中国の詩人各時代詩人の概略一覧表( 2)
- 2011/12/02
- 20:46
トピックス 竹林の七賢 230年頃 |
三国時代への道
1.官渡の役(200) 曹操と袁紹の、華北支配を巡っての決戦。曹操による青州黄巾軍の接収と、199年の袁術の病死と公孫?の敗死、遼東公孫氏の袁紹への服属などによって、華北では4州を領する袁紹と、天子を擁して2州を支配する曹操の対決が不可避となった。袁紹は全軍を動員して官渡に南下し、十倍近い兵力で曹操を圧倒したが、内訌の放置と糧道の軽視で対峙数ヶ月の後に糧秣をことごとく焼かれて惨敗した。袁紹はついに再起できず、曹操はこの勝利によって華北に覇権を確立した。
2赤壁の戦い(208) 天下統一を図る曹操と、江東を死守する孫権の戦い。劉表の死亡直後に曹操に無条件降伏した荊州では、新野の劉備が降伏反対派と共に江夏に逃れ、柴桑(江西省九江市区)に拠る孫権と同盟して曹操に対抗した。
曹操は荊州水軍を接収すると孫権に帰順を迫って赤壁(湖北省嘉魚)に布陣したが、軍中に疫病が流行して後退を図るところに火攻され、水軍の殆どを喪って撤退した。この一戦で曹操の天下統一は頓挫し、孫権の江東支配が確定し、劉備も荊州南部を獲得して三国鼎立の形勢がほぼ定まった。 一般に、赤壁の役は曹操軍の惨敗とされているが、主だった将官に戦死者はなく、帰還後ただちに銅雀台造営に着手しながらも増税もなかったことから、被害は荊州水軍に集中したものと思われる。
ID | 詩人名 / 事項 | よみかな | 作品名 |
36 | 関羽(かんう) | (?~219) | |
中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。河東(山西省)の人。字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。 | 無 題 | ||
37 | 班倢妤 | (はんしょうよ) | 生没年不詳 |
中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。 | 怨歌行 怨詩(新裂齊?素) | ||
38 | 梁鴻 | りょうこう | 生没年不明: |
後漢の人。生没年は不詳。字は伯鸞。扶風平陵(現・陝西咸陽県西北)の人。この詩のために姓名を改め、姓を運期とし、名を燿、字を侯光とする。貧しい家庭の出身である | 五噫歌 |
3.建安文学の文学者
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応よう・劉楨・阮?ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応きょ・蔡えん・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。
ID | 詩人名 / 事項 | よみかな |
39 | 1)孔 融 (こう ゆう) | 153年 - 208年 |
後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。 | ||
40 | 2)陳 琳(ちん りん) | - 217年 |
後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。 | 飲馬長城窟行 易公孫?與子書 | |
41 | 3)王 粲(おう さん) | 177年 - 217年 |
、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王?の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王?、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。 | 登樓賦 從軍詩五首 | |
42 | 4)徐幹 (とかん) | - 217年 |
北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。 | ||
43 | 5)応楊 (おうよう) | ~217 |
字は徳璉。汝南郡南頓の人。応珣の子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。 | ||
44 | 6)劉 楨 (りゅうてい) | - 217年 |
後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫) | 贈従弟三首 | |
45 | 7)阮禹 (げんう) | ~212 |
陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。 | ||
46 | 王炙(おうえん) | 177~217 |
後漢から魏(ぎ)にかけての文人。高平(山東省)の人。字(あざな)は仲宣。博覧多識で知られる。詩賦に長じ、建安七子の一人。「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」など。 | 従軍詩 登楼賦」 |
4.桃園の誓い
5.黄巾の乱の終焉
6.劉備の苦悩
7.何進の優勢、十常侍の劣勢
曹操の台頭
50 | 武帝(曹操)(ぶてい・そうそう) | 155年 - 220 |
後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 | ・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿・蒿里行 ・薤露 |
三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:?巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。
ID詩人名 / 事項 | 作品名 | ||
51曹丕・文帝(そうひ・ぶんてい) | 187~226 | ||
三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220~26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。 | 寡婦 ・典論 ・王は驢鳴を好めり | ||
52曹植(そうしょく) | [192~232] | ||
中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。→建安体→七歩(しちほ)の才 | 七歩詩 ・怨詩行 ・野田黄雀行 ・贈白馬王彪 ・左顧右眄 七哀詩 | ||
53繁欽(はんきん) | |||
54蔡琬(さいえん) | 177年- 239年 | ||
後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡?。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られる。 河東の衛仲道の妻となるが死別。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれることになった。そこで左賢王との間に二子をもうけた。12年後の207年、蔡?の後継者が居ないことを惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払うことによって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書のうち蔡?の暗記していたものを復元した。陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓があり、付近には記念館が建っている。 現存する詩として、自らの波乱の人生をつづった『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の二首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。 蔡?の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。 | 悲憤詩 胡笳十八拍 | ||
55繆襲(きょうしゅう) | 186年~245年 | ||
字は熙伯。漢魏の文学者。186年(中平三年)~245年(正始六年)。東海の人。才学があり、著述がある。※挽歌詩:死者の柩(ひつぎ)を挽(ひ)いてゆくときの歌。死者の立場で歌う。 | |||
230頃 竹林の七賢 3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した 1)阮籍(げんせき) 2)けい康(けいこう) 山濤(さんとう) 4)劉伶(りゅうれい) 5)阮咸(げんかん) 6) 向秀(しょうしゅう) 7)王戎(おうじゅう) | |||
56応蕖(おうきょ) | 190~252 | ||
字は休璉。汝南郡南頓の人。楊の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。 | |||
61-1)阮籍(げんせき) | 210~263 | ||
三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字(あざな)は嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、俗人を白眼視した故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。 | 詠懷詩 ・白眼視 | ||
62-2)嵆康(けいこう) | (223~262) | ||
字は叔夜。?郡の人。?昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。  | ・幽憤詩・贈秀才入軍五首 ・呉謡 ・呂安題鳳 | ||
63-3)山濤(さんとう) | (205~283) | ||
字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・?康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。 | 『山濤集』 | ||
64-4)劉伶(りゅうれい) | (211~300) | ||
またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・?康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。 | 酒徳頌 ・劉伶 戒酒 ・屋室を [巾軍]衣と為す | ||
65-5)阮咸(げんかん) | (210~263) | ||
字は嗣宗。陳留郡尉氏の人。阮?の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。 | 詠懐詩 | ||
666) 向秀(しょうしゅう) | (227~272) | ||
字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。?康・呂安と交友した。?康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って?康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。 | 思旧賦 | ||
677)王戎(おうじゅう) | 234~305 | ||
字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。 | 此必苦李 |
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