韓愈《0226(改訂)汴州亂二首其一》(韓愈が汴州を出て、2日後に乱がおこった。これを聞き及んで、こういう乱がおこるのは、畢竟、朝廷の徳が衰えた身体というので、嘆息してこの詩を作った。)その一
39 《0226(改訂)汴州亂二首其一》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1330> Ⅱ韓昌黎集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5634韓愈詩-39
韓愈 汴州 にて
795年貞元十一年一月、今に残っている「宰相に上る書」には、(自分ほどの才能のある人物を放置するのは国家的損失なので、科挙によらずして採用の道を開き、宰相が人材を求めている実を示していただきたい)という手紙を韓愈は時の宰相に送って、仕官を求めた。科挙の試験に出ない自分の哲学を、自由論文として出し、藁をもつかむ思いであったのだろう。二月、三月と執念深く宰相に手紙を送ったが、返事は一度もなかった。
五月、困った韓愈は都を後に、郷里の河陽へと帰る。韓愈を養育してくれた兄嫁の鄭氏は、前年に死んでいた。その墓参が目的であり、長安での生活費の一部を持ち帰ること目的であった。
《與衞中行書 -(8)》韓愈
翌796年貞元十二年六月、汴州(河南省開封市)に本拠を置く宣武軍節度使の幕府に世襲に絡んで紛争が発生した。クーデターを成功させたものが節度使を継承できなかったことから、世情が落ち着かない状態であった。
節度使幕府の軍隊は節度使の傭兵であり、新たに中央からの任じられてきたものの命令には従わないのである。
しかし新任の董晋は温厚な人物で、万事に寛宏であったという。何もなかったような顔で宣武軍に着任し、軍事はいっさい部惟恭にまかせると発言した。これで部惟恭の顔も立ち、宜武軍は混乱から立ち直った。
この董晋の幕下に、韓愈は招かれて入った。節度使は行政・軍政を行なうために幕府を作るが、人事権は、節度使がもっているので、節度使が任命した人事に対して、朝廷が追認した形で辞令を出すのであった。しかし、その節度使一代限りにおいて役職が保障されるもので、節度使が死んだりやめたりしたときには、自動的にその地位を失う。科挙で選ばれた普通の官僚は、皇帝に忠節を尽くす。節度使の意のままに動く部下を必要とした。
礼部の試には合格したが、吏部で落第したという人を幕僚にして幕府を構成するということを、どの節度使がとった方法あった。韓愈も董晋の幕僚となったが、幕僚としての働きは顕著でない。797年貞元十三年には病気だったことが「復志賦」などの作品から、仕事をしたのは、翌年の貞元十四年にからであろう。宣武軍の科挙の予備試験の試験官という仕事であった。
799年貞元十五年二月三日、董晋が病気のため亡くなったため、ふたたびこの地に乱がおこったのだ。
この時の詩が「汴州の乱二首」である。
汴州亂二首 其一
汴州城門朝不開,天狗堕地聲如雷。
健兒爭誇殺留後,連屋累棟燒成灰。
諸侯咫尺不能救,孤士何者自興哀。
其二
母從子走者爲誰,大夫夫人留後兒。
昨日乘車騎大馬,坐者起趨乘者下。
廟堂不肯用幹戈,嗚呼奈汝母子何。
《0226(改訂)汴州亂二首其一》
汴州亂二首 其一
(韓愈が汴州を出て、2日後に乱がおこった。これを聞き及んで、こういう乱がおこるのは、畢竟、朝廷の徳が衰えた身体というので、嘆息してこの詩を作った。)その一
汴州城門朝不開,天狗堕地聲如雷。
その朝、夜明けの鐘が鳴っても、汴州の城門が、朝になっても開けられなかった。天狗星は諸葛孔明が死んだときに落ち、これまで、兵乱の前兆を知らせるため、大きな音をたてて天空を走りこの地に落ちたのである。
健兒爭誇殺留後,連屋累棟燒成灰。
叛乱の兵士たちは先を争って節度使の留後、つまり事務取扱者である陸長源を殺した。幕府の屋根をならべ棟をかさねた留後の居宅、屋敷はその際、すべて焼けてしまい灰となった。
諸侯咫尺不能救,孤士何者自興哀。
元来、汴州は要衝の地であるから、周りには、諸公、潘鎮、ほかの節度使たちは目と鼻の近くにいるにもかかわらず、救助することをしなかった。私のように助けたいと思うものは孤立無援の状態であり、いくら慷慨したところで、哀悼の心をおこすだけで、何の効果もないというものである。
其の一
汴州 城門 朝に開かず、天狗 地に堕ちて 声 雷の如し。
健児 争い誇る 留後を殺すと、連屋 累棟 焼けて灰と成る。
諸侯 咫尺 救う能わず、孤士 何者ぞ 自ら哀しみを興す。
《0226(改訂)汴州亂二首其一》
汴州乱 其一 現代語訳と訳註
(本文)
汴州城門朝不開,天狗堕地聲如雷。
健兒爭誇殺留後,連屋累棟燒成灰。
諸侯咫尺不能救,孤士何者自興哀。
(下し文) 其の一
汴州の城門 朝に開かず、天狗 地に堕ちて 声 雷の如し。
健児 争い誇って 留後を殺し、連屋 累棟 焼けて灰と成る。
諸侯 咫尺なるも救う能わず、孤士 何者ぞ 自ら哀しみを興こす。
(現代語訳)
(韓愈が汴州を出て、2日後に乱がおこった。これを聞き及んで、こういう乱がおこるのは、畢竟、朝廷の徳が衰えた身体というので、嘆息してこの詩を作った。)その一
その朝、夜明けの鐘が鳴っても、汴州の城門が、朝になっても開けられなかった。天狗星は諸葛孔明が死んだときに落ち、これまで、兵乱の前兆を知らせるため、大きな音をたてて天空を走りこの地に落ちたのである。
叛乱の兵士たちは先を争って節度使の留後、つまり事務取扱者である陸長源を殺した。幕府の屋根をならべ棟をかさねた留後の居宅、屋敷はその際、すべて焼けてしまい灰となった。
元来、汴州は要衝の地であるから、周りには、諸公、潘鎮、ほかの節度使たちは目と鼻の近くにいるにもかかわらず、救助することをしなかった。私のように助けたいと思うものは孤立無援の状態であり、いくら慷慨したところで、哀悼の心をおこすだけで、何の効果もないというものである。
汴州亂,二首之一
(韓愈が汴州を出て、2日後に乱がおこった。これを聞き及んで、こういう乱がおこるのは、畢竟、朝廷の徳が衰えた身体というので、嘆息してこの詩を作った。)その一
799年貞元十五年32歲
卷別: 卷三三七 文體: 七言古詩
詩題: 汴州亂,二首之一
德宗貞元十三年,宣武節度使董晉辟愈為推官。十五年,晉薨,公隨晉喪歸,既出四日。宣武軍亂,殺行軍司馬陸長源。
汴州 汴州(べんしゅう)は中国にかつて存在した州。現在の中華人民共和国河南省開封市に相当する。
南北朝時代、東魏により設置された梁州を前身とする。その後北周により汴州と改称された。
隋朝が成立すると汴州は1郡2県を管轄した。605年(大業元年)に汴州は廃止され、その管轄県は鄭州に移管されている。617年(義寧元年)には再び汴州が設置されている。
大部分は河南道で,一部は河北・淮南・山南の3道に分属していた。唐が滅んだのち,五代では後唐が洛陽に都をおいたほかは,みな東方の汴州(べんしゆう)(開封)を都としたのは,そこが平原に位置し,洛陽に比べていっそう水運の便に恵まれていたからであった。宋代になると汴州は汴京(べんけい)開封府といい,北宋一代にわたり全中国の国都として栄えた唐書地理志「汴州陳留郡は武徳四年、鄭州の俊義・開封・封邱をもっておく」とある。
汴州城門朝不開,天狗堕地聲如雷。
汴州 城門 朝に開かず、天狗 地に堕ちて 声 雷の如し。
その朝、夜明けの鐘が鳴っても、汴州の城門が、朝になっても開けられなかった。天狗星は諸葛孔明が死んだときに落ち、これまで、兵乱の前兆を知らせるため、大きな音をたてて天空を走りこの地に落ちたのである。
○城門 夜明けとともに鐘を合図に開けられるものである。
○天狗 天狗星。音を立てて落下したり、地上に落ちて燃えたりする、大きな流星。天狗流星。[塵袋]諸葛孔明が死んだときに落ち流星を言う。兵乱がある。もしくは敗軍の前兆とされる。
健兒爭誇殺留後,連屋累棟燒成灰。
健児 争い誇って 留後を殺し、連屋 累棟 焼けて灰と成る。
叛乱の兵士たちは先を争って節度使の留後、つまり事務取扱者である陸長源を殺した。幕府の屋根をならべ棟をかさねた留後の居宅、屋敷はその際、すべて焼けてしまい灰となった。
○健兒 兵士。
○爭誇 先を争う。間違ったことで反乱を起こす。
○留後 事務取扱者である陸長源のこと。
諸侯咫尺不能救,孤士何者自興哀。
諸侯 咫尺なるも救う能わず、孤士 何者ぞ 自ら哀しみを興こす。
元来、汴州は要衝の地であるから、周りには、諸公、潘鎮、ほかの節度使たちは目と鼻の近くにいるにもかかわらず、救助することをしなかった。私のように助けたいと思うものは孤立無援の状態であり、いくら慷慨したところで、哀悼の心をおこすだけで、何の効果もないというものである。
○咫尺 「咫」は中国の周の制度で8寸、「尺」は10寸 1 距離が非常に近いこと。「―の間(かん)」 2 貴人の前近くに出て拝謁すること。
天狗は彗星のごとく、天空に見え、雷のごとき音を発する。地に落ちた所を見れば犬のようで、落ちた地方には兵乱がある。もしくは敗軍の前兆とされる。ここではむろん、汴州で兵士たちが反乱を起こしたことをさす。ただ、韓愈はこのとき、どういうわけか陸長源に同情してるともとれるが、正義感たくましい韓愈は、自分たちの利益のみで行動していることに懸念を示しているのと、死者を葬るというセレモニーの期を利用して乱を起こしたという礼節・道徳上の問題を定義しているのである。
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