巻1 14 李太白集 《0114 古風五十九首之十四》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5371
- 2015/01/09
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《0114 古風五十九首之十》 李白(西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)両軍合わせて三十六万人もの兵士が死に、百万を超える人びとが流すかなしみのなみだは雨のようだ。家族のかなしみをすべて背負って、兵士になって戦場に就くのだ。男がいなくなるのにこの先どうして田畑を営んでいけるというのだろうか。
製作年: 749年 天寶八年 49歲
卷別:巻一 卷一六一 文體: 五言古詩
詩題: 古風,五十九首之十四
古風,五十九首之十四 #1
(西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
辺境にある関所塞は砂漠で風と砂塵が常に多く蕭索として寂しげな景色が広がって未開の地で殺風景である。それは大昔から今も同じ状態なのだ。
木落秋草黃,登高望戎虜。
木の葉が落ちて秋もふかまり、草の黄ばむころになった、小高い丘にのぼり、はるか先の胡の方をながめた。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
荒れはてた城郭があり、ほかには何もない大きな砂漠があるのだ。国境の村々には、垣根すら跡形なく残っていない。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。」
白骨が千年もの霜を過ごしても、累々と横たわっている。山は高く嶮しいが、藪や叢に蔽われてしまっている。』
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#2
借問誰凌虐,天驕毒威武。
赫怒我聖皇,勞師事鼙鼓。
陽和變殺氣,發卒騷中土。」
#3
三十六萬人,哀哀淚如雨。
且悲就行役,安得營農圃。
不見征戍兒,豈知關山苦。
李牧今不在,邊人飼豺虎。」
(古風,五十九首之十四 #1)
胡関 風沙靡く、粛索 責に終古。
木落ちて 秋草黄ばみ、高きに登りて 戎虜を望む。
荒城は 空しく大漠、辺邑に 遺堵無し。
白骨 千霜に横たわり、嵯峨として 榛葬に顧わる。」
借問す 誰か陵虐す、天騎 威武を毒す。
我が聖皇を赫怒せしめ、師を労して 輩鼓を事とす。
陽和は 殺気に変じ、卒を発して中土を騒がしむ。」
三十六万人、哀哀として、涙 雨の如し。
且つ悲しんで、行役に就く、安くんぞ農圃を営むを得ん。
征戊の児を見ずんば、豈 関山の苦しみを知らんや。
李牧 今在らず、辺入 豺虎の飼となる。
『古風,五十九首之十四』 現代語訳と訳註
(本文)
古風,五十九首之十四 #1
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草黃,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。」
(異文)
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草黃,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。
借問誰凌虐,天驕毒威武。
赫怒我聖皇,勞師事鼙鼓。
陽和變殺氣,發卒騷中土。
三十六萬人,哀哀淚如雨。
且悲就行役,安得營農圃。
不見征戍兒,豈知關山苦。
【案:一本此下有以下四句:爭鋒徒死節,秉鉞皆庸豎。戰士死蒿萊,將軍獲圭組。】
李牧今不在,邊人飼豺虎。
(下し文)
(古風,五十九首之十四 #1)
胡関 風沙靡く、粛索 責に終古。
木落ちて 秋草黄ばみ、高きに登りて 戎虜を望む。
荒城は 空しく大漠、辺邑に 遺堵無し。
白骨 千霜に横たわり、嵯峨として 榛葬に顧わる。」
(現代語訳)
(西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
辺境にある関所塞は砂漠で風と砂塵が常に多く蕭索として寂しげな景色が広がって未開の地で殺風景である。それは大昔から今も同じ状態なのだ。
木の葉が落ちて秋もふかまり、草の黄ばむころになった、小高い丘にのぼり、はるか先の胡の方をながめた。
荒れはてた城郭があり、ほかには何もない大きな砂漠があるのだ。国境の村々には、垣根すら跡形なく残っていない。
白骨が千年もの霜を過ごしても、累々と横たわっている。山は高く嶮しいが、藪や叢に蔽われてしまっている。』
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(訳注)
古風,五十九首之十四 #1
古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。
十四 (西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
この詩は、玄宗皇帝の749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事、その年まで、天宝6載(747年)、王忠嗣が軍を進めなかった罪で弾劾された。天宝7載(748年)、青海地方に城を築いて吐蕃を破り、青海に近づかせなかった。西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたことを詠っている。
天宝8載(749年)、隴右節度使として、王忠嗣が左遷される原因となった吐蕃の石堡城の攻略を命じられる。隴右・河西・朔方・河東及び突厥の兵合わせて10万を率いて攻め込んだ。石堡城は難攻不落であったが、数万の兵を失いつつも落城させた。
胡關饒風沙、蕭索竟終古。
辺境にある関所塞は砂漠で風と砂塵が常に多く蕭索として寂しげな景色が広がって未開の地で殺風景である。それは大昔から今も同じ状態なのだ。
○胡関 胡地への関所。胡は、中国西域、北方の異民族。農耕民族に対して、遊牧・騎馬民族。
○粛索。ものさびしく、ひっそりしているさま。
木落秋草黃、登高望戎虜。
木の葉が落ちて秋もふかまり、草の黄ばむころになった、小高い丘にのぼり、はるか先の胡の方をながめた。
○木落 そのものでなく木の葉が落ちること、詩の慣用語。
○終古 いつまでも、永久に。
○戎虜 えびす。胡地。異民族との国境地点。
荒城空大漠、邊邑無遺堵。
荒れはてた城郭があり、ほかには何もない大きな砂漠があるのだ。国境の村々には、垣根すら跡形なく残っていない。
○大漠 大砂漠。
○辺邑 国境の村。
○遺堵 のこった垣根。
白骨橫千霜、嵯峨蔽榛莽。』
白骨が千年もの霜を過ごしても、累々と横たわっている。山は高く嶮しいが、藪や叢に蔽われてしまっている。』
〇千霜 千年のこと。千「□」と千につく語は詩の印象を強めす。例えば、春だと咲き誇る春が千年であり、秋だと、草花が枯れていくさびしい秋が千年となる。ここでは、句の初めに、白骨があり、千霜と冷たくあたり一面広々と霜の白と白骨の白が続く。
○嵯峨 山が高くけわしい。
古風,五十九首之十四 #1
(西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
辺境にある関所塞は砂漠で風と砂塵が常に多く蕭索として寂しげな景色が広がって未開の地で殺風景である。それは大昔から今も同じ状態なのだ。
木落秋草黃,登高望戎虜。
木の葉が落ちて秋もふかまり、草の黄ばむころになった、小高い丘にのぼり、はるか先の胡の方をながめた。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
荒れはてた城郭があり、ほかには何もない大きな砂漠があるのだ。国境の村々には、垣根すら跡形なく残っていない。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。」
白骨が千年もの霜を過ごしても、累々と横たわっている。山は高く嶮しいが、藪や叢に蔽われてしまっている。』
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#2
借問誰凌虐,天驕毒威武。
どうして、毎年のように戦争が絶えないというのはなぜなのか、この辺境に侵略して陵虐を引きおこしたのか、とたずねてみると、だいたい、「天驕子」とうぬぼれる匈奴は武力を悪用し、毒毒しくするからである。
赫怒我聖皇,勞師事鼙鼓。
こうした事実を踏まえてわれわれのすぐれた皇帝は、烈火にお怒りになった。そこで軍隊をうごかし、進軍太鼓をたたいて攻撃するのである。
陽和變殺氣,發卒騷中土。」
こうして西域は麗らかな、長閑な生活が、殺伐たる空気に変わった。兵卒をつぎつぎとくり出し、兵車で砂塵は上がり、国中は大騒動になった。』#3
三十六萬人,哀哀淚如雨。
且悲就行役,安得營農圃。
不見征戍兒,豈知關山苦。
李牧今不在,邊人飼豺虎。」
(古風,五十九首之十四 #1)
胡関 風沙靡く、粛索 責に終古。
木落ちて 秋草黄ばみ、高きに登りて 戎虜を望む。
荒城は 空しく大漠、辺邑に 遺堵無し。
白骨 千霜に横たわり、嵯峨として 榛葬に顧わる。」
借問す 誰か陵虐す、天騎 威武を毒す。
我が聖皇を赫怒せしめ、師を労して 輩鼓を事とす。
陽和は 殺気に変じ、卒を発して中土を騒がしむ。」
三十六万人、哀哀として、涙 雨の如し。
且つ悲しんで、行役に就く、安くんぞ農圃を営むを得ん。
征戊の児を見ずんば、豈 関山の苦しみを知らんや。
李牧 今在らず、辺入 豺虎の飼となる。
『古風,五十九首之十四』 現代語訳と訳註
(本文)
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草黃,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。」
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草黃,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。
借問誰凌虐,天驕毒威武。
赫怒我聖皇,勞師事鼙鼓。
陽和變殺氣,發卒騷中土。
三十六萬人,哀哀淚如雨。
且悲就行役,安得營農圃。
不見征戍兒,豈知關山苦。
【案:一本此下有以下四句:爭鋒徒死節,秉鉞皆庸豎。戰士死蒿萊,將軍獲圭組。】
李牧今不在,邊人飼豺虎。
(下し文)
借問す 誰か陵虐す、天騎 威武を毒す。
我が聖皇を赫怒せしめ、師を労して 輩鼓を事とす。
陽和は 殺気に変じ、卒を発して中土を騒がしむ。」
(現代語訳)
どうして、毎年のように戦争が絶えないというのはなぜなのか、この辺境に侵略して陵虐を引きおこしたのか、とたずねてみると、だいたい、「天驕子」とうぬぼれる匈奴は武力を悪用し、毒毒しくするからである。
こうした事実を踏まえてわれわれのすぐれた皇帝は、烈火にお怒りになった。そこで軍隊をうごかし、進軍太鼓をたたいて攻撃するのである。
こうして西域は麗らかな、長閑な生活が、殺伐たる空気に変わった。兵卒をつぎつぎとくり出し、兵車で砂塵は上がり、国中は大騒動になった。』
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(訳注)
古風,五十九首之十四 #2
古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。
十四 (西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
この詩は、玄宗皇帝の749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事、その年まで、天宝6載(747年)、王忠嗣が軍を進めなかった罪で弾劾された。天宝7載(748年)、青海地方に城を築いて吐蕃を破り、青海に近づかせなかった。西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたことを詠っている。
天宝8載(749年)、隴右節度使として、王忠嗣が左遷される原因となった吐蕃の石堡城の攻略を命じられる。隴右・河西・朔方・河東及び突厥の兵合わせて10万を率いて攻め込んだ。石堡城は難攻不落であったが、数万の兵を失いつつも落城させた。
借問誰凌虐、天驕毒威武。
どうして、毎年のように戦争が絶えないというのはなぜなのか、この辺境に侵略して陵虐を引きおこしたのか、とたずねてみると、だいたい、「天驕子」とうぬぼれる匈奴は武力を悪用し、毒毒しくするからである。
○天驕 えびすの王の単子が漢に僕をよこして「えびすは天の驕子である」と言った。驕子は我儘息子のこと。*遊牧・騎馬民族は常に牧草地を移動して生活をする。侵略も移動のうちである。略奪により、安定させる。定住しないで草原のテントで寝る、自然との一体感がきわめておおきく彼らからすると天の誇高き息子と自惚れた訳ではなかった。漢民族は、世界の中心、天の中心にあると思っているのに対して、天の息子が漢民族化するわけはない。漢書の匈奴伝に「胡は、天の驕子なり」とみえる、えびすは天の“いたずら坊や”であるといっている。
杜甫『留花門』
北門天驕子,飽肉氣勇決。
高秋馬肥健,挾矢射漢月。
自古以爲患,詩人厭薄伐。
修德使其來,羈縻固不絕。
胡爲傾國至,出入暗金闕。』留花門 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1004 杜甫特集700- 299
赫怒我聖皇、勞師事鼙鼓。
こうした事実を踏まえてわれわれのすぐれた皇帝は、烈火にお怒りになった。そこで軍隊をうごかし、進軍太鼓をたたいて攻撃するのである。
○聖皇 神聖なる皇帝。唐の玄宗をさす。
○労師 玄宗の738年開元26年にチベットに大挙攻めいって以来、唐と吐蕃(チベット)の間に戦争はたえなかった。北方・北西は、契丹、奚、突蕨と、西、南西に吐蕃、ペルシャと戦った。
○鼙鼓 進軍太鼓。戦車が基本の戦いのため。
陽和變殺氣、發卒騷中土。』
こうして西域は麗らかな、長閑な生活が、殺伐たる空気に変わった。兵卒をつぎつぎとくり出し、兵車で砂塵は上がり、国中は大騒動になった。』
○陽和 うららかな、のどかな生活。
○中土 中国全土。基本的には漢民族の領土。特に吐蕃が南から、突厥が北から、西域(:隴右道)を完全に侵略されうばわれることになるのである。
古風,五十九首之十四 #1
(西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
辺境にある関所塞は砂漠で風と砂塵が常に多く蕭索として寂しげな景色が広がって未開の地で殺風景である。それは大昔から今も同じ状態なのだ。
木落秋草黃,登高望戎虜。
木の葉が落ちて秋もふかまり、草の黄ばむころになった、小高い丘にのぼり、はるか先の胡の方をながめた。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
荒れはてた城郭があり、ほかには何もない大きな砂漠があるのだ。国境の村々には、垣根すら跡形なく残っていない。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。」
白骨が千年もの霜を過ごしても、累々と横たわっている。山は高く嶮しいが、藪や叢に蔽われてしまっている。』
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#2
借問誰凌虐,天驕毒威武。
どうして、毎年のように戦争が絶えないというのはなぜなのか、この辺境に侵略して陵虐を引きおこしたのか、とたずねてみると、だいたい、「天驕子」とうぬぼれる匈奴は武力を悪用し、毒毒しくするからである。
赫怒我聖皇,勞師事鼙鼓。
こうした事実を踏まえてわれわれのすぐれた皇帝は、烈火にお怒りになった。そこで軍隊をうごかし、進軍太鼓をたたいて攻撃するのである。
陽和變殺氣,發卒騷中土。」
こうして西域は麗らかな、長閑な生活が、殺伐たる空気に変わった。兵卒をつぎつぎとくり出し、兵車で砂塵は上がり、国中は大騒動になった。』
#3
三十六萬人,哀哀淚如雨。
両軍合わせて三十六万人もの兵士が死に、百万を超える人びとが流すかなしみのなみだは雨のようだ。
且悲就行役,安得營農圃。
家族のかなしみをすべて背負って、兵士になって戦場に就くのだ。男がいなくなるのにこの先どうして田畑を営んでいけるというのだろうか。
不見征戍兒,豈知關山苦。
見たことはないだろう、戦争にかりだされた若者のことを、どうして遠い国境のとりで、山々での苦しみを知ることができるというのか。
李牧今不在,邊人飼豺虎。」
李牧のような名将は、今は存在しない。だから、国境の人びとは山犬や虎のような胡人たちの餌じきになっているのだ。
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(古風,五十九首之十四 #1)
胡関 風沙靡く、粛索 責に終古。
木落ちて 秋草黄ばみ、高きに登りて 戎虜を望む。
荒城は 空しく大漠、辺邑に 遺堵無し。
白骨 千霜に横たわり、嵯峨として 榛葬に顧わる。」
借問す 誰か陵虐す、天騎 威武を毒す。
我が聖皇を赫怒せしめ、師を労して 輩鼓を事とす。
陽和は 殺気に変じ、卒を発して中土を騒がしむ。」
三十六万人、哀哀として、涙 雨の如し。
且つ悲しんで、行役に就く、安くんぞ農圃を営むを得ん。
征戊の児を見ずんば、豈 関山の苦しみを知らんや。
李牧 今在らず、辺入 豺虎の飼となる。
『古風,五十九首之十四』 現代語訳と訳註
(本文)
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草黃,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。」
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草黃,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨橫千霜,嵯峨蔽榛莽。
借問誰凌虐,天驕毒威武。
赫怒我聖皇,勞師事鼙鼓。
陽和變殺氣,發卒騷中土。
三十六萬人,哀哀淚如雨。
且悲就行役,安得營農圃。
不見征戍兒,豈知關山苦。
【案:一本此下有以下四句:爭鋒徒死節,秉鉞皆庸豎。戰士死蒿萊,將軍獲圭組。】
李牧今不在,邊人飼豺虎。
(下し文)
三十六万人、哀哀として、涙 雨の如し。
且つ悲しんで、行役に就く、安くんぞ農圃を営むを得ん。
征戊の児を見ずんば、豈 関山の苦しみを知らんや。
李牧 今在らず、辺入 豺虎の飼となる。
(現代語訳)
両軍合わせて三十六万人もの兵士が死に、百万を超える人びとが流すかなしみのなみだは雨のようだ。
家族のかなしみをすべて背負って、兵士になって戦場に就くのだ。男がいなくなるのにこの先どうして田畑を営んでいけるというのだろうか。
見たことはないだろう、戦争にかりだされた若者のことを、どうして遠い国境のとりで、山々での苦しみを知ることができるというのか。
李牧のような名将は、今は存在しない。だから、国境の人びとは山犬や虎のような胡人たちの餌じきになっているのだ。
(訳注)
古風,五十九首之十四 #2
古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。
十四 (西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたこと、749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事を詠う。)
この詩は、玄宗皇帝の749年天宝8載、哥舒翰の石堡城を打ち破った時の事、その年まで、天宝6載(747年)、王忠嗣が軍を進めなかった罪で弾劾された。天宝7載(748年)、青海地方に城を築いて吐蕃を破り、青海に近づかせなかった。西域と南蛮異民族に対して敗北が続いていたこと、士卒が征戎に苦しんでいたことを詠っている。
三十六萬人、哀哀淚如雨。
両軍合わせて三十六万人もの兵士が死に、百万を超える人びとが流すかなしみのなみだは雨のようだ。
○三十六萬人 吐蕃と唐との戦で死んだ人を象徴的に詩的表現と考える。鲜于仲通(693年-755年),名向,字仲通,是中国唐朝河北道渔阳(今天津市蓟县)人,寄籍剑南道新政。他和杨国忠勾结,得任剑南节度使,天宝十载(751年),率兵攻打南诏,在泸南(今云南省姚安县)大败,损兵六万。杨国忠掩盖他的败绩,推荐鲜于仲通为京兆尹,后来被贬官。有《鲜于向集》。
且悲就行役、安得營農圃。
家族のかなしみをすべて背負って、兵士になって戦場に就くのだ。男がいなくなるのにこの先どうして田畑を営んでいけるというのだろうか。
○安得 安は何と同じ。前の聯句は対句を無視して強調され、この聯に受けて、且悲:安得と強調している。
○行役 国境守備などの兵役。
○農圃 田畑、果樹園。
不見征戍兒、豈知關山苦。
見たことはないだろう、戦争にかりだされた若者のことを、どうして遠い国境のとりで、山々での苦しみを知ることができるというのか。
○不見 君不見・・・と同じ。
○関山 関は関所、塞。国境の山山。
李牧今不在、邊人飼豺虎。』
李牧のような名将は、今は存在しない。だから、国境の人びとは山犬や虎のような胡人たちの餌じきになっているのだ。
○李牧 (り ぼく、生年不明―紀元前229年)は中国春秋戦国時代の趙国の武将。『史記』「廉頗蘭相如列伝」において司馬遷は李牧を、「守戦の名将」としている。は趙の北方、代の雁門に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許されていた。警戒を密にし、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどとともに兵士を厚遇していた。 匈奴の執拗な攻撃に対しては、徹底的な防衛・篭城の戦法を取ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備した。
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