319 《韓愈哲学 儒家道徳の根源・本質を説く論文。『論佛骨表』》 韓愈kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3921
- 2014/03/20
- 00:17
高級官僚のなかでの韓愈の地位は学問・文学のスペシャリストとして万人が認めるものだったうえに、准西の乱での働きによって、文書力のみならず、政治的手腕もある男だと人々に感じさせたのだ。彼の地位はますます安泰になったということができる。元和十三年(818)四月、礼楽に関する規定や慣習を整理、改正する詳定礼楽使に鄭余慶が任命されたときも、特に奏請して韓愈を副使に兼務させている。このことは朝廷内、官界での韓愈の地位が安定したことを示すものである。
319 《韓愈哲学 儒家道徳の根源・本質を説く論文。『論佛骨表』》 韓愈 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3921 |
上古の帝王たち、三皇五帝はみな百歳前後の長命だったのに(神話時代なのでみな長命なことになっているのだが、韓愈の時代には史実と信ぜられていた)、仏教が渡来してからは、歴代の皇帝のなかにはあつく仏を信じた人があったにもかかわらず、すべて短命であり、非業の最期をとげた人さえいる。仏を信じても、福が授かるわけではないのだ。第二に、釈迦とはもともと夷狄の人であって、彼が生前に中国を訪れたとしたら、かりに歓迎したとしても、夷狄が中国へ来たときの礼法以上には出ないであろう。ましてその骨など、あがめるには及ばぬものであるから、すみやかに焼きすてていただきたい。
○佛骨を論ずる表について
長安のずっと西に鳳翔(安史の乱の際、粛宗が行在所を設置、杜甫が長安で安史軍に軟禁されていたところから脱出して駆けつけたところ)があり、そこの法門寺という寺に釈尊の指の骨と伝えられるものがあって、普段は大切にしまわれているのだが、三十年ごとに開帳があり、誰でも拝むことができる。
その年は天下太平、五穀豊穣だと伝えられていたが、元和十四年(819)がその開帳の年にあたった。正月、憲宗は法門寺へ勅使を送って仏骨を迎えさせ、宮中で三日間供養してから長安の諸寺に回すことを命じ、市民一般に礼拝を許した。人々は争って仏骨を拝み、後生を厭い、喜捨をしすぎて倒産する老さえ出るしまつだった。
孔孟の「道」を守る韓愈がこれを苦々しく見ていたことは、いうまでもない。これというのも皇帝が仏教を信仰するので、万民がそれにならうのだ。そう思った韓愈は、「仏骨を論ずる表」という意見書を憲宗皇帝にささげ、仏舎利を捨てて仏教の信仰を停止せよと論じた。
その理由は、二つの点に要約することができる。一つは、上古の帝王たち、三皇五帝はみな百歳前後の長命だったのに(神話時代なのでみな長命なことになっているのだが、韓愈の時代には史実と信ぜられていた)、仏教が渡来してからは、歴代の皇帝のなかにはあつく仏を信じた人があったにもかかわらず、すべて短命であり、非業の最期をとげた人さえいる。仏を信じても、福が授かるわけではないのだ。第二に、釈迦とはもともと夷狄の人であって、彼が生前に中国を訪れたとしたら、かりに歓迎したとしても、夷狄が中国へ来たときの礼法以上には出ないであろう。ましてその骨など、あがめるには及ばぬものであるから、すみやかに焼きすてていただきたい。
これを読んだ憲宗は激怒して、韓愈の上奏文を宰相たちに見せたうえ、死刑にせよと命じた。宰相の裴度、崔群たちがとりなすと、憲宗は、仏教が渡来してからの皇帝は全部短命だったとは、臣下たる者の口にすべき言葉ではないと言ったものだ。憲宗は不老不死の薬の擒になっていた皇帝である。仏教を信仰した皇帝はみな短命だなどと不遜な物言いに対し、また、作文力のうまさに、気分を害したのである。本気で韓愈を死刑にしたがっていたわけではないので、デキレースであって、裴度たちのとりなしを受け入れた形で韓愈の死刑を免じ、かわりに潮州へ流すこととした。形式上は潮州刺史に任ずる旨の辞令を出し、都から追ったのである。潮州は今の広東省に属し、福建省との境に近い海岸の町で、当時においては未開野蛮の土地である。
その辞令が出たのは元和十四年正月十四日のことで、実質上は流罪なのだから、とりあっかいも罪人なみとなることは、やむを得ない。韓愈の屋敷へいきなり役人が来て、その場で出発を催促するのであった。そして韓愈が出て行ったあとで、家族も長安から追放の処分を受け、韓愈のあとを追って旅に出た。十二歳になる四女の挐はたまたま病中であったが、これも病床に残ることは許されず、ともに旅へと出たのであった(この娘はついに旅の途中で死んでしまい、韓愈の一行はその遺体を道はたに仮埋葬して、旅を続ける)。
仏教のおしえに仕えることが段々と謹みて敬われるようになったが、王朝の年代は最も短いものでしかなかったのである。
論佛骨表
仏教は夷秋の教えであって、中国の先王の教えではない。故にこれを奉ずると禍いがあって福がない。これを排絶するがよいという主旨の上表文である。
論佛骨表
#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳,自後漢時流入中國,上古未嘗有也。
#2
昔者黃帝在位百年,年百一十歲;少昊在位八十年,年百歲;顓頊在位七十九年,年九十八歲;帝嚳在位七十年,年百五歲;帝堯在位九十八年,年百一十八歲;帝舜及禹,年皆百歲。此時天下太平,百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。
#3
其後,殷湯亦年百歲,湯孫太戊在位七十五年,武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,推其年數,蓋亦俱不減百歲,周文王年九十七歲,武王年九十三歲,穆王在位百年。此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。
#4
漢明帝時,始有佛法,明帝在位,才十八年耳。其後亂亡相繼,運祚不長。宋、齊、梁、陳、元魏以下,事佛漸謹,年代尤促。惟梁武帝在位四十八年,前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,晝日一食,止於菜果。其後竟為侯景所逼,餓死台城,國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。由此觀之,佛不足事,亦可知矣。
#5
高祖始受隋禪,則議除之。當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、古今之宜,推闡聖明,以救斯弊,其事遂止。臣常恨焉。
#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,數千百年已來,未有倫比。即位之初,即不許度人為僧尼、道士,又不許創立寺觀。臣嚐以為高祖之誌,必行於陛下之手,今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!
#7
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,禦樓以觀,舁入大內,又令諸寺遞迎供養。臣雖至愚,必知陛下不惑於佛,作此崇奉,以祈福祥也。直以年豐人樂,徇人之心,為京都士庶設詭異之觀,戲玩之具耳。安有聖明若此,
#8
然百姓愚冥,易惑難曉,苟見陛下如此,將謂真心事佛。皆云:「天子大聖,猶一心敬信;百姓何人,豈合更惜身命!」焚頂燒指,百十為群,解衣散錢,自朝至暮,轉相仿效。惟恐後時,老少奔波,棄其業次。若不即加禁遏,更曆諸寺,必有斷臂臠身,以為供養者。傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
#9
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,衣服殊制,口不言先王之法言,身不服先王之法服,不知君臣之義、父子之情。假如其身至今尚在,奉其國命,來朝京師;陛下容而接之,不過宣政一見,禮賓一設,賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑眾也。
#10
況其身死已久,枯朽之骨,凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」古之諸侯行吊於其國,尚令巫祝先以桃茢祓除不祥,然後進吊。今無故取朽穢之物,親臨觀之,巫祝不先,桃茢不用。群臣不言其非,禦史不舉其失,臣實恥之。
#11
乞以此骨付之有司,投諸水火,永絕根本,斷天下之疑,絕後代之惑。使天下之人,知大聖人之所作為,出於尋常萬萬也。豈不盛哉!豈不快哉!佛如有靈,能作禍祟,凡有殃咎,宜加臣身。上天鑒臨,臣不怨悔。無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。
論佛骨表 (2)#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳。
家臣である韓愈が申しあげます、拝伏し謹んで思んばかりますのに、仏の教えは異民族の夷秋の一つの教えにすぎず、
自後漢時流入中國。
後漢の時初めて入り、それからから流布していってわが中国にひろがったのであります。
上古未嘗有也。
上古時代にはまだかつて無かったのでありす。
(3)#2
昔者黃帝在位百年,年百一十歲;
むかし五帝のはじめの黄帝は在位百年、年は百十歳、
少昊在位八十年,年百歲;
少昊は在位八十年、年は百歳、
顓頊在位七十九年,年九十八歲;
顓頊は在位七十九年、年九十八歳、
帝嚳在位七十年,年百五歲;
帝嚳は在位七十年、年百五歳。
帝堯在位九十八年,年百一十八歲;
帝堯は在位九十八年、年百十八歳、
帝舜及禹,年皆百歲。此時天下太平,
帝舜及び夏の萬王は年は皆百歳であった。この時には天下は太平に治まり、
百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。
一般人民は安楽に暮らし、長命であった。そうではあるが、中国にまだ仏教はなかったのである。これらの帝王の長寿、天下の太平長寿は仏教とは関係がないのである。
#3
其後,殷湯亦年百歲,
その後殷の湯もまた年百歳、
湯孫太戊在位七十五年,
湯王の孫大成は在位七十五年、
武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,
武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、
推其年數,蓋亦俱不減百歲,
その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。
周文王年九十七歲,
周の文王は年九十七歳、
武王年九十三歲,穆王在位百年。
武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。
此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。
この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。
(5)#4-1
漢明帝時,始有佛法,
後漢の明帝の時、はじめて仏法が存在したが、
明帝在位,才十八年耳。
明帝は帝位に在ることわずかに十八年だけであった。
其後亂亡相繼,運祚不長。
そして、その後、国は乱れたり、亡んだりすることが相継いだのであり、国運も帝位も長くなかったのである。
宋、齊、梁、陳、元魏以下,
南朝の宋・斉・梁・陳や北朝の元魏より以下、
事佛漸謹,年代尤促。
仏教のおしえに仕えることが段々と謹みて敬われるようになったが、王朝の年代は最も短いものでしかなかったのである。
(6)#4-2
惟梁武帝在位四十八年,
ただ梁の武帝は在位四十八年で、
前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,
その間前後あわせて三度も身を捨て仏に献げて、僧侶となり、祖先のみたまやの祭りにも犠牲の肉を用いず、
晝日一食,止於菜果。
昼の間は一食、それもただ野菜や果物だけであった。
其後竟為侯景所逼,餓死台城,
その後とうとう侯景のために迫られて、台城の中で餓死し、国もまたついで滅んでしまった。
國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。
仏につかえて福を求めたはずなのに、すなわち、さらに一層の禍を得たのであった。
由此觀之,佛不足事,亦可知矣。
これをもって観れば、仏は仕えるだけのねうちがないこともまたよくわかるのである
(7)#5
高祖始受隋禪,則議除之。
唐の高祖皇帝がはじめて隋からの禅譲を受けて天子の位に即かれたときには、この仏教を除き去ろうと諮儀相談された。
當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、
当時の群臣は才力も見識も遠くを見抜くことができず、深く儒家の先王の道ともとめた。
古今之宜,推闡聖明,
古今に通ずる宜しい処置を知って、聖徳明智の高祖の御心を推し広め明らかにした。
以救斯弊,其事遂止。
この仏教の弊害を救うことができなかったため、その事は遂に取り止めになった。
臣常恨焉。
私は平素これを残念に思っていた。
(8)#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,
伏して謹み思うに、睿聖文武皇帝陛下は、神のごとくひいでて武勇におわしますのである。
數千百年已來,未有倫比。
それは幾千年幾百年以来より、まだそのたぐいの無いおかたであるのだ。
即位之初,即不許度人為僧尼、道士,
御即位のはじめに、すぐさま人を俗世から離れさせて僧尼や道士とすることを許さないことである。
又不許創立寺觀。
臣嚐以為高祖之誌,必行於陛下之手,
私は常に思っていた、高祖の仏教を険こうとの御志が陛下の手で行われるであろう、と。
今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!
今たとい、まだ、すぐさま行うことはできなくとも、どうしてその仏教を勝手にふるまわせ、ますます盛んにならせてよいであろうか、と。
(9)#7-1
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,
今聞くところでは、陛下は多数の僧をして仏骨を鳳翔に抑えさせられた。
禦樓以觀,舁入大內,
陛下は楼上にお出ましになってこしれを御覧になり、それを大内裡にかつぎ入れられた。
又令諸寺遞迎供養。
また諸寺をして次々と迎えて供養させなさるとのことであった。
臣雖至愚,必知陛下不惑於佛、
私は至って愚かではあるけれども、きっと陛下は仏に惑ってこのようにあがめお仕えなされたのだ。
作此崇奉,以祈福祥也。
それでもって福や目出度いことを祈りをされるというのではないことはわかっている。(
(10)#7-2
直以年豐人樂,徇人之心,
ただ、年のみのりが豊かで人民が楽しんでいるので、人々の心に従って、
為京都士庶設詭異之觀,戲玩之具耳。
長安の士人、庶民のために、あやしい見せ物や、たわむれもてあそびのための道具を設けなさっただけである。
安有聖明若此,而肯信此等事哉!
このような聖徳明智のお方でありながら、どうしてこれらのあやしい事を信じることを承知なさることがあろうか。
(11)#8-1
然百姓愚冥,易惑難曉,
しかし一般人民は愚かで知が明らかでないので、惑い易く、さとし難いのである。
苟見陛下如此,將謂真心事佛。
いやしくも考えるに、陛下がこのようになさるのを見れば、それはまさに本心から仏に仕えなきると思うのである。
皆云:「天子大聖,猶一心敬信;
だれも皆いう「天子の大聖人が、やはり一心に仏を敬い信じておられる、ということ。
百姓何人,豈合更惜身命!」
一般人民であれば何人に至るまでの者、それは取るに足らぬ微力なものであるとして、どうしてこの上身も命も惜しむべきであるとされるのであろうか、」と。
(12)#8-2
焚頂燒指,百十為群,
頭の頂を火に焼き、指の先を焼いて仏を信心する誠を示したり、十人、百人と群れをなしたりする。
解衣散錢,自朝至暮,
衣服を脱ぎ、銭をまいて仏にそなえ、朝から暮れに至るまで仏のことばかり、
轉相仿效。惟恐後時,
それをいよいよ次から次へとお互いに倣い真似て伝える、ただ、おくれることを恐れるというし、
老少奔波,棄其業次。
老人も若者も奔る波のように仏寺に押し寄せて、そのすべき仕事を棄ててしまうという。
若不即加禁遏,更曆諸寺,
若し直ちに禁止を加えずして、仏骨が更に諸寺を順に廻るならば、
必有斷臂臠身,以為供養者。
必ずわが臂を断ち、身を斬りさいなんで仏に供養をするものがあるであろう。
傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
風習・習俗をそこないやぶって、四方の人々に笑いを伝えひろめることになっては、陛下のために小さな事件ではないのである。
(13)#9-1
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,
一体、仏陀はもともと異民族の人である。中国と言語が通じていないのだ。
衣服殊制,口不言先王之法言,
衣服も作り方が異なり、口に先王の礼法の言説をいいわしないのだ。
身不服先王之法服,
身に先王の制定した服を着けず、
不知君臣之義、父子之情。
君臣の道である義理、父子の間の情愛を知らない。
(14)#9-2
假如其身至今尚在,奉其國命,
たといその身が今に至るまでまだ生きていて、その国王の命を受けて
來朝京師;陛下容而接之,
都長安に来てお目見えしても、陛下は受け入れてもてなしてくれるのに、
不過宣政一見,禮賓一設,
宣政殿で一度会見され、礼賓殿でひとたび賜宴を設けられるもので、
賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑眾也。
衣服ひとかさねを賜り、護衛してこれを国境から出しておやりになるだけで、これを礼拝して民衆をまどわせるようなことはなさらないであろう。
(15)#10-1
況其身死已久,枯朽之骨,
まして釈迦の身は死んで随分久しときがたっている。その枯れ朽ちた骨なのである。
凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
不吉なけがれたものの残余である仏舎利などを、どうして宮城に入れてよろしいであろうか。
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」
孔子は言っている、「神や死者の霊魂は敬ってあなどらず、遠ざかってけがさないようにすることだ」と。
古之諸侯行吊於其國,
古代の諸侯は自分の国の中で弔問をする場合にも、
尚令巫祝先以桃茢祓除不祥,然後進吊。
やはり巫(みこ)や祝(かんなぎ)に命じて、その前に、桃や茢(葦の穂)を持って、不吉を祓い除かせて、そのあとで進んで弔ったのである。
(16)#10-2
今無故取朽穢之物,親臨觀之,
今は故なくして朽ち穢れた仏骨を取られ、天子みずからその場に行って御覧になった。
巫祝不先,桃茢不用。
巫や祝【かんなぎ】が先に立っているものの、桃の木や葦の穂を用いて祓いをしないのだ。
群臣不言其非,
群臣はそれがよくないとも言はず、
禦史不舉其失,臣實恥之。
御史もその過ちを取り挙げて責めもしない。私はまことにこれを恥ずかしく思うのである。
(17)#11-1
乞以此骨付之有司,投諸水火,
どうかこんな骨は役人に下げ渡されることです、そしてこれを水か火に投げ捨てることです。
永絕根本,斷天下之疑,絕後代之惑。
これから先、永く仏教がひろく通ずることの根本を絶つこと、天下に欺瞞がひろがることを断絶すること、そして、後世に疑惑が伝わらぬように断つことなのです。
使天下之人,知大聖人之所作為,
天下の人々をして大聖人天子のなされる所は、世の常の人々をはるかに凌いでいるということを知らしめるのです。
出於尋常萬萬也。
天子が上に出ること万々倍の常識であることを知らしめて頂きたい。
豈不盛哉!豈不快哉!
これは何と立派なことではないか。何と心よいことではないか。
(18)#11-2
佛如有靈,能作禍祟,
仏がもし霊力があって、禍やたたりをなすことができるならそうなさればよい。
凡有殃咎,宜加臣身。
およそわざわいがあるということでおとがめがあるならば、私のこの身にお加えなさるがよろしい。
上天鑒臨,臣不怨悔。
上天の神も上からこのわたしを見下ろしておられる。私は臣下として首をはねられても怨んだり悔いたりはいたしません。
無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
私は感激とねんごろなまごころの至りに堪えられないので、謹んでこの上表文を奉り申し上げる、
臣某誠惶誠恐。
誠に申し訳なく誠心誠意申し上げる次第である。
- テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
- ジャンル:学問・文化・芸術
- カテゴリ:韓愈 儒学論文
- CM:0
最新記事
- 長い間ブログを休校している件について (09/01)
- 李太白集 397《太白巻23-02效古二首其一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7573 (04/04)
- 李太白集 396《太白巻二十二40憶東山二首 其二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7568 (04/03)
- 李太白集 395《太白巻二十二39憶東山二首 其一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7563 (03/30)
- 李太白集 394《太白巻二十08杜陵絕句》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7558 (03/29)
- 李太白集 393《太白巻十九18朝下過盧郎中敘舊游》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7553 (03/28)
- 李太白集 392《太白巻十八12金門答蘇秀才》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7548 (03/27)
- 太白集 391《太白巻十九17下終南山過斛斯山人宿置酒》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7543 (03/26)
- 太白集 390《太白巻十六33 送長沙陳太守,二首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7538 (03/25)
- 李太白集 389《太白巻十六32 送長沙陳太守,二首之一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7533 (03/24)
- 李太白集 388《太白巻十六26 送祝八之江東賦得浣紗石》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7528 (03/23)
- 李太白集 387《太白巻十六23-《送白利從金吾董將軍西征》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7523 (03/22)
- 李太白集 386《太白巻十六21 送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7508 (03/19)
- 李太白集 385《太白巻十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7503 (03/18)
- 李太白集 384《太白巻十六18-2 送外甥鄭灌從軍,三首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7498 (03/17)
- 李太白集 383《太白巻十六18-1 送外甥鄭灌從軍,三首之一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7493 (03/16)
- 李太白集 382《太白巻十六13 送張遙之壽陽幕府》 (壽陽信天險,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7488 (03/15)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/14)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/13)
- 李太白集 380《太白巻十六08 送竇司馬貶宜春》 (天馬白銀鞍,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7478 (03/12)
- 李太白集 379《太白巻十四34 贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7473 (03/11)
- 李太白集 378《太白巻十二06-夕霽杜陵登樓寄韋繇》 (浮陽滅霽景) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7468 (03/10)
- 李太白集 377《太白巻巻十二05-《望終南山寄紫閣隱者》(出門見南山) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7463 (03/09)
- 李太白集 376《太白巻八36 贈盧徵君昆弟》 (明主訪賢逸) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7458 (03/08)
- 李太白集 375《太白巻八22 贈郭將軍》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7453 (03/07)
- 李太白集 374《太白巻六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》 (高堂粉壁圖蓬瀛) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7448 (03/06)
- 李太白集 373《太白巻六07 西嶽雲臺歌送丹丘子》 (西嶽崢嶸何壯哉) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7443 (03/05)
- 李太白集 372《太白巻六05 玉壺吟》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7438 (03/04)
- 李太白集 371《太白巻卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7433 (03/03)
- 李太白集 370《太白巻五 24-秋思》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7428 (03/02)