巻1 03 李太白集 《0103 古風五十九首之三》 李白kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5316
- 2014/12/24
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天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。
巻1 03 李太白集 《0103 古風五十九首之三》 李白 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5316 |
3巻一
古風,五十九首之三
秦皇掃六合。虎視何雄哉。揮劍決浮云。諸侯盡西來。
明斷自天啟。大略駕群才。收兵鑄金人。函谷正東開。
銘功會稽嶺。騁望琅琊台。刑徒七十萬。起土驪山隈。
尚采不死藥。茫然使心哀。連弩射海魚。長鯨正崔嵬。
額鼻象五岳。揚波噴云雷。鬈鬣蔽青天。何由睹蓬萊。
徐市載秦女。樓船幾時回。但見三泉下。金棺葬寒灰。
李白は、神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励されると考えており、真理としての宇宙観には多様性があるとするのが道教の思想であると考えていた。食生活においてはとりわけ、酒飲むことを基本とし、この相乗効果として、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きすると考えていた。次に李白に人生の集大成とも思われる「古風」五十九首のうちで道教に関するものと思われるものを見ていこう。この詩は、神仙思想というものから見れば、始皇帝の行った数々のことはおろかなことである、神仙を愚弄したものであり、結果は、「金棺の寒灰を葬る。」と。
古風,五十九首之三
秦皇掃六合、虎視何雄哉。
揮劍決浮云、諸侯盡西來。
明斷自天啟、大略駕群才。
收兵鑄金人、函谷正東開。
銘功會稽嶺、騁望琅琊台。
刑徒七十萬、起土驪山隈。』
(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)
秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。
剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。
英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)
天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。
天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。
囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。
尚采不死藥、茫然使心哀。
連弩射海魚、長鯨正崔嵬。
額鼻象五嶽、揚波噴云雷。
鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。
徐市載秦女、樓船幾時回。
但見三泉下、金棺葬寒灰。
しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをするというので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
額と鼻は五嶽のかたち(象)をしており、大波をかき揚げ、雲雷を噴きだした。
ひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これでどうして蓬莱などが見られるというのか
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
古風,五十九首之三
秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。
劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。
明斷 天より啟き、大略 群才を駕す。
兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。
功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。
刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』
尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。
連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。
額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。
鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。
徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。
但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。
『古風,五十九首之三』 現代語訳と訳註
(本文)
古風,五十九首之三
秦皇掃六合、虎視何雄哉。
揮劍決浮云、諸侯盡西來。
明斷自天啟、大略駕群才。
收兵鑄金人、函谷正東開。
銘功會稽嶺、騁望琅琊台。
(下し文)
古風,五十九首之三
秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。
劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。
明斷 天より啟き、大略 群才を駕す。
兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。
功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。
刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』
(現代語訳)
(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)
秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。
剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。
英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)
天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。
天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。
囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。
(訳注)
古風,五十九首之三
(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山に木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。始皇帝は天下巡遊を始めた。皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。
秦皇掃六合、虎視何雄哉。
秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。
〇秦皇 始皇帝は、中国戦国時代の秦王。姓は嬴、諱は政。現代中国語では、始皇帝、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。 中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。。
〇六合【りくごう】天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。天下国家。始皇帝はまた五行思想(地、木、金、火、水)も取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は次の徳を持つとし、それは「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。
○虎視 猛虎がニラミをきかすこと。勢意の盛んで強いことのたとえ。
揮劍決浮云、諸侯盡西來。
剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。
○揮劍決浮雲 「荘子」に「天子の剣は、上は浮雲を決り、下は地紀(大地の根本)を断つ。」とあるのにもとづくもの。
○諸侯尽西来 戦国時代の諸侯、すなわち斉・楚・燕・韓・魏・趙の六国の王たちは皆降伏して当時は一番西に位置したので(西のかた)秦に来た。中国初めての統一国家とされているが、実質的には隋王朝の国の体をなした国家、すなわち、律令国家体制こそが初めての統一国家といえるもののではなかろうか。
明斷自天啟、大略駕群才。
英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)
○明断 英明な決断力。
○大略 大計画。
收兵鑄金人、函谷正東開。
天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。
○収兵鋳金人 「史記」の始皇本紀の二十六年の条に「天下の兵(武器)を収めて咸陽に集め、これをとかして鐘鐻(しょうきょ:鐘や鼓をかける台)と金人(銅製の大人形)十二をつくり、重さはそれぞれ千石(一石は普通人がかつげる重さ)で、宮廷に置いた」とある。
○函谷 秦の東境にある関所の名。いまの河南省の西端。秦は自然の要塞でもあるここを厳重守っていたが、六国を滅ぼして天下を統一したので「東に開」いたわけである。
銘功會稽嶺、騁望琅琊台。
天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。
○銘功会稽嶺 「史記」の始皇本紀、三十七年に「会稽山(浙江省紹興)に登って大禹(夏の商王)を祭り、南海を望んで石を立て、文字を刻んで秦の徳をたたえた」とある。杭州が中国南部統治の要衝地であった。その象徴ともいえる山が会稽山である。地図上での南は海南方面であるが李白の時代唐時は交通手段が川・運河であったためこの地を南としていた。○騁望琅琊台 琅邪は琅琊とも、また琅邪とも書く。同じく始皇本紀、二十八年「南のかた琅邪山(山東省諸城県東南)に登って大いに楽しみ、滞留三か月、平民三万戸を琅邪山のふもとに移し、十二年間免税することにし、琅邪台を作って石を立て、秦の徳をたたえた」。この地が最東の要衝地であった。
刑徒七十萬、起土驪山隈。』
囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。
○刑徒七十万 同じく始皇本紀、三十五年「始皇は阿房宮を作った。東西五百歩つまり3,000尺・南北五十丈つまり500尺という。なお、メートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。ウィキペディア中国語版では、693mと116.5mと記述されている。 二階建で上は万人を坐らすことができ、下は五丈の旗を建てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。その建築に任じた刑徒の数は70余万に昇った。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。」。○驪山 いまの陝西省臨潼県の東南、つまり咸陽の東の郊外にある山。
古風,五十九首之三
(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)
秦皇掃六合、虎視何雄哉。
秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。
揮劍決浮云、諸侯盡西來。
剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。
明斷自天啟、大略駕群才。
英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)
收兵鑄金人、函谷正東開。
天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。
銘功會稽嶺、騁望琅琊台。
天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。
刑徒七十萬、起土驪山隈。』
囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。
古風,五十九首之三
秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。
劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。
明斷 天より啟き、大略 群才を駕す。
兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。
功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。
刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』
尚采不死藥、茫然使心哀。
しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
連弩射海魚、長鯨正崔嵬。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
額鼻象五嶽、揚波噴云雷。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか
徐市載秦女、樓船幾時回。
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
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但見三泉下、金棺葬寒灰。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
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尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。
連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。
額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。
鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。
徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。
但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。
『古風,五十九首之三』 現代語訳と訳註
(本文)#2
尚采不死藥、茫然使心哀。
連弩射海魚、長鯨正崔嵬。
額鼻象五嶽、揚波噴云雷。
鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。
徐市載秦女、樓船幾時回。
但見三泉下、金棺葬寒灰。
(下し文)
尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。
連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。
額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。
鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。
徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。
但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。
(現代語訳)
しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
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(訳注)#2
古風,五十九首之三
(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山に木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。始皇帝は天下巡遊を始めた。皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。
尚采不死藥、茫然使心哀。
しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
○尚採不死薬 「史記」始皇本紀三十二年「韓終・侯公・石生に仙人の不死の薬を求めさせた」。始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた。
連弩射海魚、長鯨正崔嵬。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
○連弩 数本ないし数十本の矢を連続して発射できるような仕掛の石弓。
○海魚 大鮫。
○連弩射海魚 始皇本紀、二十八年「斉の人、徐市らが上書して「海中に三つの神山があり、蓬莱・方丈・瀛洲と申して、仙人が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、仙人を探したいと思います」と言った。そこで徐市を派遣し、董男童女数千人を出して海上に仙人を求めさせた」。三十七年「方士の徐市らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費用が多いだけだったので、罰せられることを恐れ、いつわって、「蓬莱では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができないのです。上手な射手を附けていただけば、現われたら連弩で射るのですが」と言った。……そこで海上に行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら、始皇みずから連弩で射ようと、琅邪から労山・成山(いずれも山東省)まで行ったが、ついに現われなかった。之罘に行くと大魚が出たので、一魚を射殺した」。
〇崔嵬 高くて急な、石山の形容。
額鼻象五嶽、揚波噴云雷。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
〇五嶽 陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。
• 東岳泰山(山東省泰安市泰山区)標高1,545m。
• 南岳衡山(湖南省衡陽市衡山県)標高1,298m。
• 中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)標高1,440m。
• 西岳華山(陝西省渭南市華陰市)標高2,160m。
• 北岳恒山(山西省大同市渾源県)標高2,016,m。
神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。
この五岳を象徴図形にしたものが五岳真形図(「五嶽眞形圖」)である。
鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか。
○鬈鬣 ひれとひげ。○蓬莱 海上にあるといわれる仙人の島。
徐市載秦女、樓船幾時回。
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
○徐市【じょふく】秦の始皇帝をだましたイカサマ師である。徐福ともいう。日本に来て住んだという。紀州にその墓がある。『史記』には「徐福または徐市は斉の国琅邪の人なり。」と記載されている。中国正史のなかで徐福について初めて触れたのは司馬遷であり、『史記』の「秦始皇本紀」および「准南衝山列伝」に取りあげられている。
○楼船 二階づくりの屋形船。
但見三泉下、金棺葬寒灰。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
〇三泉 始皇本紀に,「始皇初即位,穿治酈山,及並天下,天下徒送詣七十餘萬人,穿三泉,下銅而致槨,宮觀百官奇器怪徙藏滿之。」(始皇を驪山に葬る。始皇帝が初めて帝位に即いた時、驪山のふもとに陵をつくるため穴を掘り、天下をあわせたのちは、天下の徒刑の罪人七十余万人をつかって三泉の下まで掘り、銅を以て下をふさぎ、外棺を入れた。塚の中に宮殿や百官の席をつくり、珍奇な器物をいっぱい入れた)。司馬遷は『史記』で 「穿三泉,下铜而致椁,宫观百官,奇器异怪徙藏满之。以水银为百川江河大海,机相灌输。上具天文,下具地理,以人鱼膏为烛,度不灭者久之」とあり(秦の始皇帝の陵墓は、非常に地下深く掘られています。まず、溶かした銅の液で床を埋めた後、棺おけを置きます。地下宮殿には、文武百官の席を設けただけではなく、数え切れないほどの宝物を所蔵しています。また、盗掘を防止するため、宮殿の門に矢などの防止用の道具が設置されています。さらに、陵墓内で水銀による海や川を作り、機械の力でそれを流動させるようにしており、お墓の吹き抜けには太陽や月、星などを飾り、地下には実物を真似した山水やお城や村などの風景も見られます。そして、所々に人魚の油で火を点した(ともした)蝋燭があり、これらの蝋燭は長く点しても消えません。」)
三泉とは、地下水の層を三つ掘りぬいた深い地底。始皇陵:秦の始皇帝の陵墓。原名は驪山(りざん)(山とは陵墓の意味)。陝西省臨潼県の東約5kmに位置する。墳丘は方形台状で,高さ76m,基底部は東西345m,南北350mの正方形を呈す。二重の城牆をめぐらし,内城牆は幅10m,残高1m余。また外城牆は幅6~7m,残高1mで周長約6300mの南北に長い長方形をなす。内城には6門,外城には4門が検出されている。延べ70万人の刑徒を動員して造営したと伝えられる墳丘自体には,いまだ発掘調査の手がおよんでいないが,周辺には陵墓と関係のある秦代の遺跡が各所で発見されている。
○寒灰 つめたい灰。死骸は火葬しないが、次第に風化して灰になることをいう。
この詩も、神仙を願うことに反対しているのではない。また始皇帝をひきあいにだして、玄宗を諷刺したというものでもなく、ただ神仙の道を求める資格が、なかったことをいっているのである。晩年の豪奢と強権、宦官に任せた始皇帝には、不老長寿を求める資格はない、たとえ徐市(徐福)に始皇帝を欺く意志があったとしてもである。
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- 李太白集 396《太白巻二十二40憶東山二首 其二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7568 (04/03)
- 李太白集 395《太白巻二十二39憶東山二首 其一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7563 (03/30)
- 李太白集 394《太白巻二十08杜陵絕句》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7558 (03/29)
- 李太白集 393《太白巻十九18朝下過盧郎中敘舊游》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7553 (03/28)
- 李太白集 392《太白巻十八12金門答蘇秀才》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7548 (03/27)
- 太白集 391《太白巻十九17下終南山過斛斯山人宿置酒》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7543 (03/26)
- 太白集 390《太白巻十六33 送長沙陳太守,二首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7538 (03/25)
- 李太白集 389《太白巻十六32 送長沙陳太守,二首之一》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7533 (03/24)
- 李太白集 388《太白巻十六26 送祝八之江東賦得浣紗石》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7528 (03/23)
- 李太白集 387《太白巻十六23-《送白利從金吾董將軍西征》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7523 (03/22)
- 李太白集 386《太白巻十六21 送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7508 (03/19)
- 李太白集 385《太白巻十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7503 (03/18)
- 李太白集 384《太白巻十六18-2 送外甥鄭灌從軍,三首之二》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7498 (03/17)
- 李太白集 383《太白巻十六18-1 送外甥鄭灌從軍,三首之一》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7493 (03/16)
- 李太白集 382《太白巻十六13 送張遙之壽陽幕府》 (壽陽信天險,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7488 (03/15)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/14)
- 李太白集 381《太白巻十六10 送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7483 (03/13)
- 李太白集 380《太白巻十六08 送竇司馬貶宜春》 (天馬白銀鞍,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7478 (03/12)
- 李太白集 379《太白巻十四34 贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7473 (03/11)
- 李太白集 378《太白巻十二06-夕霽杜陵登樓寄韋繇》 (浮陽滅霽景) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7468 (03/10)
- 李太白集 377《太白巻巻十二05-《望終南山寄紫閣隱者》(出門見南山) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7463 (03/09)
- 李太白集 376《太白巻八36 贈盧徵君昆弟》 (明主訪賢逸) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7458 (03/08)
- 李太白集 375《太白巻八22 贈郭將軍》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7453 (03/07)
- 李太白集 374《太白巻六10-《同族弟金城尉叔卿燭照山水壁畫歌》 (高堂粉壁圖蓬瀛) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7448 (03/06)
- 李太白集 373《太白巻六07 西嶽雲臺歌送丹丘子》 (西嶽崢嶸何壯哉) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7443 (03/05)
- 李太白集 372《太白巻六05 玉壺吟》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7438 (03/04)
- 李太白集 371《太白巻卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7433 (03/03)
- 李太白集 370《太白巻五 24-秋思》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7428 (03/02)