李太白集 329《太白巻二18 春日行》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7218
- 2016/01/20
- 22:36
深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。
春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。
皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである。その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。
李太白集 329《太白巻二18 春日行》 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7218 |
年:743年天寶二年43歳 94首-(12)
卷別: 卷一六二 文體: 樂府
詩題: 春日行
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點: 終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山
【3分割】
春日行
深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。
佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。
春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。
(君王の遊楽を詞す歌。)
皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである
その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。
すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。
因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。
三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。
萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。
三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿。
帝不去,留鎬京。
安能為軒轅,獨往入窈冥。
小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。
(春日行)
深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。
佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。
春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。
因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。
三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。
萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。
三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿を下る。
帝 去らず,鎬京に留る。
安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。
小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。
『春日行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
春日行
深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。
佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。
春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。
(下し文)
(春日行)
深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。
佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。
春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。
(現代語訳)
(君王の遊楽を詞す歌。)
皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである
その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。
すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。
(訳注)
春日行
(君王の遊楽を詞す歌。)
○春日 春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。
年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。
元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。
人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。
上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。
探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。
寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、3月1日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。
寒食の用語解説 - 古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。
上巳節は、3月3日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。
春の行事:探春の宴、送窮日、寒食節、清明節、上巳節
深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。
皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである
○深宮 宮城の奥深いところ。
○紫清 皇城の上に広がるおおぞら。
○盤繡楹 彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱。・楹 母屋の正面の丸柱. 2((文語文[昔の書き言葉])) 部屋の数を数える.
佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。
その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。
○佳人 古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
○絃將手語 声を出して語り、歌いながら弦を弾く
○彈鳴箏 絃数の多い箏琴、さらに多い瑟琴など弾き、敲いて音を出す、同時に複数絃から音色が出るため高度に難しいとされた。玄宗は数多くの「一芸に秀でたもの」を梨園に集めた。李白は、ここで玄宗の遊楽に対してのことを言っているのであろう。以下、閉じ有名な宮優をあげる。
<張雲容>
全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。
<王大娘>
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。
<許和子(永新)>
『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。
<念奴>
『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。
春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。
すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。
○昇天行 古樂府昇天行。曹植"日月何肯留"、鮑照"家世宅關輔"。曹植又有《飛龍》、《仙人》、《上仙錄》與《神遊》、《五遊》、《遠遊》、《龍欲昇天》等七篇。如陸士衡《緩聲歌》,皆傷人世不永,俗情險艱,當求神仙翺翔六合之外。其詞蓋出楚歌《遠遊篇》也。昇天行は、曹植の"日月何肯留"とあり、鮑照の"家世宅關輔"とみえる。曹植は又、《飛龍》、《仙人》、《上仙錄》與《神遊》、《五遊》、《遠遊》、《龍欲昇天》等七篇 有る。陸士衡《緩聲歌》の如し,皆 人世 永からず,俗情險艱なるを傷み,當に神仙を求め、六合之外に翺翔すべし。其の詞 蓋し楚歌(楚辞)の《遠遊篇》に出る也。」とある。
【3分割】
春日行
(君王の遊楽を詞す歌。)
深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。
皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである
佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。
その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。
春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。
すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。
#2
因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。
かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。
三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。
この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。
萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。
今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。
#3
三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿。
帝不去,留鎬京。
安能為軒轅,獨往入窈冥。
小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。
(春日行)
深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。
佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。
春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。
因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。
三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。
萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。
三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿を下る。
帝 去らず,鎬京に留る。
安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。
小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。
『春日行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#2
因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。
三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。
萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。
(下し文)
#2
因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。
三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。
萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。
(現代語訳)
#2
かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。
この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。
今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。
(訳注)
#2
因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。
かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。
天池 大明宮大掖池、横幅約1km、縦幅、約500mの池。
泛蓬瀛 大掖池に実際に神仙三山(蓬莱、方丈、瀛州)の島々を具現化してある。
樓船 この池に浮べる船。大きな帆船で樓櫓もしっかり作った船。
蹙沓 池が大きいので波が立つことを言う。
波浪驚 さざ波の大きいのがぶっつかりあっておどろく。
●綱引きも女性が参加できるスポーツであった。中宗はかつて后妃と一緒に、宮女たちの綱引き競技を見物したことがある。また、後宮の女性たちは節句の日にいつも船漕ぎ競争をした。「狸狸な血株を頭に繋って標とし、天上 声を斉えて画境を挙ぐ。却って是れ内人は争意切にして、六宮の羅袖一時に招く」(張砧「上巳楽」)。この詩は六宮の美人が船漕ぎ競争をする賑やかなありさまをよく描写している。 女性の体育活動に関する記録は多くない。しかも大半は宮女・妓優の活動に関するものであるが、それらは古代女性の体育史の空白を補っており、さらにまた古代には女性と体育は縁がなかったとする大方の通論の誤りを正すものである。 女性の娯楽活動は体育活動よりもより豊富であり、参加者の範囲も広かった。 |
三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。
この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。
三千 宮中の女性の数。玄宗の時は、三万人ともいわれている。杜甫はかつて《観公孫大娘弟子舞剣器行井序》「先帝の侍女八千人」(「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」)と詠い、白居易もまた《長恨歌》」「後宮の佳麗三千人」と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『全唐文』巻一四二、李百薬「宮人を放つを請うの封事」)といった。『新唐書』の「官者伝」上に、「開元、天宝中、宮嬪はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。
雙蛾 この時、妃嬪が百名以上いた、通常の妃賓に100名程度の宮女がつくので、これだけでも、1万5千人程度、織物から諸作業のもで総員30,000名というもの納得できるものではある。妃嬪に数十名ついて宴がおこなわれれば、
獻歌笑 このころいちばんは、散楽であり、「百戯」とも呼ばれる民間で行われる様々な娯楽のための技芸の総称である。次第に西域の技芸が取り入れられるようになり、盛唐では、宮廷でも左右教坊によって管轄された。散楽は、民間の音楽や角觝など武術、芝居も含まれるが、主流は曲芸や幻術(手品)、であった。内容は、竿木、縄伎(戯縄ともいう)、舞馬(象で行うこともある)、跳丸、弄剣、筋斗(とんぼ)、球伎、馬伎、呑刀、吐火、舞剣、植瓜、種棗、盤舞、杯盤舞などがあった。
撾鐘 銅鐸の鐘をたくさん並べ、踊りながら敲き、仙郷の音楽と言われた。
考鼓 鼓にも音階があり、これも役割を定めて、歌い踊りながら鳴らした。
宮殿傾 数が多く、大迫力であることを言う。
萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。
今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。
萬姓聚舞歌太平 唐時代の中で、最も生産性が高まり、最も裕福で安定した時代「開元の治」といわれた。この頃の思想は、宮中、後宮というものは、民の生活とかけ離れるほど、天子の威厳威光が高まると考えられ、頽廃に向かうほど、太平になるものとされていた。それぞれことが、ただ一人の天子のためにあるというのである。
【3分割】
春日行
(君王の遊楽を詞す歌。)
深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。
皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである
佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。
その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。
春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。
すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。
#2
因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。
かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。
三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。
この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。
萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。
今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。
#3
三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿。
かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。
帝不去,留鎬京。
ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。
安能為軒轅,獨往入窈冥。
天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。
小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。
それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。
(春日行)
深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。
佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。
春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。
#2
因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。
三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。
萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。
#3
三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿を下る。
帝 去らず,鎬京に留る。
安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。
小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。
『春日行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#3
三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿。
帝不去,留鎬京。
安能為軒轅,獨往入窈冥。
小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。
(下し文)
#3
三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿を下る。
帝 去らず,鎬京に留る。
安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。
小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。
(現代語訳)
#3
かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。
ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。
天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。
それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。
(訳注) #3
春日行
(君王の遊楽を詞す歌。)
○春日 春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。
年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。
三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿。
かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。
三十六帝 道教三十六天のこと。三十六天罡道教神名,道教稱北斗叢星中有三十六個天罡星,每個天罡星各有一神,共有三十六位神將。兜率天、大梵天、月行天、速行天、智慧天、婆利天、善法堂天、影照天、威德顏天、眾分天、住輪天、清淨天、上行天、缽弘地天、雜地天、山頂天、住峰天、俱吒天、光明天、周行地天、歡喜圓天、波利樹天、摩尼藏天、險岸天、柔軟地天、雜莊嚴天、如意地天、微細行天、密殿中天、寰影上天、音樂天、成輪天,計為三十三天,加以三清所居之清微天、禹餘天、太赤天,合為三十六天。
雲軿 雲でもって車とする。
帝不去,留鎬京。
ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。
鎬京 西周 (→周 ) 時代の都の名。現在の陝西省西安市の西、澧水をはさんで豊邑の対岸にあったと考えられる。西周の始王である武王は,殷を討ったあと,父文王の営んだ豊京より移ってここを都とし,これが西周の東遷まで続いた。
安能為軒轅,獨往入窈冥。
天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。
軒轅 黃帝、『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となり、天我契合の聖境に達しようとするにいたった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描いている。
窈冥 杳冥。
小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。
それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。
拜獻 そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪すること。厳かな山に対して、海の闊大さにつぃして詩的表現として使われる。山,我不讚美你的壯健, 海,我不歌詠你的闊大
南山壽 「詩経」小雅・天保から》終南山が崩れないように生命や事業がいつまでも続くこと。南山は、長安の南にたたなわる終南山秦嶺山脈のこと。「天保定爾、以莫不興。如山如阜、如岡如陵。如川之方至、以莫不增。・・・如月之恒、如日之升。如南山之壽、不騫不崩。如松柏之茂、無不爾或承。」(天は爾を保定す、以って興らざるなし。山の如く阜の如く、岡の如く陵の如し。川の方に至るが如く、以って增さざるなし。・・・月の恒なるが如く、日の升るが如く。南山の壽の如く、騫けず崩れず。松柏の茂る如く、爾に承くる或らざるなし。)天保から「如」しが九回あり、「天保九如」が「南山之寿」と同じ意味で用いられる。
陛下 「陛」は宮殿の階段。階下にいる近臣を通じて奏上する意から、中国で天子の尊称。
鴻名 大きな名誉。名声。大きな名。
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