巻1 48 李太白集 《0149 古風五十九首之四十九》 李白kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5546
- 2015/02/13
- 22:00
李太白集 《0149 古風五十九首之四十九》 唐の宮女≫この宮女は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。
巻1 48 李太白集 《0149 古風五十九首之四十九》 李白 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5546 |
製作年:743年天寶二年43歲
卷別: 卷一六一 文體: 五言古詩
詩題: 古風,五十九首之四十九
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
古風,五十九首之四十九
(宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められることをいう。)
美人出南國,灼灼芙蓉姿。
南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しいのだ。
皓齒終不發,芳心空自持。
こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ったことがないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、たえず、何かを悩んでいるのだ。
由來紫宮女,共妒青蛾眉。
昔から後宮の宮女たちは、特に優れたる美人が集められていて、天子の寵愛を受けることだけを考えて競い合っている、嫉妬、讒言、陰謀によって寵愛を維持しようと排斥し合っている。
歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。
この宮女は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。
(古風,五十九首之四十九)
美人 南國にず,灼灼たる芙蓉の姿。
皓齒 終に發かず,芳心 空しく自ら持す。
由來 紫宮の女,共に青蛾眉を妒む。
歸り去れ 瀟湘の沚【なぎさ】,沈吟 何んぞ悲むに足らん。
『古風,五十九首之四十九』 現代語訳と訳註
(本文)
古風,五十九首之四十九
美人出南國,灼灼芙蓉姿。
皓齒終不發,芳心空自持。
由來紫宮女,共妒青蛾眉。
歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。
(下し文)
(古風,五十九首之四十九)
美人 南國にず,灼灼たる芙蓉の姿。
皓齒 終に發かず,芳心 空しく自ら持す。
由來 紫宮の女,共に青蛾眉を妒む。
歸り去れ 瀟湘の沚【なぎさ】,沈吟 何んぞ悲むに足らん。
(現代語訳)
(宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められることをいう。)
南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しいのだ。
こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ったことがないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、たえず、何かを悩んでいるのだ。
昔から後宮の宮女たちは、特に優れたる美人が集められていて、天子の寵愛を受けることだけを考えて競い合っている、嫉妬、讒言、陰謀によって寵愛を維持しようと排斥し合っている。
この宮女は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。
(訳注)
古風,五十九首之四十九
(宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められることをいう。)
詩経の語句を巧みに、点綴しそれによって離隔の思いを述べ、女盛りを過ぎた女性が棄てられるのを自己に比した《古風,五十九首之四十四》と同じように、美人、草木を借りて、美人ゆえの妬み、能力あるが故の讒言、を詠ったものである。
綠蘿紛葳蕤,繚繞松柏枝。
草木有所託,歲寒尚不移。
奈何夭桃色,坐歎葑菲詩。
玉顏豔紅彩,雲髮非素絲。
君子恩已畢,賤妾將何為。
44 《古風五十九首之四十四》Index-22Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳272古風,五十九首之四十四綠蘿紛葳蕤, <44> Ⅰ李白詩1207 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4583
美人出南國,灼灼芙蓉姿。
南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しいのだ。
美人 宮女、宮妓、あるいは、妓女をいうが、ここでは、唐の「内官」制度の規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭嬢、修儀、修容、修嬢、充儀、充容、充媛各一人)、姪好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した宮女達の総称としていったものである。
南國 江南、瀟湘、越の国に美人が多いとされる。李白は西施、はじめ越多く取り上げている
皓齒終不發,芳心空自持。
こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ったことがないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、たえず、何かを悩んでいるのだ。
皓齒 笑った時の白い歯。
不發 花が開かないこと、ここでは笑わないので口が開かないことをいう。
由來紫宮女,共妒青蛾眉。
昔から後宮の宮女たちは、特に優れたる美人が集められていて、天子の寵愛を受けることだけを考えて競い合っている、嫉妬、讒言、陰謀によって寵愛を維持しようと排斥し合っている。
由來 昔から後宮の宮女たちは、中国全土から、特に優れたる美人が集められていて、死ぬまで、天子の寵愛を受けることだけのために生活をさせられる。
紫宮女 天帝の後宮で天帝の住まう紫微宮(しびきゅう)を文字っている。宮女をいう。
共妒 嫉妬の競争、天子の寵愛を受けることだけを考えて競い合っている、嫉妬、讒言、陰謀によって寵愛を維持しようと排斥し合っていることをいう。
青蛾眉 特に若くて優れたる美人、若くない年を重ねた美人は競争には勝てないからあきらめて生活する。
歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。
この宮女は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。
唐の宮女
1. 唐の宮女の規定『内職』について
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭嬢、修儀、修容、修嬢、充儀、充容、充媛各一人)、姪好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で一二二人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬢」 - 皇帝の妾とされ
た。
2. 皇太子の東宮にも「内官」
また、皇太子の東宮にも「内官」 があり、太子妃一人、その下に良妹、良嬢、承徴、昭訓、奉儀などの晶級があった。諸親王の王妃の下にも清人等の腱妾の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃嬢だけが史書にいささかの痕跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』「后妃伝」 には、全部で二十六人の皇后、十人の妃嬢が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には睾皇后の他に、万貴妃、ヂ徳妃、宇文昭儀、実績、孫嬢、雀嬢、楊嬢、小楊嬢、張捷好、郭捷好、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、過度妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高捷好、柳捷好、鍾美人、慮美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、闇才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嬢がたしかに最も多かったようである。
3. 後宮の宮女たちの選抜と出身
唐代の皇帝たちは、後宮の女性を選抜したり寵愛したりするのに、あまり尊卑貴職を気にかけなかったが、彼女たちに地位・晶級を賜る時には家柄をたいへん重視した。とりわけ皇后に立てる時には絶対に家柄が高貴でなければならず、「天下の名族を厳選」しなければならなかった(『資治通鑑』巻一九九、高宗永徴六年)。漢代に歌妓の衛子夫(武帝の皇后。もと武帝の姉の歌妓)や舞妓の超飛燕(成帝の皇后。もと身なし児で歌妓)が皇后になったようなことは、唐代には完全に跡を絶った。后妃に封ずる時は、まず「地肖清華」(家柄の高貴)、「軒冤之族」(貴顕なる名族)等々の出身であることが強調され、その次にやっと徳行が問われた。
唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちの八人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、建国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賎である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して彼女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は櫻献(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徴六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。恐らく天下の議を話すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賎ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。
名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。
唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婦にされた人であり、憲宗の鄭后、珍宗の斎后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。
・ 皇后を立てることに比べて、妃嬢を立てることはわりあい簡単であり、家柄はそれほど厳格に問題にされることはなかった。彼女たちの大半は皇子を生むか、あるいは寵愛を受けたために妃嬢の晶階を賜った者であったから、その中には身分の低い者もいくらか含まれていた。たとえば、玄宗の超麗妃は歌妓の出身であった。そうした例もあるが、しかし妃嬢でも出身、家柄はやはり大切であった。太宗の楊妃は隋の場帝の娘であったから、「地位と名望が高く、内外の人々が皆注目した」(『新唐書』太宗諸子伝)。玄宗の柳捷好は名門大族の娘であり、玄宗は「その名家を重んじて」(『新唐書』十一宗諸子伝)特別な礼遇を与えた。
・ 美人が雲のごとく集まっている後宮において、家柄は一頭地を抜くために必要な第一の跳躍台であった。
4. 政治闘争に巻き込まれる
富貴、栄達、優閑、快適 - 彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っていたからである。
『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は動乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。
5. 天子の寵愛を失う
彼女たちの第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うことに外ならない。大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と難難を共にしたことによっ々寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。
王皇后と玄宗は難難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った韋后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔難難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がちょっとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂実の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ひどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃嬢に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災難を逃れることができた(王走保『唐掟言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と斎淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。
この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから手足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。
6. 皇帝の死去
后妃にとって、最後の脅威は皇帝の死去である。これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」 へと転じることができた。少なくとも子のある妃嬢はちょっとした地位を保つことができたが、子のない妃嬢たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后といぅ至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭太后を礼遇しなかった。それで郭太后は鬱々として楽しまず、楼に登って自殺しょうとした。宣宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。
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