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韓愈《路傍堠》 『論佛骨表』を読んだ憲宗は激怒して、韓愈の上奏文を宰相たちに見せたうえ、死刑にせよと命じた。宰相の裴度、崔群たちがとりなすと、憲宗は、仏教が渡来してからの皇帝は全部短命だったとは、臣下たる者の口にすべき言葉ではないと言ったものだ。
本気で韓愈を死刑にしたがっていたわけではない、たてまえであって、裴度たちのとりなしを受け入れた形で韓愈の死刑を免じ、かわりに潮州へ流すこととしたのだ。形式上は潮州刺史に任ずる旨の辞令を出し、都から追ったのである。潮州は今の広東省に属し、福建省との境に近い海岸の町で、当時においては未開野蛮の土地である。
その辞令が出たのは元和十四年正月十四日のことで、実質上は流罪なのだから、とりあっかいも罪人なみとなることは、やむを得ない。韓愈の屋敷へいきなり役人が来て、その場で出発を催促するのであった。そして韓愈が出て行ったあとで、家族も長安から追放の処分を受け、韓愈のあとを追って旅に出た。十二歳になる四女の挐はたまたま病中であったが、これも病床に残ることは許されず、ともに旅へと出たのであった(この娘はついに旅の途中で死んでしまい、韓愈の一行はその遺体を道はたに仮埋葬して、旅を続ける)。杜甫が『三吏三別』、秦州紀行、同谷紀行、成都紀行と綴ったように、韓愈は詠っている。
ここでは『嶺南行』として整理、カテゴリーとする
(1)『路傍堠』〔元和十四年出為潮州作〕
(2)『過南陽』〔元和十四年出為潮州作〕
(3)『瀧吏』〔元和十四年出為潮州作〕
・・・・・。
年: 元和十四年 819年 52歲
卷別: 卷三四一 文體: 五言古詩
詩題:路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕
及地點: 㶚水駅・藍田の關
路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#1
堆堆路傍堠,一雙復一隻。
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「堠」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
迎我出秦關,送我入楚澤。
この度の長安を出て㶚水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
千以高山遮,萬以遠水隔。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。
#2
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#2
吾君勤聽治,照與日月敵。
我が皇帝陛下は努めて政務を能くお聞きになられおり、その帝の聖徳は太陽と月とがあまねく照らされるのと同様に隅々まで行き届いたお恵みをお与えになっている。
臣愚幸可哀,臣罪庶可釋。
さすがにこの臣下である私の愚鈍さを気の毒に思召され、丞相へのお怒りの罰はどうやらご赦免になろうかと、ここから潮州に行くもののこい願うことなのである。
何當迎送歸,緣路高歷歷。
どうかお許しになって必ず長安に帰ることになってこの送ってくれた道標塚にお迎えをされることになるだろうか、そして、再びこの街道路の景色に沿うて、この塚が高く歴々と並んでいるのを見たいものである。
路傍の堠【こう】〔案:元和十四年出為潮州作。〕
堆堆【たいたい】たり路傍の堠,一雙復た一隻【いっそう】。
我を迎えて秦關を出で,我を送って楚の澤に入る。
千は高山を以って遮られ,萬は遠水を以って隔つ。
吾が君 勤めて治を聽く,照は日と月とを敵す。
臣の愚 幸いに哀れむ可く,臣の罪 庶わくば釋【ゆる】す可し。
何ぞ當に歸るを迎送し,路に緣【よ】って高く歷歷たらむ。
『路傍堠』 現代語訳と訳註
(本文) #2
吾君勤聽治,照與日月敵。
臣愚幸可哀,臣罪庶可釋。
何當迎送歸,緣路高歷歷。
(下し文)
路傍の堠【こう】〔元和十四年出為潮州作。〕 ―#2
吾が君 勤めて治を聽く,照は日と月とを敵す。
臣の愚 幸いに哀れむ可く,臣の罪 庶わくば釋【ゆる】す可し。
何ぞ當に歸るを迎送し,路に緣【よ】って高く歷歷たらむ。
(現代語訳)
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#2
我が皇帝陛下は努めて政務を能くお聞きになられおり、その帝の聖徳は太陽と月とがあまねく照らされるのと同様に隅々まで行き届いたお恵みをお与えになっている。
さすがにこの臣下である私の愚鈍さを気の毒に思召され、丞相へのお怒りの罰はどうやらご赦免になろうかと、ここから潮州に行くもののこい願うことなのである。
どうかお許しになって必ず長安に帰ることになってこの送ってくれた道標塚にお迎えをされることになるだろうか、そして、再びこの街道路の景色に沿うて、この塚が高く歴々と並んでいるのを見たいものである。
(訳注)
路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕 #2
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#2
吾君 勤聽 治 ,照與 日月 敵 。
我が皇帝陛下は努めて政務を能くお聞きになられおり、その帝の聖徳は太陽と月とがあまねく照らされるのと同様に隅々まで行き届いたお恵みをお与えになっている。
「聽治」天下の政を聞くこと。
・照與 日月 敵 善き皇帝派たいようとつきのようにすみずみまでてらすということ。
臣愚 幸 可哀 ,臣罪 庶 可釋 。
さすがにこの臣下である私の愚鈍さを気の毒に思召され、丞相へのお怒りの罰はどうやらご赦免になろうかと、ここから潮州に行くもののこい願うことなのである。
「幸 可哀」憐れんでくださることが出来るならば幸福だ。気の毒に思召され。
「臣罪」韓愈が『論佛骨表』を上奏したことによって皇帝が大いに怒って、死罪を言い渡されたが、許されて潮州刺史に貶められたことを言う。
何當迎送 歸 ,緣路 高 歷歷 。
どうかお許しになって必ず長安に帰ることになってこの送ってくれた道標塚にお迎えをされることになるだろうか、そして、再びこの街道路の景色に沿うて、この塚が高く歴々と並んでいるのを見たいものである。
「迎」塚が迎えてくれる。
「送」塚が、送ってくれる。
「歸」長安に歸ってくること。。
韓愈(韓退之)《路傍堠》韓愈の屋敷へいきなり役人が来て、その場で出発を催促するのであった。そして韓愈が出て行ったあとで、家族も長安から追放の処分を受け、韓愈のあとを追って旅に出た。
《路傍堠〔元和十四年出為潮州作〕》 嶺南行(1) 韓愈(韓退之)
《論佛骨表》により左遷、三度目の『嶺南行』
長安のずっと西に鳳翔(安史の乱の際、粛宗が行在所を設置、杜甫が長安で安史軍に軟禁されていたところから脱出して駆けつけたところ)があり、そこの法門寺という寺に釈尊の指の骨と伝えられるものがあって、普段は大切にしまわれているのだが、三十年ごとに開帳があり、誰でも拝むことができる。
その年は天下太平、五穀豊穣だと伝えられていたが、元和十四年(819)がその開帳の年にあたった。正月、憲宗は法門寺へ勅使を送って仏骨を迎えさせ、宮中で三日間供養してから長安の諸寺に回すことを命じ、市民一般に礼拝を許した。人々は争って仏骨を拝み、後生を厭い、喜捨をしすぎて倒産する老さえ出るしまつだった。
孔孟の「道」を守る韓愈がこれを苦々しく見ていたことは、いうまでもない。これというのも皇帝が仏教を信仰するので、万民がそれにならうのだ。そう思った韓愈は、「仏骨を論ずる表」という意見書を憲宗皇帝にささげ、仏舎利を捨てて仏教の信仰を停止せよと論じた。
その理由は、二つの点に要約することができる。一つは、上古の帝王たち、三皇五帝はみな百歳前後の長命だったのに(神話時代なのでみな長命なことになっているのだが、韓愈の時代には史実と信ぜられていた)、仏教が渡来してからは、歴代の皇帝のなかにはあつく仏を信じた人があったにもかかわらず、すべて短命であり、非業の最期をとげた人さえいる。仏を信じても、福が授かるわけではないのだ。第二に、釈迦とはもともと夷狄の人であって、彼が生前に中国を訪れたとしたら、かりに歓迎したとしても、夷狄が中国へ来たときの礼法以上には出ないであろう。ましてその骨など、あがめるには及ばぬものであるから、すみやかに焼きすてていただきたい。
『論佛骨表』は18回に分割して掲載している。
《論佛骨表》(1)元和十四年韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <884> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3404韓愈詩-227-1
これを読んだ憲宗は激怒して、韓愈の上奏文を宰相たちに見せたうえ、死刑にせよと命じた。宰相の裴度、崔群たちがとりなすと、憲宗は、仏教が渡来してからの皇帝は全部短命だったとは、臣下たる者の口にすべき言葉ではないと言ったものだ。憲宗は不老不死の薬の擒になっていた皇帝である。仏教を信仰した皇帝はみな短命だなどと不遜な物言いに対し、また、作文力のうまさに、気分を害したのである。本気で韓愈を死刑にしたがっていたわけではない、たてまえであって、裴度たちのとりなしを受け入れた形で韓愈の死刑を免じ、かわりに潮州へ流すこととしたのだ。形式上は潮州刺史に任ずる旨の辞令を出し、都から追ったのである。潮州は今の広東省に属し、福建省との境に近い海岸の町で、当時においては未開野蛮の土地である。
その辞令が出たのは元和十四年正月十四日のことで、実質上は流罪なのだから、とりあっかいも罪人なみとなることは、やむを得ない。韓愈の屋敷へいきなり役人が来て、その場で出発を催促するのであった。そして韓愈が出て行ったあとで、家族も長安から追放の処分を受け、韓愈のあとを追って旅に出た。十二歳になる四女の挐はたまたま病中であったが、これも病床に残ることは許されず、ともに旅へと出たのであった(この娘はついに旅の途中で死んでしまい、韓愈の一行はその遺体を道はたに仮埋葬して、旅を続ける)。杜甫が『三吏三別』、秦州紀行、同谷紀行、成都紀行と綴ったように、韓愈は詠っている。
ここでは『嶺南行』として整理、カテゴリーとする
(1)『路傍堠』〔元和十四年出為潮州作〕
(2)『過南陽』〔元和十四年出為潮州作〕
(3)『瀧吏』〔元和十四年出為潮州作〕
・・・・・。
年: 元和十四年 819年 52歲
卷別: 卷三四一 文體: 五言古詩
詩題:路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕
及地點: 㶚水駅・藍田關
路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#1
堆堆路傍堠,一雙復一隻。
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「堠」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
迎我出秦關,送我入楚澤。
この度の長安を出て㶚水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
千以高山遮,萬以遠水隔。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。
#2
吾君勤聽治,照與日月敵。
臣愚幸可哀,臣罪庶可釋。
何當迎送歸,緣路高歷歷。
路傍の堠【こう】〔案:元和十四年出為潮州作。〕
堆堆【たいたい】たり路傍の堠,一雙復た一隻【いっそう】。
我を迎えて秦關を出で,我を送って楚の澤に入る。
千は高山を以って遮られ,萬は遠水を以って隔つ。
吾が君 勤めて治を聽く,照は與日と月と敵す。
臣の愚 幸いに哀れむ可く,臣の罪 庶わくば釋【ゆる】す可し。
何ぞ當に歸るを迎送し,路に緣【よ】って高く歷歷たらむ。
『路傍堠』 現代語訳と訳註
(本文)
路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
堆堆路傍堠,一雙復一隻。
迎我出秦關,送我入楚澤。
千以高山遮,萬以遠水隔。
(下し文)
路傍の堠【こう】〔案:元和十四年出為潮州作。〕
堆堆【たいたい】たり路傍の堠,一雙復た一隻【いっそう】。
我を迎えて秦關を出で,我を送って楚の澤に入る。
千は高山を以って遮られ,萬は遠水を以って隔つ。
(現代語訳)
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#1
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「堠」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
この度の長安を出て㶚水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。
(訳注)
路傍堠〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)
「堠」里塚。土を固めて台を作り、それで道程里をあらわした。十里に「雙堠」、五里に「隻堠」とされた。唐時代に駅伝制が確立され、駅と亭に馬繋ぎ、旅籠が設置された。
堆堆 路傍 堠 ,一雙 復一隻 。
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「堠」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
「堆堆」うず高く盛り上がっている有様。
迎我 出 秦關 ,送我 入 楚澤 。
この度の長安を出て㶚水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
「秦關」長安付近の關津地名で、長安東10里先に㶚水を渡る㶚橋前に関所が設けられた。。
「楚澤」雲夢澤:古代中国で湖北省の武漢一帯にあったとされる大湿地。のち、長江と漢水が沖積して平原となった。武漢付近に散在する湖沼はその跡。
千以 高山 遮 ,萬以 遠水 隔 。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。
・千 5里塚が千個であるから、1000x5x0.756=2880km
479 韓昌黎集 巻五 412 《路傍堠〔元和十四年出為潮州作〕》 嶺南行(1)韓愈(韓退之) 韓愈 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 4721 |
Author:紀 頌之
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別のブログに掲載したものをシリーズに編集して数多くの漢詩を紹介しています。
男女に関する漢詩。
芸妓の詩。悲しみの詩。
その詩人が生きているときは正当な評価を受けないていない、男の詩。数少ない女の詩。
毎日「5」テーマひたすら書いています。
漢詩は継続して読むうち理解が深まります。