327 《韓愈が尊敬と信頼していた人物。韓愈門下の中心人物「李翱」》 韓愈kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3961
- 2014/03/28
- 00:03
327 《韓愈が尊敬と信頼していた人物。韓愈門下の中心人物「李翱」》 韓愈 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3961 |
韓愈が尊敬と信頼していた人物。 | ||||||
韓愈門下の中心人物「 李翱 」 | ||||||
李 翺(り こう、772年 – 841年)は、唐代中国の文人。字は習之。西涼の武昭王李暠の子孫とも、北魏の尚書左僕射であった李沖の10世の孫とも伝えられる。 | ||||||
汴州陳留(現在の河南省開封市)人で、本貫は隴西狄道(現在の甘粛省定西市臨洮県)である。 | ||||||
貞元14年(798年)に進士となる。元和年間の初めに国子博士に任命され、元和15年(820年)に史館修撰となり考功員外郎と兼任する。後に朗州と廬州刺史へと左遷され、大和元年(826年)に文宗が即位すると入朝して諫議大夫となり、すぐに知制誥に復帰する。大和7年(833年)に潭州刺史、大和9年(835年)から湖南視察使・検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度使を経て襄陽(または会昌中鎮)に赴任中に没した。諡は文公。 | ||||||
李翱は韓愈の高弟であり、士を好むところが似ていた。人に一善一能ある時は必ず賞賛し、賢者を推挙する機会を常に求めていたという。 | ||||||
朱伯崑は、「人性本善」という発想は李翺の『復性書』に始まると指摘する。韓愈から排仏の主張を受けついではいるが、彼自身の中では仏教と道教の思想を融合し、むしろ禅宗の達観に接近している。薬山惟儼禅師に贈った詩もあるが、難解で観念的な作品である。 | ||||||
若い頃は皇甫湜とともに韓愈の文章に学ぶ。皇甫湜が韓愈の奇抜な一面を表すのに対し、李翺はその平易な一面を代表するといわれた。ちなみに李翺は韓愈の生前に墓碑銘を委嘱されている。著作は『李文公文集』にまとめられている。 | ||||||
798年貞元14年 31歳 | ||||||
26 | 遠遊聯句【案:韓愈、李翱、孟郊】 | 別腸車輪轉, | ||||
809年元和4年 42歳 | ||||||
175 | 送李翺 #1 | 廣州萬里途, | ||||
176 | 送李翺 #2 | |||||
815年元和10年 48歳 | ||||||
259 | 送李六協律歸荊南【李翱】 | 早日羈遊所, | ||||
唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。
送李翺 韓愈
<李翺を送別する>
題注:翺娶愈兄弇之女,與愈善。
<題の注釈>
李翺に韓愈が兄韓弇の娘を娶らせている、李翺は韓愈の愛弟子である。
楊於陵爲廣州刺史,表翶佐其府。
戸部侍郎の楊於陵が広州刺史嶺南節度使に任ぜられた。李翺は楊の幕府を副官として助けることになった。
廣州萬里途,山重江逶迤。
廣州への道は果てしなく遠く万里のかなたである。山は幾重にも連なり長江の流れを曲り曲がって遙か先である。
行行何時到,誰能定歸期。
(私が陽山にむかうときもそうだった。)行進し、更にまた行く、一体いつ着くのだろうという感じであり、まして誰が帰って來る日の約束をすることが出来ようか。
揖我出門去,顏色異恒時。
私に挨拶をして門を出て行こうとしている、愛弟子の顔色がいつもの色とは違って見える。
雖云有追送,足跡絕自茲。
ここにおいて見送るひとはいること居るというものではあるけれども、互いの足取りについては今日かぎりで通い合うことはないのだ。
人生一世間,不自張與弛。
人の生き方というものは一生の間貫くものである。その中では緊張と弛緩とを経験しないわけにはゆかないのだ。
譬如浮江木,縱橫豈自知。
たとえば人生は大江に浮かぶ木のようなものであるし、身を縦にしたり、横にすることもどうして自分でしたいようになるというのであろうか
寧懷別時苦,勿作別後思。
その中でむしろ、別れの時の苦しみはやむをえないことであるし、勿論、大切なことは別れの後にいつまでもくよくよ思わないことである。
翺 愈の兄 弇【えん】の女【むすめ】を娶とる,愈の善に與【くわわ】る。
楊於陵は廣州刺史に爲く,翶 其府を佐くるを表す。
廣州【こうしゅう】萬里の途【みち】、山は重なり 江は逶迤【きい】たり。
行き行きて何れの時にか到らむ、誰か能く歸期【きき】を定めむや。
我に揖【いつ】して門を出で去くとき、顔色 恒【つね】の時に異れり。
追送【ついそう】有りと云ふと雖も、足跡 茲【これ】より絶えむ。
人 生れて一世【いつせ】の間、張と施とに自らざらむや。
譬【たと】へば江に浮べる木の如し、縱橫 豈に自ら知らむや。
寧ろ別時の苦を懐【いだ】くとも、別後の思を作すこと勿れ。
現代語訳と訳註
(本文) 送李翺 韓愈
題注:翺娶愈兄弇之女,與愈善。
楊於陵爲廣州刺史,表翶佐其府。
廣州萬里途,山重江逶迤。
行行何時到,誰能定歸期。
揖我出門去,顏色異恒時。
雖云有追送,足跡絕自茲。
人生一世間,不自張與弛。
譬如浮江木,縱橫豈自知。
寧懷別時苦,勿作別後思。
(下し文)
翺 愈の兄 弇【えん】の女【むすめ】を娶とる,愈の善に與【くわわ】る。
楊於陵は廣州刺史に爲く,翶 其府を佐くるを表す。
廣州【こうしゅう】萬里の途【みち】、山は重なり 江は逶迤【きい】たり。
行き行きて何れの時にか到らむ、誰か能く歸期【きき】を定めむや。
我に揖【いつ】して門を出で去くとき、顔色 恒【つね】の時に異れり。
追送【ついそう】有りと云ふと雖も、足跡 茲【これ】より絶えむ。
人 生れて一世【いつせ】の間、張と施とに自らざらむや。
譬【たと】へば江に浮べる木の如し、縱橫 豈に自ら知らむや。
寧ろ別時の苦を懐【いだ】くとも、別後の思を作すこと勿れ。
(現代語訳)
<題の注釈>
李翺に韓愈が兄韓弇の娘を娶らせている、李翺は韓愈の愛弟子である。
戸部侍郎の楊於陵が広州刺史嶺南節度使に任ぜられた。李翺は楊の幕府を副官として助けることになった。
<李翺を送別する>
廣州への道は果てしなく遠く万里のかなたである。山は幾重にも連なり長江の流れを曲り曲がって遙か先である。
(私が陽山にむかうときもそうだった。)行進し、更にまた行く、一体いつ着くのだろうという感じであり、まして誰が帰って來る日の約束をすることが出来ようか。
私に挨拶をして門を出て行こうとしている、愛弟子の顔色がいつもの色とは違って見える。
ここにおいて見送るひとはいること居るというものではあるけれども、互いの足取りについては今日かぎりで通い合うことはないのだ。
人の生き方というものは一生の間貫くものである。その中では緊張と弛緩とを経験しないわけにはゆかないのだ。
たとえば人生は大江に浮かぶ木のようなものであるし、身を縦にしたり、横にすることもどうして自分でしたいようになるというのであろうか
その中でむしろ、別れの時の苦しみはやむをえないことであるし、勿論、大切なことは別れの後にいつまでもくよくよ思わないことである。
(訳注)
送李翺
翺娶愈兄弇之女,與愈善。
李翺に韓愈が兄韓弇の娘を娶らせている、李翺は韓愈の愛弟子である。
・送李翺 巻四。李 翺(り こう、772年 – 841年)は、唐代中国の文人。字は習之。西涼の武昭王李暠の子孫とも、北魏の尚書左僕射であった李沖の10世の孫とも伝えられる。韓愈の高弟であり、士を好むところが似ていた。人に一善一能ある時は必ず賞賛し、賢者を推挙する機会を常に求めていたという。
・翺娶愈兄弇之女,與愈善。 李翺は、韓愈が兄韓弇の娘を娶らせた愛弟子である。
楊於陵爲廣州刺史,表翶佐其府。
戸部侍郎の楊於陵が広州刺史嶺南節度使に任ぜられた。李翺は楊の幕府を副官として助けることになった。
・表翶佐其府 元和三年、戸部侍郎の楊於陵が広州刺史嶺南節度使に任ぜられた。揚於陵は、李翺を副官としたいと乞うて許された。その年の十月、揚於陵の手紙をうけとった李翺は、翌四年正月、妻子をつれて任地にむかった。この詩は、その折につくられた。なお、李翺は、この旅行の出発から到着までのめんみつな日記、『来南録』をのこしていて、唐代地理上の貴重な文献とされている。
廣州萬里途,山重江逶迤。
廣州への道は果てしなく遠く万里のかなたである。山は幾重にも連なり長江の流れを曲り曲がって遙か先である。
・広州 いまの広東省広州。韓愈も数年前に五嶺山脈を越えて広東省陽山の県令に赴任している
・万里途 長安から広州までの距離は、『通典』によれば五千四百四十七里。(3138km).
三千里を超えると万里という表現になる。万里ははるかな距離をいうので、日本人的には五、六千里という表現になろうか。
・逶迤 水流のまがりくねっているさま。
行行何時到,誰能定歸期。
(私が陽山にむかうときもそうだった。)行進し、更にまた行く、一体いつ着くのだろうという感じであり、まして誰が帰って來る日の約束をすることが出来ようか。
揖我出門去,顏色異恒時。
私に挨拶をして門を出て行こうとしている、愛弟子の顔色がいつもの色とは違って見える。
雖云有追送,足跡絕自茲。
ここにおいて見送るひとはいること居るというものではあるけれども、互いの足取りについては今日かぎりで通い合うことはないのだ。
・追送 みおくりの人。迫も送と同意。
・足跡 訪問者の足あと。
人生一世間,不自張與弛。
人の生き方というものは一生の間貫くものである。その中では緊張と弛緩とを経験しないわけにはゆかないのだ。
・張与施 緊張と弛緩。施は地と同義。
譬如浮江木,縱橫豈自知。
たとえば人生は大江に浮かぶ木のようなものであるし、身を縦にしたり、横にすることもどうして自分でしたいようになるというのであろうか
寧懷別時苦,勿作別後思。
その中でむしろ、別れの時の苦しみはやむをえないことであるし、勿論、大切なことは別れの後にいつまでもくよくよ思わないことである。
・別後思 別れぬまえから、別れののちのかなしみが思われる。だが、そのかなしみを断って、おのれの仕事にうちこむのが、男性なのだ。そう、愛弟子をはげましているのである。李朝の顔色が恒の時と異なる、と見たのは、むしろ、愛弟子をはげましているのである。
李翺の顔色が通常の色と異なると見たのとは異なる、と見たのは、むしろ。愛弟子と姪を遠くへやる韓愈の心がいつもより湿っていたからかもしれない。
別後の思いをなすことなかれ、と言い放ちながら、かえって、ふきあげてくる別後の思いが「寧ろ別後の苦を懐くとも」の句に溢れているような味わいの作である。作者が平安の境にのみ住んだひとならば、この結びの句はしらじらしく聞こえようが、自ら五嶺山脈を越え、南方の地で苦しみをなめたひとであるがゆえに、沈痛にひびくのである。
送李六協律歸荊南【案:翱。】 韓愈(韓退之) <152>Ⅱ中唐詩731 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2639
作年: 元和十年 815年 48歲
卷別: 卷三四三 文體: 五言律詩
詩題: 送李六協律歸荊南【案:翱。】
作地點: 目前尚無資料
及地點: 無
交遊人物/地點: 李礎 當地交遊
詩文:
『送李六協律歸荊南』
(江陵幕府協律郎李翺が何らかの用事で上京し、そして歸える時の詩である。)
早日羈遊所,春風送客歸。
江陵はわが前年羈官として、遊遇したところであり、この度、君が春風におくられてその地に歸任するとのことである。
柳花還漠漠,江燕正飛飛。
時、折りしも弥生の末、柳花はばくばくとして、散り乱れ、江上のツバメは飛び交って、翻っており、旅も面白く、やがてつつがなく終わることだろう。
歌舞知誰在,賓僚逐使非。
私がその地にあった時に歌舞をしてくれた人々は、今となって誰が残っているのだろうか。幕府の中の賓官同僚たち、節度使の更迭と共にみな変わってしまったと思われる。
宋亭池水綠,莫忘蹋芳菲。
ただ、宋玉の宅址のみは依然としてあるだろうし、今、君が池水まさに綠なるころに帰ったなら、その地に芳菲を踏んでかならず遊び心、愛でる心、鑑賞する心を忘れてはいけない。
(李六協律の荊南【けいなん】に歸るを送る)
早日 羈遊【きゆう】の所,春風 客を送って歸らしむ。
柳花【りゅうか】還た漠漠【ばくばく】と,江燕【こうえん】正に飛飛【ひひ】なり。
歌舞 誰かを知る在なり,賓僚【ひんりょう】使いを逐うて非なり。
宋亭 池水 綠に,芳菲【ほうひ】を蹋【ふむ】むを忘れる莫れ。
『送李六協律歸荊南』 現代語訳と訳註
(本文)
早日羈遊所,春風送客歸。
柳花還漠漠,江燕正飛飛。
歌舞知誰在,賓僚逐使非。
宋亭池水綠,莫忘蹋芳菲。
(下し文)
(李六協律の荊南【けいなん】に歸るを送る)
早日 羈遊【きゆう】の所,春風 客を送って歸らしむ。
柳花【りゅうか】還た漠漠【ばくばく】と,江燕【こうえん】正に飛飛【ひひ】なり。
歌舞 誰かを知る在なり,賓僚【ひんりょう】使いを逐うて非なり。
宋亭 池水 綠に,芳菲【ほうひ】を蹋【ふむ】むを忘れる莫れ。
(現代語訳)
(江陵幕府協律郎李翺が何らかの用事で上京し、そして歸える時の詩である。)
江陵はわが前年羈官として、遊遇したところであり、この度、君が春風におくられてその地に歸任するとのことである。
時、折りしも弥生の末、柳花はばくばくとして、散り乱れ、江上のツバメは飛び交って、翻っており、旅も面白く、やがてつつがなく終わることだろう。
私がその地にあった時に歌舞をしてくれた人々は、今となって誰が残っているのだろうか。幕府の中の賓官同僚たち、節度使の更迭と共にみな変わってしまったと思われる。
ただ、宋玉の宅址のみは依然としてあるだろうし、今、君が池水まさに綠なるころに帰ったなら、その地に芳菲を踏んでかならず遊び心、愛でる心、鑑賞する心を忘れてはいけない。
(訳注)
李六協律 李翺
江陵幕府協律郎李翺が何らかの用事で上京し、そして歸える時の詩である。
・荊南 江陵のこと。
早日 羈遊 所 ,春風 送 客歸 。
江陵はわが前年羈官として、遊遇したところであり、この度、君が春風におくられてその地に歸任するとのことである。
「早日」(日)、早日。ここでは前年という程度の意味。
「羈遊」羈官として、遊遇したところ。
「春風」万物が清徴せる季節の春風。
柳花 還漠漠 ,江燕 正飛飛 。
時、折りしも弥生の末、柳花はばくばくとして、散り乱れ、江上のツバメは飛び交って、翻っており、旅も面白く、やがてつつがなく終わることだろう。
「柳花」弥生の末、柳花。
「漠漠」ひろいこと。。
「燕」つばめ。
「飛飛」あちこち飛びかう。
歌舞 知 誰在 ,賓僚 逐 使非 。
私がその地にあった時に歌舞をしてくれた人々は、今となって誰が残っているのだろうか。幕府の中の賓官同僚たち、節度使の更迭と共にみな変わってしまったと思われる。
「賓僚」尊稱美稱職業身份、幕府の中の賓官同僚たち。
宋亭 池水 綠 ,莫忘 蹋 芳菲 。
ただ、宋玉の宅址のみは依然としてあるだろうし、今、君が池水まさに綠なるころに帰ったなら、その地に芳菲を踏んでかならず遊び心、愛でる心、鑑賞する心を忘れてはいけない。
「宋亭」宋玉の宅址。
「芳菲」 花が咲き乱れて芳しい。
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