唐宋八大家文読本 巻三 29《八讀巻05-05 畫記 -§3)》三段目 韓愈 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5671
- 2015/03/10
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韓愈§3-1 《讀巻05-05 畫記 -(6)》同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
唐宋八大家文読本 巻三 29《八讀巻05-05 畫記 -§3)》三段目 韓愈 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 5671 |
韓愈詩-30-(6) §3-1
(6)§3-1
貞元甲戌年,余在京師甚無事。
貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。
同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。
同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。
余幸勝而獲焉,意甚惜之。
私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
以為非一工人之所能運思。
思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。
蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。
それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。
(7)-2
明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。
座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。
少而進曰:「噫!余之手摸也。
亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。
得國本,絕人事而摸得之。
(8) -3
遊閩中而喪焉。
居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。
今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」
余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。
(6)§3-1
貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。
余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。
以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,
蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。
(7)-2
明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。
君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。
少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。
之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。
國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。
(8) -3
閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。
居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。
今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」
余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。
『畫記』 現代語訳と訳註解説
(本文) (6)§3-1
貞元甲戌年,余在京師甚無事。
同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。
余幸勝而獲焉,意甚惜之。
以為非一工人之所能運思。
蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。
(下し文) (6)§3-1
貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し。
同居に獨孤生申叔という者有り、始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。
余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。
以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,
蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。
(現代語訳)
貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。
同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。
私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。
それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。
(訳注) (6)§3-1
〈畫記〉6.§3-1
(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)
時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。
795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。
この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。
貞元甲戌年,余在京師甚無事。
貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。
同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。
同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。
○彈棊 将棊の駒。碁盤は方二尺、その中央が盂(鉢)を伏せた形をして、その巓に小さな壺がある。二人が対局し黒白の駒が各八枚、互いに弾いて壺に入れて勝負を争う。
余幸勝而獲焉,意甚惜之。
私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
以為非一工人之所能運思。
思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。
蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。
それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。
○藂集 叢集、藂は叢に同じ。むらがり集まる。
(6)§3-1
貞元甲戌年,余在京師甚無事。
貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。
同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。
同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。
余幸勝而獲焉,意甚惜之。
私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
以為非一工人之所能運思。
思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。
蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。
それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。
(7)-2
明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。
翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。
座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。
その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。
少而進曰:「噫!余之手摸也。
しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。
亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。
この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。
得國本,絕人事而摸得之。
国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。
(8) -3
遊閩中而喪焉。
居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。
今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」
余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。
(6)§3-1
貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。
余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。
以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,
蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。
(7)-2
明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。
君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。
少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。
之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。
國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。
(8) -3
閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。
居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。
今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」
余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。
『畫記』 現代語訳と訳註解説
(本文) (7)§3-2
明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。
座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。
少而進曰:「噫!余之手摸也。
亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。
得國本,絕人事而摸得之。
(下し文) (7)-2
明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。
君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。
少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。
之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。
國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。
(現代語訳)
翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。
その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。
しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。
この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。
国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。
(訳注) (7)-2
〈畫記〉7.§3-2
(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)
時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。
795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。
この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。
明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。
翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。
京師 中国歴代王朝の都のこと(長安、洛陽、北京など)。
河陽 現在の河南省孟縣西、県城の南に孟津がある。文選·曹植·送應氏詩二首之二:「親昵並集送,置酒此河陽。」
座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。
その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。
少而進曰:「噫!余之手摸也。
しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。
○手横 手づから写した。
亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。
この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。
得國本,絕人事而摸得之。
国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。
(6)§3-1
貞元甲戌年,余在京師甚無事。
貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。
同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。
同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。
余幸勝而獲焉,意甚惜之。
私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
以為非一工人之所能運思。
思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。
蓋藂集眾工人之所長耳,雖百金不願易也。
それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。
(7)-2
明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。
翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。
座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。
その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。
少而進曰:「噫!余之手摸也。
しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。
亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。
この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。
得國本,絕人事而摸得之。
国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。
(8) -3
遊閩中而喪焉。
ところが後に閩中に旅をした時に、これを失ってしまった。
居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。
閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。
今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」
今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。
余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。
私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。
(6)§3-1
貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。
余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。
以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,
蓋し眾工人の長ずる所を藂集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。
(7)-2
明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。
君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。
少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。
之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。
國本を得て,人事を絕ちて之を摸得たり。
(8) -3
閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。
居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。
今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」
余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。
『畫記』 現代語訳と訳註解説
(本文) (8)§3-3
遊閩中而喪焉。
居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。
今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」
余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。
(下し文) (8) -3
閩中【びんちゅう】に遊んで喪えり。
居閒 處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。
今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」
余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形狀と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。
(現代語訳)
ところが後に閩中に旅をした時に、これを失ってしまった。
閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。
今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。
私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。
(訳注)
〈畫記〉7.§3-2
(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)
時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。
795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。
この詩文の画記は克明に人馬の状、雑物の数を挙げて記し、この画に代わる、文字による画としているのは、極めて特異な作品である。特に百二十三人と、馬八十三頭、その他二百五十一の物を記録して、自らの記憶の便にしたことも、韓愈のこの画に対する愛情の深さを物語るものであろう。ただ愛玩の絵画の記であるから、その発想表現は自ら諧謔、滑椿の趣向が生まれるのが、中国詩文の通例である。特にこの文では馬の描写に精彩がある。杜甫はじめ多くの詩人が画馬の詩に傑作を残したのを、韓愈は散文において試みたと見ることもできる。
遊閩中而喪焉。
ところが後に閩中に旅をした時に、これを失ってしまった。
○閩中 郡名、福建省の地方を閩という。
居閒處獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。
閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。
○居閒 閑暇な生活に居る。
○處獨 孤独に処る時。
○夙好之篤 若いころの好みが熱心であった。
今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」
今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。
○大都 おおよそ。あらまし。
余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形狀與數,而時觀之以自釋焉。
私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。
○自釈 自分で画を手放した恨みをなぐさめる。釈はゆるめ解く。
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