317 《韓愈『淮西を平らぐの碑』について》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3911
- 2014/03/18
- 00:55
814年元和九年に呉少陽が死ぬと、その部下は勝手に少陽の子元済を立てて、朝廷の任命を請うて来た。朝廷は許さなかったので遂に叛いた。憲宗は裴度の意見を用いて之を討つことに決した。裴度は淮西宣慰処置使、兼彰義軍節度使となったが、韓愈を行軍司馬に任じた。
淮水西方の土地、蔡の地を淮西という。この地方の賊が平定すると、韓愈は裴度に随って朝廷に帰り、功を以て刑部侍即を授けられ、「准西を平ぐる碑」を作れとの詔を受けた。これは韓愈一生の最も重大な作品で、苦心努力の結晶であった。彼の代表作の中でも有数のものである。主旨は惟西の平定によって、憲宗の天下支配が成ったことを頌するのである。
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『淮西を平らぐの碑』について | ||||||
1. 同時期の関連した詩 | ||||||
元和十二年七月、裴度は門下侍郎同平章事兼彰義節度使となり淮西宜慰招討処置使に充当せられた。つまり呉元済討伐の最高指揮官となったわけである。そうして刑部侍郎の馬総が宜慰副使。韓愈は彰義行軍司馬判官書記、つまり従軍副官を命ぜられた。河南道許州穎川郡の郾城が本営に決定した。この詩はその本営地に向う途中、河南省宜陽県の女几山を通過したとき、裴度が作った「東征途経女几山下」という詩に唱和し、征討軍の必勝を確信した作。この時の裴度の作はのこっていない。 | ||||||
過鴻溝 | ||||||
送張侍郎 | ||||||
贈刑部馬侍郎 | ||||||
奉和裴相公東征,途經女几山下作 | ||||||
郾城晚飲奉贈副使馬侍郎及馮李二員外 | ||||||
酬別留後侍郎〔蔡平,命馬總為留後。〕 | ||||||
同李二十八夜次襄城 | ||||||
同李二十八員外從裴相公野宿西界 | ||||||
『同李二十八員外從裴相公野宿西界』 四面星辰著地明,散燒煙火宿天兵。 不關破賊須歸奏,自趁新年賀太平。 | ||||||
過襄城 | ||||||
宿神龜招李二十八、馮十七 | ||||||
次硤石 | ||||||
和李司勳過連昌宮 | ||||||
次潼關先寄張十二閣老使君〔張賈也。〕 | ||||||
次潼關上都統相公 | ||||||
桃林夜賀晉公 | ||||||
晉公破賊回重拜台司,以詩示幕中賓客,愈奉和 | ||||||
2。『淮西を平らぐの碑』 | ||||||
平淮西碑 -#0 | ||||||
平淮西碑 -#1 | ||||||
平淮西碑 -#2 | ||||||
平淮西碑 -#3 | ||||||
平淮西碑 -#4 | ||||||
平淮西碑 -#5 | ||||||
平淮西碑 -#6 | ||||||
平淮西碑 -#7 | ||||||
平淮西碑 -#8 | ||||||
平淮西碑 -#9 | ||||||
平淮西碑 -#10 | ||||||
平淮西碑 -#11 | ||||||
平淮西碑 -#12 | ||||||
平淮西碑 -#13 | ||||||
平淮西碑 -#14 | ||||||
平淮西碑 -#15 | ||||||
平淮西碑 -#16 | ||||||
平淮西碑 -#17 | ||||||
平淮西碑 -#18 | ||||||
平淮西碑 -#19 | ||||||
平淮西碑 -#20 | ||||||
平淮西碑 -#2 | ||||||
平淮西碑 -#22 | ||||||
平淮西碑 -#23 | ||||||
平淮西碑 -#24-1 | ||||||
平淮西碑 -#24-2 | ||||||
3.李商隠の『淮西を平らぐの碑』についての詩 | ||||||
韓碑 #1 | 元和天子神武姿 | |||||
韓碑 #2 | ||||||
韓碑 #3 | ||||||
韓碑 #4 | ||||||
韓碑 #5 | ||||||
1. これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元适と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。 2. 憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。 3. 裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。 4. 四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。 5. 行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。 6. 李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。 7. 憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、 ・また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。 ・韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。 ・「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」 ・「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。 ・その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。 ・かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。 8. 碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。 9. しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。 |
4.『平淮西碑』 に関する韓愈の年譜 | ||||||
815年 | 元和10年;48歳 5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。 | |||||
816年 | 元和11年;49歳 正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作 | |||||
817年 | 元和12年;50歳 7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。 8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。 10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。 11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。 12月16日、長安へ帰る。 21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作 | |||||
818年 | 元和13年;51歳 正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」 | |||||
819年 | 元和14年;52歳 正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。 3月25日、潮州に着任。 10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」 *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。 7月、大赦。袁州に転任。 | |||||
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