中国の詩人各時代詩人の概略一覧表(10)
- 2011/11/25
- 20:09
中国の詩人各時代詩人の概略一覧表(10)
北宋・南宋
五代十国 唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。
■宋 960~1279年 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現在に残されています。
蘇東坡の詩 春夜 蘇東坡 浣渓沙 蘇東坡
和孔密州 東欄梨花 飮湖上初晴後雨
林逋 蘇舜欽 柳永 晏殊 欧陽脩 曾鞏 司馬光 王安石 蘇洵 富弼(ふひつ 蘇軾(蘇東坡) 蘇轍 宋江 孫覿 張元幹

岳飛 呂祖謙 張蝕 陸象山 朱熹(朱子) 陸游 唐婉 辛棄疾 戴復古 周密 陳亮 杜秉 張元幹 張孝祥 眞山民 楊萬里 劉克莊 文天祥 謝枋得
北宋・南宋
五代十国 唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。
■宋 960~1279年 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現在に残されています。
蘇東坡の詩 春夜 蘇東坡 浣渓沙 蘇東坡
和孔密州 東欄梨花 飮湖上初晴後雨


岳飛 呂祖謙 張蝕 陸象山 朱熹(朱子) 陸游 唐婉 辛棄疾 戴復古 周密 陳亮 杜秉 張元幹 張孝祥 眞山民 楊萬里 劉克莊 文天祥 謝枋得
時代 | 西紀 | 史実 | 人名 | 生没年 | 概 略 | 詩 詞 | |
宋 | 10 | 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現在に残されています。 とりわけ、宋代では北方に非漢民族の国家・遼(契丹)、西夏が興り、華北を脅かし、さらに遼の滅亡の後は、女真(後の満州民族)の金が興り、華北を抑え、やがて、靖康之変の後は、漢民族の国家・宋は江南半壁に追いやられた事実があります。(北宋地図) 特に靖康之変後、江南の宋(南宋)は、中原の奪回を目指し、金と、やがては元と抗争し、詞の世界では燃え上がり、媾和に際しては、民族意識が強く盛り上がりました | |||||
北宋 | 960年 - 1127年 | 北宋(ほくそう、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封。 | |||||
林逋 (りんぽ) | 967年 - 1028年 | 宋代の詩人。字は君復。 杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない | 山園小梅 | ||||
蘇舜欽 (そ しゅんきん) | 1008年 - 1048年 | 蘇舜欽(そ しゅんきん、1008年 - 1048年)は北宋時代の政治家・文学者。字は子美。銅山(河北省)の出身。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷慨し、軍事論を好み大志があった。初めは父の推挙により太廟齋郎に任命され、景祐年間(1034年 - 1038年)に進士に合格し、知長垣県をへて大理評事となった。康定年間(1040年 - 1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治の欠陥を論じて范仲淹に認められ、集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。多くの学者が修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、欧陽修の賞賛を得た。草書にも優れていたという。 | |||||
柳永 | 约987年—约1053年 | 崇安(福建)出身。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。詞の作者として当時から著名で、艶詞が多く鄙俗と評されるが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。 | 八聲甘州 | ||||
晏殊 | 991~1055 | 撫州臨川(江西)の出身。字は同叔。景徳初期の進士で、真宗・仁宗に仕えて軍事・財政改革を進め、1040年に宰相とされた。学校再興など人材育成にもつとめ、門下からは范仲淹らを輩出し、韓琦・富弼らを推挙した。文章に優れ、詞の大家としても知られた。 | 浣溪沙 | ||||
欧陽脩 (おうようしゅう) ③ | 1007~1072 | 廬陵(江西)出身。字は永叔、諡号は文忠。苦学して進士に第一甲で及第し、1043年に知諫院とされ、この時に『朋党論』を著した。以後、同修起居注・知制誥と累進したが、杜衍・韓琦・范仲淹・富弼らの左遷を極諫した為に地方に出され、12年後に翰林学士に復した。1060年に地方官から枢密副使に復して参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立した。 史学に通じ、神宗期に新法に反対して致仕を許されると潁州に隠棲し、六一居士と称して『新唐書』『新五代史』を著した。周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖とされ、又た韓愈の文章を高く評価して古文復興にも尽くした。唐宋八大家の1人とされる。 | 日本刀歌 蝶戀花 | ||||
曾鞏 ⑦ | 1019~1083 | 建昌南豊(江西)の出身。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任した。王安石と親交があったが、新法実施には反対し、1082年に中書舎人となった。唐宋八大家の1人。 | 虞美人草 西樓 | ||||
司馬光 | 1019~1086 | 司馬光 1019~1086 陝州夏県(山西)の出身。字は君実。宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。神宗が即位すると翰林学士・御史中丞となったが、新法に反対して地方に転出し、後に勅命で『資治通鑑』を編集した。哲宗が即位すると皇太后の庇護を得て尚書左僕射に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈された。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。 | 居洛初夏作 | ||||
王安石 ⑧ | 1021~1086 | 撫州臨江(江西)の出身。字は介甫、号は半山。慶暦2年(1042)の進士。主に地方官を歴任して治績を挙げ、いちじ中央に召されて仁宗に“万言書”を上呈したが、狷介さを忌まれて用いられなかった。神宗が即位すると知江寧府とされ、治績を認められて翰林学士をへて1069年に参知政事とされ、制置三司条令司を新設し、新法を逐次実施して翌年には同平章事とされた。 新法は主に中・下級の農民や商人を庇護して経済力の再建を図るもので、財政・治安に実績を挙げたが、国制を根本から再編する政策であったため、既得権を侵された地主・豪 | 泊船瓜洲 鍾山即事 夏日即事 桂枝香 | ||||
蘇洵(そじゅん) ④ | 1009~1066 | 眉州眉山(四川)の出身。字は明允、号は老泉。晩学で科挙には失敗したが、読書に励んで論文を著し、欧陽脩に認められて諸文士と交流した。議論文を得意とし、『太常因革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家の1人。 | 春夜 水調歌頭 飮湖上初晴後雨 | ||||
富弼(ふひつ) | ~1083 | ||||||
蘇軾(蘇東坡) ⑤ | 1036~1101 | 眉州眉山の出身。字は子膽、号は東坡。蘇洵の子、蘇轍の兄。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望され、英宗期に判登聞鼓院、直史館とされたが、神宗期に新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹謗したとして黄州に配流された。元佑年間には翰林学士・侍読とされ、募役法の廃止に反対して知杭州に転出し、1092年に礼部尚書に復したが、紹聖以降は恵州ついで瓊州(海南島)に流され、常州で客死した。 文人としても著名で、父・弟とともに“三蘇”と称され、“大蘇”とも呼ばれた。線の太い詩は宋代文学の最高峰とされ、『赤壁賦』は黄州配流時に創られた傑作。唐宋八大家の1人。 | 念奴嬌 江城子 春夜 澄邁驛通潮閣二首 飮湖上初晴後雨 六月二十七日望湖樓醉書 和陶飮酒 題西林壁 江城子 浣溪沙 水調歌頭 | ||||
蘇轍 ⑥ | 1039~1112 ▲ | 字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反対して河南推官に遷され、蘇軾に連坐して南方に流された。元佑年間に右司諫から吏部尚書、門下侍郎と進んで新法派を排斥したが、紹聖以降は広南に左遷され、後に河南許州に隠棲した。兄に劣らぬ直言家だったが、旧法派の主流とは距離を措いて部分的に新法を認め、役法・西夏対策などにも見識を有した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と呼ばれた。唐宋八大家の1人。 | 李公麟山荘図 | ||||
宋江 | 生没年不詳 | 宋 江(そう こう、Sòng Jiāng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。また、その反乱事件に取材した小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。 | 西江月 | ||||
孫覿(そんてき) | 1081年~1169年 | 北宋時代(960~1127)に活躍。幼くして蘇軾に才能を見出されたといわれる。 | 再宿楓橋 | ||||
張元幹 | 1091年~不明 | 両宋期の豪放な作風の詞人(1091年~不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 | 石州慢 | ||||
南宋 | 1127年 - 1279年 | 南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)。 | |||||
岳飛(がくひ) | 1103~1141 | 相州湯陰(河南)の出身。字は鵬挙。農民の出で、北宋末の義勇軍召募に応じて宗沢に認められ、軍功を重ねて1133年に“精忠岳飛”の宸筆の旗を下賜され、翌年には清遠軍節度使とされ、崇信軍節度使・武昌郡開国侯に進んだ。湖北路・荊襄の制置使とされて金軍をことごとく撃退し、1140年には東京副留守の劉錡を支援して宗弼を大破すると開封に迫ったが、和平を急ぐ秦檜によって1日12使の金字牌を送られて已むなく撤退した。 当時、岳飛の軍(岳家軍)は最強の精鋭として知られ、開封を堅守した宗沢とともに金軍から“爺々”の尊称を受けた唯二人で、“山を動かすは易く、岳家軍を動かすは難し”とも評された。当時の軍閥は官僚と不和で、軍閥間でも対立があり、年少で矜持の強かった岳飛は孤立気味で、これに乗じた秦檜によって1141年に枢密副使とされて軍を解体され、同年、和平交渉の為に冤罪で獄死させられた。1178年に武穆と諡名され、1204年には岳王と追封され、後に岳王廟に祀られて1914年以降は関羽とともに武廟に合祀された。 | 滿江紅 題新淦蕭寺壁 送紫岩張先生北伐 題青泥市寺壁 池洲翠微亭 送紫岩張先生北伐 滿江紅 小重山 | ||||
呂祖謙(りょそけん) | 1137~1181 | 呂 祖謙(りょ そけん、1137年 - 1181年)は、中国南宋時代の儒学者。字は伯恭。東萊先生と称される。婺州(浙江省金華県)の出身。 学者の家に生まれ林之奇・汪応辰・胡憲などに学ぶ。1163-64年に進士となり、同時に博学宏詞科にも合格する。 太常博士に國史院編修官・実録院検討官となり、領土の回復を孝宗に説き聖学について論じ、『徽宗実録』では政治についても述べている。 当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い書が出回っており、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたところ、学士・周必大はその事業が困難であると説いたが呂祖謙は仕事を完成させ、『皇朝文鑑』の名を賜った。 1178年に官著作郎に任命され、国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。 同時代の張栻・朱子を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。朱熹と対立する学説を主張する陸象山とを仲介し、対論させた(鵝湖の会)。 | |||||
張栻(ちょうしょく) | 1133年 - 1180年 | 張栻(ちょう・しょく、1133年 - 1180年)は中国・南宋の儒学者・政治家。字は敬夫、または楽斎。南軒先生と称せられる。広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが孝宗の信任は厚かった。王夫之は『宋論』のなかで張栻を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる。張栻の学問は、二程(程顥・程頤)を承け、朱熹との交友で発達した。『論語』『孟子』の解釈で見るべきものがある。著として『南軒集』44巻、『南軒易説』・『伊川粋言』・『癸巳論語解』・『癸巳孟子説』がある。 | |||||
陸象山 | 1139~1192 | 陸象山(りく しょうざん、1139年 - 1192年)は、南宋の儒学者・官僚。 名は九淵、字は子静。象山は号。江西省金谿の人。朱子と同時代に生き、その論敵として知られる。その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。象山の兄二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、江西省の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。 | |||||
朱熹(朱子) | 1130年~1200年 | 宋代(南宋)の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。「朱子」の尊称で呼ばれている。儒教の体系化を図った儒教の中興者で朱子学の創始者である。朱子学やその後、明の時代に学問部分が国教と定められた。また、日本にも輸出されて江戸時代には幕府も朱子学を尊重した。 | 勸學文 偶成詩 | ||||
陸游 | 1125~1209 | 越州山陰(浙江)の出身。字は務観、号は放翁。夙に文才を賞揚されていたが、科挙で秦檜の一族の上位にあったために憎まれて及第できず、官人としては不遇だった。秦檜の死後に同進士を賜り、46歳で王炎の推挙で通判として入蜀し、後に宰相の周必大に認められてより要職を歴任したが、しばしば韓侂胄と衝突して左遷された。四川では范成大と交流し、晩年には修史事業に参画して孝宗・光宗実録を完成させ、1190年以降は故山に隠棲した。蜀に赴任する際に記録した158日間の旅行記は後に『入蜀記』として全6巻に編纂され、風物のみならず歴史評論にも及び、名著と評されている。 | 示兒 十一月四日風雨大作 金錯刀行 秋夜將曉出籬門迎涼有感 書憤 塞上曲 北望 劍門道中遇微雨 | ||||
關山月 古意 遊山西村 病起 書懷 灌園 感事 龍興寺弔少陵先生寓居 樓上醉歌 隴頭水 追感往事 書事 秋興 識識 夜讀范至能攬轡録言中原父老見使者多揮涕感其事作絶句 春游 小舟遊近村捨舟歩歸 秋風亭拜寇莱公遺像 山南行 客從城中來 聽雨 望江道中 小園 其三 貧甚戲作絶句其六 秋懷 書事 春晩懷山南 村飲示鄰曲 沈園二首其一 沈園二首其二 | |||||||
唐琬 | 南宋第一の詩人といわれる陸游(1125—1209)と彼の最初の妻唐琬とのロマンスは中国では広く知られた物語である。陳舜臣の「中国の歴史」参照 陸游は20歳のとき母方の縁につらなる唐琬と結婚した。夫婦仲は睦まじかったが,なぜか唐琬が陸游の母親から嫌われ(一説には,夫婦仲がよすぎたからとも,またこどもが出来ず,それについてうそのつげ口をされたからともいわれる),1年ほどで離縁させられてしまった。内緒で家を借り隠れて逢っていたが,それも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなった。やがて唐琬は宋の帝室につながる趙士程に再嫁,陸游も王氏と再婚した。 | 釵頭鳳の返歌 山盟(堅い誓い)在ると雖も | |||||
辛棄疾(しんきしつ) | 1140年 — 1207年 | 政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。 歴城(山東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役での金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされた。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だったために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。 | 菩薩蠻 書江西造口壁 | ||||
戴復古(たいふくこ) | 1167年~(没年不詳) | 戴復古:南宋1167年~(没年不詳)の詩詞人。字は式之。号は、故郷の南塘の石屏山に隠棲したことに因み、石屏と称する。天台黄岩(現・浙江省)の出身。江湖派の詩人として有名。 江湖派とは、南宋中期、後期の詩歌流派の一で、進士試験の落第生や野にある知識人で、「江湖を流離った人々」の意の流派。時の中央の詩壇に対して、下層社会(江湖)の中に出来あがった下層知識人の詩壇。その名の由来は、陳起が江湖(世間)の作品を集めて『江湖集』をはじめとして、『江湖×集』『江湖○集』という風に、出版を続けたことによる。 | 江陰浮遠堂 柳梢靑 | ||||
周密(しゅうみつ) | 南宋の文学者。字は公謹。号して草窓、泗水潜夫…。官は義烏令。済南(現・山東省・済南)の人。宋の南渡(南宋)後、湖州の呉興(現・浙江省・呉興)の滅亡後、節を守って仕官しなかった。1232年~1298年。『絶妙好詞』などを遺す。 | 秋日即事 | |||||
陳亮 (ちんりょう) | 1143~1194 | 中国、南宋の思想家・文学者。永康(浙江(せっこう)省)の人。字(あざな)は同甫(どうほ)。号、竜川(りゅうせん)。孝宗のとき、金との和議に反対する「中興論」を上奏したが採用されず、帰郷。経世済民のための学を主唱して朱熹(しゅき)と議論を交えた。著「竜川文集」「竜川詞」。 | 水調歌頭 送章德茂大卿使虜 | ||||
杜秉(とへい) | 寒夜 | ||||||
張元幹(ちょうげんかん) | 1091年~不明 | 両宋期の豪放な作風の詞人(1091年~不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 | 賀新郎 石州慢 | ||||
張孝祥(ちょうこうしょう) | 1132~1169 | :南宋の愛国詞人。(1132~1169)字は安國、号は于湖居士。歴陽烏江の人。本を一度読んだだけで覚えた、という伝説の持ち主で、廷試(科挙の最高考査)第一となる。官吏として歴任し、対金主戦論で退けられる。詞は、高らかに民族の情を歌い上げているものが多い。三十八歳で亡くなる。 | 六州歌頭 | ||||
眞山民(しんさんみん) | 1274頃 | 眞山民については,詳しいことは分からないらしい。南宋末から元にかけて生存したと伝えられる隠者。詩集が残る以外全く分からない。姓名も不明で,山民と自称し,南宋の儒者眞徳秀(1178-1235)の子孫らしいというので,眞山民と呼ばれる。1274頃 中国宋末の進士で哲学者である。名は桂芳(けいほう)といい、出身地などくわしいことはわからない。宋末の遺民で世を逃れ、人に知られることを求めず、自分で山民とよぶ。歐陽修、朱熹、蘇東坡と共に宋代の代表的詩人といわれ、特に敍景詩にすぐれている。 | 山中月 錢塘懷古 | ||||
楊萬里 | 1127~1206 | 吉州吉水の出身。字は延秀、号は誠斎先生。紹興24年(1154)の進士。光宗・熹宗の近侍官を歴任し、朱熹ら60余人の人材を勧めたが、晩年は韓侂冑と対立して寧宗に忌避された。詩人としては南宋四大家の1人で、はじめは江西派の詩を学び、後に誠斎体と呼ばれる独自の詩風を確立した。 | 夏夜追涼 | ||||
劉克莊 | (1187年—1269年) | 南宋末期の江湖派の詞人。1187年(淳煕十四年)~1269年(咸淳五年)。字は潜夫。号は後村居士。福建・田の人。建陽の県尉となり、その才で、進士待遇となる。 | 滿江紅 玉樓春 賀新郞 | ||||
文天祥(ぶんてんしょう) | 1236~1282 | 吉水(江西)出身。字は宋瑞・履善、号は文山。宝祐4年(1256)の科挙に状元で及第した。1259年のモンゴルの四川侵攻の際、遷都派を弾劾して罷免され、後に起用された時も賈似道を嫌って下野した。1274年に復官し、モンゴル軍の南征に対し義勇軍を組織して各地を転戦し、後に右丞相・枢密使に抜擢されて講和使節とされたが、才気を惜しまれて拘留された。臨安陥落後に脱走して益王に合流したが、陳宜中らと不和となって江西地方を転戦中に再びモンゴル軍に捕われ、大都にではフビライの説得にも最後まで臣従を拒み、在獄3年で処刑された。著名な『正気の歌』は獄中の作。 | 過零丁洋 酹江月 | ||||
謝枋得 | 1226~1289 | 信州弋陽(江西)の出身。字は君長、号は畳山。宝祐年間に進士に合格したが、辞退して賈似道を弾劾した。後に宋朝回復の計に失敗して福建でモンゴル軍に捕われ、臣従を拒んで北京で絶食死した。 南宋の政治家。弋陽(よくよう)(江西省)の人。字(あざな)は君直。号は畳山。元との戦いに敗れて捕らえられたが節を曲げず、絶食死した。著「文章軌範」。 | 初到建寧賦詩 |
スポンサーサイト
- テーマ:その他
- ジャンル:その他
- カテゴリ:中国各時代の詩人一覧
- CM:0
- TB:0
トラックバック
最新記事
- 長い間ブログを休校している件について (09/01)
- 李太白集 397《太白巻23-02效古二首其一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7573 (04/04)
- 李太白集 396《太白巻二十二40憶東山二首 其二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7568 (04/03)
- 李太白集 395《太白巻二十二39憶東山二首 其一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7563 (03/30)
- 李太白集 394《太白巻二十08杜陵絕句》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7558 (03/29)
- 李太白集 393《太白巻十九18朝下過盧郎中敘舊游》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7553 (03/28)
- 李太白集 392《太白巻十八12金門答蘇秀才》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7548 (03/27)
- 太白集 391《太白巻十九17下終南山過斛斯山人宿置酒》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7543 (03/26)
- 太白集 390《太白巻十六33 送長沙陳太守,二首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7538 (03/25)
- 李太白集 389《太白巻十六32 送長沙陳太守,二首之一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7533 (03/24)
- 李太白集 388《太白巻十六26 送祝八之江東賦得浣紗石》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7528 (03/23)
- 李太白集 387《太白巻十六23-《送白利從金吾董將軍西征》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7523 (03/22)
- 李太白集 386《太白巻十六21 送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7508 (03/19)
- 李太白集 385《太白巻十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7503 (03/18)
- 李太白集 384《太白巻十六18-2 送外甥鄭灌從軍,三首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7498 (03/17)
- 李太白集 383《太白巻十六18-1 送外甥鄭灌從軍,三首之一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7493 (03/16)
- 李太白集 382《太白巻十六13 送張遙之壽陽幕府》 (壽陽信天險,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7488 (03/15)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/14)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/13)
- 李太白集 380《太白巻十六08 送竇司馬貶宜春》 (天馬白銀鞍,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7478 (03/12)
- 李太白集 379《太白巻十四34 贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7473 (03/11)
- 李太白集 378《太白巻十二06-夕霽杜陵登樓寄韋繇》 (浮陽滅霽景) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7468 (03/10)
- 李太白集 377《太白巻巻十二05-《望終南山寄紫閣隱者》(出門見南山) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7463 (03/09)
- 李太白集 376《太白巻八36 贈盧徵君昆弟》 (明主訪賢逸) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7458 (03/08)
- 李太白集 375《太白巻八22 贈郭將軍》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7453 (03/07)
- 李太白集 374《太白巻六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》 (高堂粉壁圖蓬瀛) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7448 (03/06)
- 李太白集 373《太白巻六07 西嶽雲臺歌送丹丘子》 (西嶽崢嶸何壯哉) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7443 (03/05)
- 李太白集 372《太白巻六05 玉壺吟》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7438 (03/04)
- 李太白集 371《太白巻卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7433 (03/03)
- 李太白集 370《太白巻五 24-秋思》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7428 (03/02)