立ち去り離れる。
就其如舜者。聞古之人有周公者,
その舜のようである所に就くのである。聞くところでは、古の人に周公旦というものがあった。
○就 そこへ行く。
○周公 儒家の先聖の一人。周の文王の子、武王の弟で、成王の摂政として、周の礼楽を完成した多才、多芸の人。
其為人也,多才與藝人也。
その人物は心の働きである多才と多芸、学芸との多い人であった。
#3二段目
求其所以為周公者,責於己曰:
古代の君子である、その周公の貴ばれるわけである才芸を求めて、自分を責めていう。
「彼人也,予人也;彼能是,而我乃不能是。」
「彼も人間であり、自分も人間である。彼にはこれができるのに、自分はそれなのにこれができない。」と。
早夜以思,去其不如周公者,就其如周公者。
朝から晩に思い求めて、その周公のようできないとそこから去って、その周公のように才芸の多い方へと行くのである。
舜,大聖人也,後世無及焉。
舜は大聖人であり、偉大な智徳の最高な人物である。
周公,大聖人也,後世無及焉。
周公は大聖人である。後世にこれに及ぶものはいない。
是人也,乃曰:
これなる人であるが、それなのに、いう。
「不如舜,不如周公,吾之病也。」
「舜のようでなく、周公且のようでないことが、自分の心配である。」という。
是不亦責於身者重以周乎。
これはまた、わが身の行いを責めることの、重くて行き届いたことではないか。
#3二段目
其の周公と為る所以の者を求め,己を責めて曰く:「彼も人なり,予も人なり;彼是を能くするに,而も我は乃ち是を能くせずと。」
早夜に以って思い,其の周公の如くならざる者を去って,其の周公もき如者に就く。
舜は,大聖人なり,後世に及ぶものなし。
周公は,大聖人なり,後世に及ぶものなし。
是の人や,乃ち曰く:
「舜の如くならず,周公の如くならず,吾の病なり。」
是れ亦た身を責むる者重く以って周ならずや。
『原毀』 現代語訳と訳註(本文) #3二段目
求其所以為周公者,責於己曰:
「彼人也,予人也;彼能是,而我乃不能是。」
早夜以思,去其不如周公者,就其如周公者。
舜,大聖人也,後世無及焉。
周公,大聖人也,後世無及焉。
是人也,乃曰:
「不如舜,不如周公,吾之病也。」
是不亦責於身者重以周乎。
(下し文)
其の周公為る所以の者を求め、己を責めて日く、
彼も人なり、予も人なり。彼走を能くするに、而も我は乃ち是を能くせずと。
早夜に以て恩ひ、其の周公の如くならざる者を去って、其の周公の如き者に就く。
舜は大聖人なり。後世及ぶ無し。
周公は大聖人なり。後世及ぶ無し。
是の人や、乃ち日く、
舜の如くならず、周公の如くならざるは、吾の病なりと。
是れ赤身を責むる者、重くして以て周ならずや。
(現代語訳)
古代の君子である、その周公の貴ばれるわけである才芸を求めて、自分を責めていう。
「彼も人間であり、自分も人間である。彼にはこれができるのに、自分はそれなのにこれができない。」と。
朝から晩に思い求めて、その周公のようできないとそこから去って、その周公のように才芸の多い方へと行くのである。
舜は大聖人であり、偉大な智徳の最高な人物である。
周公は大聖人である。後世にこれに及ぶものはいない。
これなる人であるが、それなのに、いう。
「舜のようでなく、周公且のようでないことが、自分の心配である。」という。
これはまた、わが身の行いを責めることの、重くて行き届いたことではないか。
(訳注)#3二段目
求其所以為周公者,責於己曰:
古代の君子である、その周公の貴ばれるわけである才芸を求めて、自分を責めていう。
O周公 儒家の先聖の一人。周の文王の子、武王の弟で、成王の摂政として、周の礼楽を完成した多才、多芸の人。原性 六段目 韓愈(韓退之) <116-9> Ⅱ中唐晩唐 607 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2019韓愈『原性』六段目
堯之朱,舜之均,文王之管蔡,
習非不善也,而卒為奸;
瞽叟之舜,鯀之禹,習非不惡也,
而卒為聖。人之性善惡果混乎?
故曰:三子之言性也,舉其中而遺其上下者也,
得其一而失其二者也。
武王の死後成王が幼かったので周公旦が摂政となった。管・蔡は国中に流言した、「周公は幼主の為によくない」と。周公は居を東都に避けた。後に成王は周公を迎えて帰ったので、管・蔡は懼れて、武康を立てて叛いた。成工は周公に命じてこれを討たせ、武康を誅し、管叔を殺し、蔡叔を追放してこれを遷したが、ついで彼もまた死んだ(『書経』金膽篇)。管叔[?~前1110ころ]中国、周の王族。文王の三男。武王の弟、周公の兄。名は鮮。管に封ぜられたのでこの姓がある。武王の死後、蔡(さい)に封ぜられた叔度とともに周に背き、周公に殺された。蔡叔度は、西周の諸侯である蔡の初代の君主。姓は姫で、名は度。周の文王の五男として生まれた。武王が殷を滅ぼすと、叔度は蔡(河南省駐馬店市上蔡県の南西)に封じられ、帝辛(紂王)の子の武庚を監視する任を与えられた。成王が即位すると、幼年であったため周公旦が摂政した。蔡叔度は周公旦が朝政を専断するのが不満で、管叔鮮とともに三監の乱を引き起こした。戦争に敗れると、周公旦によって郭邻に流され、配所で死去した。子の蔡仲が蔡に封じられて、祭祀を継いだ。
「彼人也,予人也;彼能是,而我乃不能是。」
「彼も人間であり、自分も人間である。彼にはこれができるのに、自分はそれなのにこれができない。」と。
○能是 多才であり多芸であることができた。
早夜以思,去其不如周公者,就其如周公者。
朝から晩に思い求めて、その周公のようできないとそこから去って、その周公のように才芸の多い方へと行くのである。
舜,大聖人也,後世無及焉。
舜は大聖人であり、偉大な智徳の最高な人物である。後世にこれに追いつくものがいない。
周公,大聖人也,後世無及焉。
周公は大聖人である。後世にこれに及ぶものはいない。
是人也,乃曰:
これなる人であるが、それなのに、いう。
「不如舜,不如周公,吾之病也。」
「舜のようでなく、周公且のようでないことが、自分の心配である。」という。
是不亦責於身者重以周乎。
これはまた、わが身の行いを責めることの、重くて行き届いたことではないか。
#4三段目-(1)
其於人也,曰:「彼人也,
その古代の君子が人に対するときにはいうのである、「あの人の事である。」
能有是,是足為良人矣。
「あの人には、ここにいう善事があることである。これが善良な人とするに十分なことなのである。」
能善是,是足為藝人矣。」
「この仕事を上手にすることができたということ。これは、多芸の人ということとするには十分である」ということなのだ。
取其一,不責其二;
「その一つを取りあげて、うまいか、うまくいかないか、その二つについて責めを問うことをしない。」
即其新,不究其舊;
「その人が努力して新しく進んだところについて見て、その過去のいたらなかったところを追究しないことである。」
恐恐然惟懼其人之不得為善之利。
「心おそれてなにもできないでいることは、その人が善事をなす利便を得ないかもしれないことを心配することになる。」
#5三段目-(2)
一善易修也,一藝易能也;
其於人也,乃曰:
「能有是,是亦足矣!」
曰:「能善是,是亦足矣。」
不亦待於人者輕以約乎。
其の人に於けるや,曰く:「彼の人や,
能く是れ有り,是れ良人と為すに足る。
能く是れを善くす,是れ藝人と為すに足ると。」
其の一を取りて,其の二を責めず;
其の新に即【つ】いて,其の舊を究めず;
恐恐然として惟だ其の人の善を為すの利を得ざらんことを懼る。
#5三段目-(2)
一善は修め易きなり,一藝は能くし易きなり;
其の人に於けるや,乃ち曰く:
「能く是れ有り,是れも亦た足れり!」と。
曰く:「能く是れを善くし,是れも亦た足れり。」と。
不亦た人を待つ者、輕くして以って約ならずや。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #4三段目-(1)
其於人也,曰:「彼人也,
能有是,是足為良人矣。
能善是,是足為藝人矣。」
取其一,不責其二;
即其新,不究其舊;
恐恐然惟懼其人之不得為善之利。
(下し文)
其の人に於けるや,曰く:「彼の人や,
能く是れ有り,是れ良人と為すに足る。
能く是れを善くす,是れ藝人と為すに足ると。」
其の一を取りて,其の二を責めず;
其の新に即【つ】いて,其の舊を究めず;
恐恐然として惟だ其の人の善を為すの利を得ざらんことを懼る。
(現代語訳)
その古代の君子が人に対するときにはいうのである、「あの人の事である。」
「あの人には、ここにいう善事があることである。これが善良な人とするに十分なことなのである。」
「この仕事を上手にすることができたということ。これは、多芸の人ということとするには十分である」ということなのだ。
「その一つを取りあげて、うまいか、うまくいかないか、その二つについて責めを問うことをしない。」
「その人が努力して新しく進んだところについて見て、その過去のいたらなかったところを追究しないことである。」
「心おそれてなにもできないでいることは、その人が善事をなす利便を得ないかもしれないことを心配することになる。」
(訳注) #4三段目-(1)
其於人也,曰:「彼人也,
その古代の君子が人に対するときにはいうのである、「あの人の事である。」
○彼人也 「かの人や」と読む。彼と読めば特定の人物を指すのでここは漠然とした人を云う。
能有是,是足為良人矣。
「あの人には、ここにいう善事があることである。これが善良な人とするに十分なことなのである。」
○能有足 是は善事。この善事があることができたということ。
○良人 善良な行いの人。
能善是,是足為藝人矣。」
「この仕事を上手にすることができたということ。これは、多芸の人ということとするには十分である」ということなのだ。
○能書是 是は技術、このわざを上手にすることができた。
○芸人 技能の多い人。
取其一,不責其二;
「その一つを取りあげて、うまいか、うまくいかないか、その二つについて責めを問うことをしない。」
即其新,不究其舊;
「その人が努力して新しく進んだところについて見て、その過去のいたらなかったところを追究しないことである。」
恐恐然惟懼其人之不得為善之利。
「心おそれてなにもできないでいることは、その人が善事をなす利便を得ないかもしれないことを心配することになる。」
○恐恐然 おっかなびっくり。優柔不断を云う。損得、利便などを心配すること。心おそれてなにもできないでいること。
○為善之利 善事をなすのに都合のよいこと。
#5三段目-(1)
其於人也,曰:「彼人也,
その古代の君子が人に対するときにはいうのである、「あの人の事である。」
能有是,是足為良人矣。
「あの人には、ここにいう善事があることである。これが善良な人とするに十分なことなのである。」
能善是,是足為藝人矣。」
「この仕事を上手にすることができたということ。これは、多芸の人ということとするには十分である」ということなのだ。
取其一,不責其二;
「その一つを取りあげて、うまいか、うまくいかないか、その二つについて責めを問うことをしない。」
即其新,不究其舊;
「その人が努力して新しく進んだところについて見て、その過去のいたらなかったところを追究しないことである。」
恐恐然惟懼其人之不得為善之利。
「心おそれてなにもできないでいることは、その人が善事をなす利便を得ないかもしれないことを心配することになる。」
#4三段目-(2)
一善易修也,一藝易能也;
一つの善事はよく行いやすいものなのである。一つの技芸はできやすいものである。
其於人也,乃曰:
それなのに、その人が他人に対するときにこういう。
「能有是,是亦足矣!」
「あの人にはこの能力があることができたのだから、これもまたこれだけで十分である」という。
曰:「能善是,是亦足矣。」
そしていう、「これを立派におこなうことができたのだから、これでもまた十分である。」と。
不亦待於人者輕以約乎。
これが他の人に期待することが軽くしてひかえめなことではなかろうか。
其の人に於けるや,曰く:「彼の人や,
能く是れ有り,是れ良人と為すに足る。
能く是れを善くす,是れ藝人と為すに足ると。」
其の一を取りて,其の二を責めず;
其の新に即【つ】いて,其の舊を究めず;
恐恐然として惟だ其の人の善を為すの利を得ざらんことを懼る。
#5三段目-(2)
一善は修め易きなり,一藝は能くし易きなり;
其の人に於けるや,乃ち曰く:
「能く是れ有り,是れも亦た足れり!」と。
曰く:「能く是れを善くし,是れも亦た足れり。」と。
不亦た人を待つ者、輕くして以って約ならずや。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #5三段目-(2)一善易修也,一藝易能也;
其於人也,乃曰:
「能有是,是亦足矣!」
曰:「能善是,是亦足矣。」
不亦待於人者輕以約乎。
(下し文)
一善は修め易きなり,一藝は能くし易きなり;
其の人に於けるや,乃ち曰く:
「能く是れ有り,是れも亦た足れり!」と。
曰く:「能く是れを善くし,是れも亦た足れり。」と。
不亦た人を待つ者、輕くして以って約ならずや。
(現代語訳)
一つの善事はよく行いやすいものなのである。一つの技芸はできやすいものである。
それなのに、その人が他人に対するときにこういう。
「あの人にはこの能力があることができたのだから、これもまたこれだけで十分である」という。
そしていう、「これを立派におこなうことができたのだから、これでもまた十分である。」と。
これが他の人に期待することが軽くしてひかえめなことではなかろうか。
(訳注) #5三段目-(2)
一善易修也,一藝易能也;
一つの善事はよく行いやすいものなのである。一つの技芸はできやすいものである。
○芸 技能。一芸に秀でる。746年天宝六載 玄宗は天下にたいし、一芸に秀で通ずるものを長安に集めて試験した。しかし、李林甫、文学の士を嫌っており、全員を落第させた。杜甫の応援者(ブログ杜甫20、21)であった李邕が、正月、李林甫により殺される。これがほんの50年前の出来事である。
其於人也,乃曰:
それなのに、その人が他人に対するときにこういう。
「能有是,是亦足矣!」
「あの人にはこの能力があることができたのだから、これもまたこれだけで十分である」という。
曰:「能善是,是亦足矣。」
そしていう、「これを立派におこなうことができたのだから、これでもまた十分である。」と。
○能善是 是は技術、このわざを上手にすることができた。
不亦待於人者輕以約乎。
これが他の人に期待することが軽くしてひかえめなことではなかろうか。
○軽 軽く少ない。
○約 つつましい。簡略。ひかえめ。
したがって「輕以約,故人樂為善。」“人に期待することが軽くてひかえめであるから、それゆえ人々は善をなすことを楽しむことができるのである。”である。○楽為善 楽しんで善いことをする。
#6四段目
今之君子則不然。其責人也詳,其待己也廉。
今の君子はそうではない。今の君主は人を責める場合は詳細であり、ところが自分にたいしては期待することのハードルを低く設定する。
詳,故人難於為善。廉,故自取也少。
人をとがめ責めることにかんして微に入り細にいるもので、それ故人は善を為すことをはばかるようになる。欲が少ないから、それ故に自分が修得することは少ないのである。
己未有善,曰:「我善是,是亦足矣。」
自分にはまだ善行の積重ねがないのに、「自分はこれが上手なのだから、これで十分である」といい、
己未有能,曰:「我能是,是亦足矣。」
自分にはまだできるという実証を重ねたことがないのに、「自分はこれができるから、これで十分である」という。
外以欺於人,內以欺於心,
これは外においては人をあざむくことであり、内においては自分自身の心をあざむくことである。
未少有得而止矣,不亦待其身者已廉乎。
まだ少しも得ることがなくて中途半端で終るのである。それこそわが身に期待することが、はなはだ自分に甘いこと、やろうとする物事のハードルを低く設定するということではないだろうか。
今の君子は則ち然らず。其の人を責むるや詳【つまびらか】に、其の己を待つや廉なり。
詳なるが故に入善を為すを難んず。廉なるが故に自ら取るや少し。
己未だ善有らざるに、日く、「我是を善くす。是も亦足れり」と。
己未だ能くすること有らざるに、日く、「我是を能くす。是も亦足れり」と。
外は以て人を欺き、内は以て心を欺き、末だ少しも得ること有らずして止む。
亦其の身を待つこと己だ廉ならずや。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #6四段目今之君子則不然。其責人也詳,其待己也廉。
詳,故人難於為善。廉,故自取也少。
己未有善,曰:「我善是,是亦足矣。」
己未有能,曰:「我能是,是亦足矣。」
外以欺於人,內以欺於心,
未少有得而止矣,不亦待其身者已廉乎。
(下し文)
今の君子は則ち然らず。其の人を責むるや詳【つまびらか】に、其の己を待つや廉なり。
詳なるが故に入善を為すを難んず。廉なるが故に自ら取るや少し。
己未だ善有らざるに、日く、「我是を善くす。是も亦足れり」と。
己未だ能くすること有らざるに、日く、「我是を能くす。是も亦足れり」と。
外は以て人を欺き、内は以て心を欺き、末だ少しも得ること有らずして止む。
亦其の身を待つこと己だ廉ならずや。
(現代語訳)
今の君子はそうではない。今の君主は人を責める場合は詳細であり、ところが自分にたいしては期待することのハードルを低く設定する。
人をとがめ責めることにかんして微に入り細にいるもので、それ故人は善を為すことをはばかるようになる。欲が少ないから、それ故に自分が修得することは少ないのである。
自分にはまだ善行の積重ねがないのに、「自分はこれが上手なのだから、これで十分である」といい、
自分にはまだできるという実証を重ねたことがないのに、「自分はこれができるから、これで十分である」という。
これは外においては人をあざむくことであり、内においては自分自身の心をあざむくことである。
まだ少しも得ることがなくて中途半端で終るのである。それこそわが身に期待することが、はなはだ自分に甘いこと、やろうとする物事のハードルを低く設定するということではないだろうか。
(訳注) #6四段目
今之君子則不然。其責人也詳,其待己也廉。今の君子はそうではない。今の君主は人を責める場合は詳細であり、ところが自分にたいしては期待することのハードルを低く設定する。
○詳 くわしくこまかである。
○廉 無欲。廉の本義はかどめ正しくて、取るべきでない利を取らないこと。ここではわが身に修得することを欲はらない。ハードルを低く設定する。
詳,故人難於為善。廉,故自取也少。
人をとがめ責めることにかんして微に入り細にいるもので、それ故人は善を為すことをはばかるようになる。欲が少ないから、それ故に自分が修得することは少ないのである。
○難 はばかる。困難に思う。
己未有善,曰:「我善是,是亦足矣。」
自分にはまだ善行の積重ねがないのに、「自分はこれが上手なのだから、これで十分である」といい、
己未有能,曰:「我能是,是亦足矣。」
自分にはまだできるという実証を重ねたことがないのに、「自分はこれができるから、これで十分である」という。
外以欺於人,內以欺於心,
これは外においては人をあざむくことであり、内においては自分自身の心をあざむくことである。
○欺 あざむく。ごまかす。
未少有得而止矣,不亦待其身者已廉乎。
まだ少しも得ることがなくて中途半端で終るのである。それこそわが身に期待することが、はなはだ自分に甘いこと、やろうとする物事のハードルを低く設定するということではないだろうか。
○已 甚だに
#7五段目
其於人也,曰 :
そのように中途半端な今の君子が人に対する場合のことをいう。
「彼雖能是,其人不足稱也。
「彼はこのようにすることができるけれども、彼の人物はほめるに足らない。」
彼雖善是,其用不足稱也。」
「彼はこのことは上手であるけれども、その働きはほめるに足らない」と。
舉其一,不計其十;
その人の一つの不善を取りあげているのであり、その他の十の美点をはかることをしない。
究其舊,不圖其新;
またその人の過去の事を追究して、その人の新しく進歩したことをはかることをしないのである。
恐恐然惟懼其人之又聞也,是不亦責於人者以詳乎。
恐れにおそれて、ただその人の有名になったらどうしようということばかりをおそれるのである。だから、その人を責めることになるのであり、はなはだ詳密ではないことを責めるのである。
其の人に於けるや、日く、
「彼是を能くすと雄も、其の人は稲【しょう】するに足らざるなり。」
「彼是を善くすと錐も、其の用は稱するに足らざるなり」と。
其の一を挙げて、其の十を計らず。
其の善を究めて、其の新を図【はか】らず。
恐恐然として惟其の人の聞ゆること有らんを懼【おそ】るるなり。
是れ亦人に責むること己【はなは】だ詳【つまびらか】ならずや。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #7五段目
其於人也,曰 :
「彼雖能是,其人不足稱也。
彼雖善是,其用不足稱也。」
舉其一,不計其十;
究其舊,不圖其新;
恐恐然惟懼其人之又聞也,是不亦責於人者以詳乎。
(下し文)
其の人に於けるや、日く、
「彼是を能くすと雄も、其の人は稲【しょう】するに足らざるなり。」
「彼是を善くすと錐も、其の用は稱するに足らざるなり」と。
其の一を挙げて、其の十を計らず。
其の善を究めて、其の新を図【はか】らず。
恐恐然として惟其の人の聞ゆること有らんを懼【おそ】るるなり。是れ亦人に責むること己【はなは】だ詳【つまびらか】ならずや。
(現代語訳)
そのように中途半端な今の君子が人に対する場合のことをいう。
「彼はこのようにすることができるけれども、彼の人物はほめるに足らない。」
「彼はこのことは上手であるけれども、その働きはほめるに足らない」と。
その人の一つの不善を取りあげているのであり、その他の十の美点をはかることをしない。
またその人の過去の事を追究して、その人の新しく進歩したことをはかることをしないのである。
恐れにおそれて、ただその人の有名になったらどうしようということばかりをおそれるのである。だから、その人を責めることになるのであり、はなはだ詳密ではないことを責めるのである。
(訳注) #7五段目
其於人也,曰 :
そのように中途半端な今の君子が人に対する場合のことをいう。
「彼雖能是,其人不足稱也。
「彼はこのようにすることができるけれども、彼の人物はほめるに足らない。」
○其人 彼の人柄。
○能是 是は技術、このわざをすることができる。
彼雖善是,其用不足稱也。」
「彼はこのことは上手であるけれども、その働きはほめるに足らない」と。
○其用 その働き。其は彼。
○能善是 是は技術、このわざを上手にすることができた。
舉其一,不計其十;
その人の一つの不善を取りあげているのであり、その他の十の美点をはかることをしない。
○其一 彼の一つの欠点。
○其十 彼の多くの美点。
究其舊,不圖其新;
またその人の過去の事を追究して、その人の新しく進歩したことをはかることをしないのである。
恐恐然惟懼其人之又聞也,是不亦責於人者以詳乎。
恐れにおそれて、ただその人の有名になったらどうしようということばかりをおそれるのである。だから、その人を責めることになるのであり、はなはだ詳密ではないことを責めるのである。
#8六段目
夫是之謂不以眾人待其身,而以聖人望於人,
その人を責めることは、これをこそ、人並みの人間をもって自分自身に期待せずして、最高至上の聖人をもって他人に希望するのだということである。
吾未見其尊己也。
これでは私には、その人が自分自身を尊んでいるとは見えないのである。
雖然,為是者,有本有原,
そうであるというけれども、このようにするのには、その本源があり、原因がある。
怠與忌之謂也。
それはその人の心にある怠りと人の善をきらう心とをいうことである。
怠者不能修,而忌者畏人修。
なまけ心のあるものは、身の行いをよくすることはできないし、人の善をいやがる者は、他人が行いを善くするのをおそれるのである。
吾常試之矣。
私はこれを実地に試みたのである。
夫れ是を之れ衆人を以て其の身を待たずして、聖人を以って人に望むと謂ふ。
吾未だ其の己を尊ぶを見ざるなり。
然り雖も、是を為すほ本有り原有り。
怠と忌との謂なり。怠る者は修むること能はずして、忌む者は人の修むるを畏る。吾之を常試せり。
『原毀』 現代語訳と訳註
(本文) #8六段目
夫是之謂不以眾人待其身,而以聖人望於人,
吾未見其尊己也。
雖然,為是者,有本有原,
怠與忌之謂也。怠者不能修,
而忌者畏人修。吾常試之矣,
(下し文)
夫れ是を之れ衆人を以て其の身を待たずして、聖人を以って人に望むと謂ふ。
吾未だ其の己を尊ぶを見ざるなり。
然り雖も、是を為すほ本有り原有り。
怠と忌との謂なり。怠る者は修むること能はずして、忌む者は人の修むるを畏る。吾之を常試せり。
(現代語訳)
その人を責めることは、これをこそ、人並みの人間をもって自分自身に期待せずして、最高至上の聖人をもって他人に希望するのだということである。
これでは私には、その人が自分自身を尊んでいるとは見えないのである。
そうであるというけれども、このようにするのには、その本源があり、原因がある。
それはその人の心にある怠りと人の善をきらう心とをいうことである。
なまけ心のあるものは、身の行いをよくすることはできないし、人の善をいやがる者は、他人が行いを善くするのをおそれるのである。
私はこれを実地に試みたのである。
(訳注) #8六段目
夫是之謂不以眾人待其身,而以聖人望於人,
その人を責めることは、これをこそ、人並みの人間をもって自分自身に期待せずして、最高至上の聖人をもって他人に希望するのだということである。
〇不以衆人待其身 身につける善事について無欲であることによって、その結果、自身に期待するものは人並み以下の人格でよいとすることになる。これは自分を尊はないわけである。
○以聖人望於人 他人が聖人のような完全な人格であるように希望する。人に対しては厳重に要求することは、他人を聖人並みにもてあつかうことになる。
吾未見其尊己也。
これでは私には、その人が自分自身を尊んでいるとは見えないのである。
雖然,為是者,有本有原,
そうであるというけれども、このようにするのには、その本源があり、原因がある。
怠與忌之謂也。
それはその人の心にある怠りと人の善をきらう心とをいうことである。
怠者不能修,而忌者畏人修。
なまけ心のあるものは、身の行いをよくすることはできないし、人の善をいやがる者は、他人が行いを善くするのをおそれるのである。
吾常試之矣。
私はこれを実地に試みたのである。
〇常試 実地に試みた
#9七段目
常試語於眾曰:「某良士,某良士。」
実際に試みてみると衆人に語っていう、「なにがしの人はよい人物であり、ある人はよい人物である」と。
其應者,必其人之與也。
その衆人の中で、それにたいしてそうだと答えるものは、必ずその人物のなかまである
不然,則其所疏遠,不與同其利者也。
そうでなければ、その人物とは関係が疎い人、遠い人であり、その人と利害をともにしないものである。
不然,則其畏也。
またそうでないとすれば、その中でその人物をおそれているということである。
不若是,強者必說於言,懦者必說於色矣。
このような三種の関係でないならは、気の強いものは必ず言葉に出して怒り、意気地のないものは必ず顔色に怒りをあらわすのである。
常試【こころ】みに衆に語って曰く、「某は良士なり、某は良士なり」と。
其の應ずる者は必ず其の人の異なり。
然らずんば則ち其の疎遠【そえん】にして、興に其の利を同じうせざる所の者なり。
然らずんば則ち其の畏るるなり。
是の若くならずんば、強者は必ず言に怒り、懦者【だしゃ】は必ず色に怒る。
『原毀』 現代語訳と訳註(本文) #9七段目
常試語於眾曰:「某良士,某良士。」
其應者,必其人之與也。
不然,則其所疏遠,不與同其利者也。
不然,則其畏也。
不若是,強者必說於言,懦者必說於色矣。
(下し文)
常試【こころ】みに衆に語って曰く、「某は良士なり、某は良士なり」と。
其の應ずる者は必ず其の人の異なり。
然らずんば則ち其の疎遠【そえん】にして、興に其の利を同じうせざる所の者なり。
然らずんば則ち其の畏るるなり。
是の若くならずんば、強者は必ず言に怒り、懦者【だしゃ】は必ず色に怒る。
(現代語訳)実際に試みてみると衆人に語っていう、「なにがしの人はよい人物であり、ある人はよい人物である」と。
その衆人の中で、それにたいしてそうだと答えるものは、必ずその人物のなかまである
そうでなければ、その人物とは関係が疎い人、遠い人であり、その人と利害をともにしないものである。
またそうでないとすれば、その中でその人物をおそれているということである。
このような三種の関係でないならは、気の強いものは必ず言葉に出して怒り、意気地のないものは必ず顔色に怒りをあらわすのである。
(訳注) #9七段目常試語於眾曰:「某良士,某良士。」
実際に試みてみると衆人に語っていう、「なにがしの人はよい人物であり、ある人はよい人物である」と。
○某良士 何のなにがしはよい人物であると名をあげていう。
其應者,必其人之與也。
その衆人の中で、それにたいしてそうだと答えるものは、必ずその人物のなかまである。
○其応者 衆人の中で、その通りだというもの。
○其人之与也 その某のなかまである。与はくみするもの。
不然,則其所疏遠,不與同其利者也。
そうでなければ、その人物とは関係が疎い人、遠い人であり、その人と利害をともにしないものである。
不然,則其畏也。
またそうでないとすれば、その中でその人物をおそれているということである。
○其畏也 衆人の中で、某を畏れているものである。畏はおそれ、遠慮する。
不若是,強者必說於言,懦者必說於色矣。
このような三種の関係でないならは、気の強いものは必ず言葉に出して怒り、意気地のないものは必ず顔色に怒りをあらわすのである。
○不若是 この三種の関係でなければ。すなわち敵であり、関係が深く利害を争う人であり、遠慮すべきことがないならは。
○懦者 意気地のない男。臆病な男。
#10八段目
又嘗語於衆小目、某非良士 某非良士
また試みに衆人、小者に告げて、なにがしは良い人物でない。あるいは誰それは良い人物でないというのである。
其不應者、必其人之輿也。
その衆人、小者の中で、それに対してその通りと答えないものは必ずその「某」の仲間である。
不然則其所疎遠、不輿同其利者也。
そうでなければその「某」と関係がうとく遠くて、利益を同じくしていないもの、仲間ではないである。
不然則其畏也。
あるいは、そうでなければ其の中でその「某」をおそれているものである。
不若是、強者必説於言、懦者必説於色矣。
このような人々でなければ、気の強いものは言語に出して悦び、意気地のないものは顔色に悦びのようすをあらわすのである。
又嘗みに衆に語って日く、某は良士に非ず。某は艮土に非ずと。其の應ぜざる者は、必ず其の人の異なり。然らずんば則ち其の疎遠にして、輿に其の利を同じうせざる所の者なり。然らずんば則ち其の畏るるなり。是の若くならずんば強者は必ず言に説び、儒者は必ず色に説ぶ。
『原毀』 現代語訳と訳註(本文) 八段目
又嘗語於衆小目、某非良士 某非良士
其不應者、必其人之輿也。不然則其所疎遠、不輿同其利者也。不然則其畏也。
不若是、強者必説於言、懦者必説於色矣。
(下し文)
又嘗みに衆に語って日く、某は良士に非ず。某は艮土に非ずと。其の應ぜざる者は、必ず其の人の異なり。然らずんば則ち其の疎遠にして、輿に其の利を同じうせざる所の者なり。然らずんば則ち其の畏るるなり。是の若くならずんば強者は必ず言に説び、儒者は必ず色に説ぶ。
(現代語訳)
また試みに衆人、小者に告げて、なにがしは良い人物でない。あるいは誰それは良い人物でないというのである。
その衆人、小者の中で、それに対してその通りと答えないものは必ずその「某」の仲間である。
そうでなければその「某」と関係がうとく遠くて、利益を同じくしていないもの、仲間ではないである。
あるいは、そうでなければ其の中でその「某」をおそれているものである。
このような人々でなければ、気の強いものは言語に出して悦び、意気地のないものは顔色に悦びのようすをあらわすのである。
(訳注) 八段目
又嘗語二於衆小目、某非二良士 某非二良土山
また試みに衆人、小者に告げて、なにがしは良い人物でない。あるいは誰それは良い人物でないというのである。
其不應者、必其人之輿也。
その衆人、小者の中で、それに対してその通りと答えないものは必ずその「某」の仲間である。
〇其不応者 衆人の中で、この悪口にそうだと答えないもの。
不然則其所疎遠、不輿同其利者也。
そうでなければその「某」と関係がうとく遠くて、利益を同じくしていないもの、仲間ではないである。
不然則其畏也。
あるいは、そうでなければ其の中でその「某」をおそれているものである。
不若是、強者必説於言、懦者必説於色矣。
このような人々でなければ、気の強いものは言語に出して悦び、意気地のないものは顔色に悦びのようすをあらわすのである。
○説 音エツ、よろこぶ。悦に同じ。
○懦者 意気地のない男。臆病な男。
#11九段目
是故事修而謗興,德高而毀來。
このようなわけで、事業が次第によくでき上がってくるにしたがって、かえって誹謗中傷がおこりはじめ、人格が高くなるにしたがって、かえってそしり・妬みがやってくるのである。
嗚呼!士之處此世,而望名譽之光,
ああ、立派な人物がひろくこの世の中に住むようになっても、名誉心、功名心が光りかがやくことになる。
道德之行,難已!
ということで、道義や人格が広く行われることを望むのではあるけれど、実に困難なことである。
將有作於上者,得吾說而存之,
まさに、人の上に立って政治をしょうと思う者が、わたくしの「原毀の説」を会得して、常にこれを心にたもって忘れないことである。
其國家可幾而理歟。
それで、その国家は、願いのように治めることができるであろう―っ!。
『原毀』 現代語訳と訳註(本文) #11九段目
是故事修而謗興,德高而毀來。
嗚呼!士之處此世,而望名譽之光,
道德之行,難已!
將有作於上者,得吾說而存之,
其國家可幾而理歟。
(下し文)
是の故に事修【おさ】まって謗【そしり】興【おこ】り、徳高くして毀【そしり】來る。
鳴呼、士の此の世に處【お】りて、名誉の光き、
道徳の行はるるを望むや難きのみ。
將に上に作す有らんとする者、吾が説【せつ】を得て之を存せば、
其の国家 幾【き】して理【おさ】む可きか。
(現代語訳)
このようなわけで、事業が次第によくでき上がってくるにしたがって、かえって誹謗中傷がおこりはじめ、人格が高くなるにしたがって、かえってそしり・妬みがやってくるのである。
ああ、立派な人物がひろくこの世の中に住むようになっても、名誉心、功名心が光りかがやくことになる。
ということで、道義や人格が広く行われることを望むのではあるけれど、実に困難なことである。
まさに、人の上に立って政治をしょうと思う者が、わたくしの「原毀の説」を会得して、常にこれを心にたもって忘れないことである。
それで、その国家は、願いのように治めることができるであろう―っよ!。
(訳注) #11九段目
是故事修而謗興,德高而毀來。
このようなわけで、事業が次第によくでき上がってくるにしたがって、かえって誹謗中傷がおこりはじめ、人格が高くなるにしたがって、かえってそしり・妬みがやってくるのである。
○謗 人の欠点を悪くいう。誹謗中傷。
○毀 人の評判を傷つけやぶる。そしり・妬み。
嗚呼!士之處此世,而望名譽之光,
ああ、立派な人物がひろくこの世の中に住むようになっても、名誉心、功名心が光りかがやくことになる。
○士 高士。立派な人物。
○処世 世に住む。世に処してと読めは、世渡りをする意味になる。
○名誉之光 名誉心、功名心が光りかがやくこと。光は動詞に読む。
道德之行,難已!ということで、道義や人格が広く行われることを望むのではあるけれど、実に困難なことである。
『原道』において「道徳」を以下のように定義している。「博愛之謂仁,行而宜之之謂義。由是而之焉之謂道,足乎己無待於外之謂德。」
分け隔てなく人々を愛すること、これを仁という。そういう行為は適宜におこなうこと、これを義という。
この仁と義により通って行くこと、これを道という。人が生まれならに得ている性格、また学問や修養によって身つけ得たもの、外から何にもしないで与えられることを待たないものであること、これを徳という。徳は得、自身に得ている人格である
將有作於上者,得吾說而存之,
まさに、人の上に立って政治をしょうと思う者が、わたくしの「原毀の説」を会得して、常にこれを心にたもって忘れないことである。
○作於上 人々の上に立って仕事をする。政治をする。○存 心にたもちわすれない。
其國家可幾而理歟。
それで、その国家は、願いのように治めることができるであろう―っ!。
○可幾而理欺 望み通り治めることができるであろうよ。幾:期、こいねがう。理:治に同じ。欺:「―よ!」というほどの感嘆詞。
#1一段目-(1)
古之君子,其責己也重以周,其待人也,輕以約。
重以周,故不怠。輕以約,故人樂為善。
聞古之人有舜者,其為人也,仁義人也。
古代の君子といわれる成徳の人は、自分にたいして責めることは重くして、それをどんな事にもあまねく行きわたっているのである。
その君子は他人にたいして期待することにおいて、軽くて簡略なものとしているのである。
自己を責めることが厳重でありどんな事にもあまねく行きわたっているのであるから、それゆえ怠惰でないのである。
人に期待することが軽くてひかえめであるから、それゆえ人々は善をなすことを楽しむことができるのである。
聞くところによると、古代の五帝の舜があって、「その人物はひととなりがよく、仁という博愛の心があり、義という理性をもってすじみちを行う人である。」と。
#2一段目-(2)
求其所以為舜者,責於己曰:
「彼人也,予人也;彼能是,而我乃不能是。」
早夜以思,去其不如舜者,
就其如舜者。聞古之人有周公者,
其為人也,多才與藝人也。
その人が舜というすぐれた人格であるわけのもの、仁義を求めて、自分を責めていうのである。
「彼も人間であり、自分も人間である。」
「彼、舜はこの仁義を行うことができるのに、それなのに我々はこれができない。これではならぬ。」と。
朝晩これを思い求め、舜のようでない所から去ることである。
その舜のようである所に就くのである。聞くところでは、古の人に周公旦というものがあった。
その人物は心の働きである多才と多芸、学芸との多い人であった。
#3二段目
求其所以為周公者,責於己曰:
「彼人也,予人也;彼能是,而我乃不能是。」
早夜以思,去其不如周公者,就其如周公者。
舜,大聖人也,後世無及焉。
周公,大聖人也,後世無及焉。
是人也,乃曰:
「不如舜,不如周公,吾之病也。」
是不亦責於身者重以周乎。
古代の君子である、その周公の貴ばれるわけである才芸を求めて、自分を責めていう。
「彼も人間であり、自分も人間である。彼にはこれができるのに、自分はそれなのにこれができない。」と。
朝から晩に思い求めて、その周公のようできないとそこから去って、その周公のように才芸の多い方へと行くのである。
舜は大聖人であり、偉大な智徳の最高な人物である。
周公は大聖人である。後世にこれに及ぶものはいない。
これなる人であるが、それなのに、いう。
「舜のようでなく、周公且のようでないことが、自分の心配である。」という。
これはまた、わが身の行いを責めることの、重くて行き届いたことではないか。
#4三段目-(1)
其於人也,曰:「彼人也,
能有是,是足為良人矣。
能善是,是足為藝人矣。」
取其一,不責其二;
即其新,不究其舊;
恐恐然惟懼其人之不得為善之利。
その古代の君子が人に対するときにはいうのである、「あの人の事である。」
「あの人には、ここにいう善事があることである。これが善良な人とするに十分なことなのである。」
「この仕事を上手にすることができたということ。これは、多芸の人ということとするには十分である」ということなのだ。
「その一つを取りあげて、うまいか、うまくいかないか、その二つについて責めを問うことをしない。」
「その人が努力して新しく進んだところについて見て、その過去のいたらなかったところを追究しないことである。」
「心おそれてなにもできないでいることは、その人が善事をなす利便を得ないかもしれないことを心配することになる。」
#5三段目-(2)
一善易修也,一藝易能也;
其於人也,乃曰:
「能有是,是亦足矣!」
曰:「能善是,是亦足矣。」
不亦待於人者輕以約乎。
一つの善事はよく行いやすいものなのである。一つの技芸はできやすいものである。
それなのに、その人が他人に対するときにこういう。
「あの人にはこの能力があることができたのだから、これもまたこれだけで十分である」という。
そしていう、「これを立派におこなうことができたのだから、これでもまた十分である。」と。
これが他の人に期待することが軽くしてひかえめなことではなかろうか。
#6四段目
今之君子則不然。其責人也詳,其待己也廉。
詳,故人難於為善。廉,故自取也少。
己未有善,曰:「我善是,是亦足矣。」
己未有能,曰:「我能是,是亦足矣。」
外以欺於人,內以欺於心,
未少有得而止矣,不亦待其身者已廉乎。
今の君子はそうではない。今の君主は人を責める場合は詳細であり、ところが自分にたいしては期待することのハードルを低く設定する。
人をとがめ責めることにかんして微に入り細にいるもので、それ故人は善を為すことをはばかるようになる。欲が少ないから、それ故に自分が修得することは少ないのである。
自分にはまだ善行の積重ねがないのに、「自分はこれが上手なのだから、これで十分である」といい、
自分にはまだできるという実証を重ねたことがないのに、「自分はこれができるから、これで十分である」という。
これは外においては人をあざむくことであり、内においては自分自身の心をあざむくことである。
まだ少しも得ることがなくて中途半端で終るのである。それこそわが身に期待することが、はなはだ自分に甘いこと、やろうとする物事のハードルを低く設定するということではないだろうか。
#7五段目
其於人也,曰 :
「彼雖能是,其人不足稱也。
彼雖善是,其用不足稱也。」
舉其一,不計其十;
究其舊,不圖其新;
恐恐然惟懼其人之又聞也,是不亦責於人者以詳乎。
そのように中途半端な今の君子が人に対する場合のことをいう。
「彼はこのようにすることができるけれども、彼の人物はほめるに足らない。」
「彼はこのことは上手であるけれども、その働きはほめるに足らない」と。
その人の一つの不善を取りあげているのであり、その他の十の美点をはかることをしない。
またその人の過去の事を追究して、その人の新しく進歩したことをはかることをしないのである。
恐れにおそれて、ただその人の有名になったらどうしようということばかりをおそれるのである。だから、その人を責めることになるのであり、はなはだ詳密ではないことを責めるのである。
#8六段目
夫是之謂不以眾人待其身,而以聖人望於人,
吾未見其尊己也。
雖然,為是者,有本有原,
怠與忌之謂也。怠者不能修,
而忌者畏人修。吾常試之矣。
その人を責めることは、これをこそ、人並みの人間をもって自分自身に期待せずして、最高至上の聖人をもって他人に希望するのだということである。
これでは私には、その人が自分自身を尊んでいるとは見えないのである。
そうであるというけれども、このようにするのには、その本源があり、原因がある。
それはその人の心にある怠りと人の善をきらう心とをいうことである。
なまけ心のあるものは、身の行いをよくすることはできないし、人の善をいやがる者は、他人が行いを善くするのをおそれるのである。
私はこれを実地に試みたのである。
#9七段目
常試語於眾曰:「某良士,某良士。」
其應者,必其人之與也。
不然,則其所疏遠,不與同其利者也。
不然,則其畏也。
不若是,強者必說於言,懦者必說於色矣。
実際に試みてみると衆人に語っていう、「なにがしの人はよい人物であり、ある人はよい人物である」と。
その衆人の中で、それにたいしてそうだと答えるものは、必ずその人物のなかまである
そうでなければ、その人物とは関係が疎い人、遠い人であり、その人と利害をともにしないものである。
またそうでないとすれば、その中でその人物をおそれているということである。
このような三種の関係でないならは、気の強いものは必ず言葉に出して怒り、意気地のないものは必ず顔色に怒りをあらわすのである。
#10八段目
又嘗語二於衆小目、某非二良士 某非二良土山
其不應者、必其人之輿也。不然則其所疎遠、不輿同其利者也。不然則其畏也。
不若是、強者必説於言、儒者必説於色矣。
また試みに衆人、小者に告げて、なにがしは良い人物でない。あるいは誰それは良い人物でないというのである。
その衆人、小者の中で、それに対してその通りと答えないものは必ずその「某」の仲間である。
そうでなければその「某」と関係がうとく遠くて、利益を同じくしていないもの、仲間ではないである。
あるいは、そうでなければ其の中でその「某」をおそれているものである。
このような人々でなければ、気の強いものは言語に出して悦び、意気地のないものは顔色に悦びのようすをあらわすのである。
#11九段目
是故事修而謗興,德高而毀來。
嗚呼!士之處此世,而望名譽之光,
道德之行,難已!
將有作於上者,得吾說而存之,
其國家可幾而理歟。
このようなわけで、事業が次第によくでき上がってくるにしたがって、かえって誹謗中傷がおこりはじめ、人格が高くなるにしたがって、かえってそしり・妬みがやってくるのである。
ああ、立派な人物がひろくこの世の中に住むようになっても、名誉心、功名心が光りかがやくことになる。
ということで、道義や人格が広く行われることを望むのではあるけれど、実に困難なことである。
まさに、人の上に立って政治をしょうと思う者が、わたくしの「原毀の説」を会得して、常にこれを心にたもって忘れないことである。
それで、その国家は、願いのように治めることができるであろう―っよ!。
- テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
- ジャンル:学問・文化・芸術
- カテゴリ:韓愈 儒学論文
- CM:0
最新記事
- 長い間ブログを休校している件について (09/01)
- 李太白集 397《太白巻23-02效古二首其一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7573 (04/04)
- 李太白集 396《太白巻二十二40憶東山二首 其二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7568 (04/03)
- 李太白集 395《太白巻二十二39憶東山二首 其一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7563 (03/30)
- 李太白集 394《太白巻二十08杜陵絕句》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7558 (03/29)
- 李太白集 393《太白巻十九18朝下過盧郎中敘舊游》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7553 (03/28)
- 李太白集 392《太白巻十八12金門答蘇秀才》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7548 (03/27)
- 太白集 391《太白巻十九17下終南山過斛斯山人宿置酒》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7543 (03/26)
- 太白集 390《太白巻十六33 送長沙陳太守,二首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7538 (03/25)
- 李太白集 389《太白巻十六32 送長沙陳太守,二首之一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7533 (03/24)
- 李太白集 388《太白巻十六26 送祝八之江東賦得浣紗石》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7528 (03/23)
- 李太白集 387《太白巻十六23-《送白利從金吾董將軍西征》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7523 (03/22)
- 李太白集 386《太白巻十六21 送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7508 (03/19)
- 李太白集 385《太白巻十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7503 (03/18)
- 李太白集 384《太白巻十六18-2 送外甥鄭灌從軍,三首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7498 (03/17)
- 李太白集 383《太白巻十六18-1 送外甥鄭灌從軍,三首之一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7493 (03/16)
- 李太白集 382《太白巻十六13 送張遙之壽陽幕府》 (壽陽信天險,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7488 (03/15)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/14)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/13)
- 李太白集 380《太白巻十六08 送竇司馬貶宜春》 (天馬白銀鞍,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7478 (03/12)
- 李太白集 379《太白巻十四34 贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7473 (03/11)
- 李太白集 378《太白巻十二06-夕霽杜陵登樓寄韋繇》 (浮陽滅霽景) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7468 (03/10)
- 李太白集 377《太白巻巻十二05-《望終南山寄紫閣隱者》(出門見南山) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7463 (03/09)
- 李太白集 376《太白巻八36 贈盧徵君昆弟》 (明主訪賢逸) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7458 (03/08)
- 李太白集 375《太白巻八22 贈郭將軍》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7453 (03/07)
- 李太白集 374《太白巻六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》 (高堂粉壁圖蓬瀛) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7448 (03/06)
- 李太白集 373《太白巻六07 西嶽雲臺歌送丹丘子》 (西嶽崢嶸何壯哉) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7443 (03/05)
- 李太白集 372《太白巻六05 玉壺吟》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7438 (03/04)
- 李太白集 371《太白巻卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7433 (03/03)
- 李太白集 370《太白巻五 24-秋思》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7428 (03/02)