李太白集 337《太白巻三13 中山孺子妾歌》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7258
- 2016/01/28
- 22:39
中山孺子妾,特以色見珍。雖然不如延年妹,亦是當時絕世人。
桃李出深井,花豔驚上春。一貴復一賤,關天豈由身。
芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。戚姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。
(漢の未央の才人、內官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)
中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。
栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。
李太白集 337《太白巻三13 中山孺子妾歌》 李白 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7258 |
作年:743年天寶二年43歳 94首-(20)
卷別: 卷一六三 文體: 樂府
詩題: 中山孺子妾歌
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
中山孺子妾歌
(漢の未央の才人、內官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)
中山孺子妾,特以色見珍。
中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。
雖然不如延年妹,亦是當時絕世人。
後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。
桃李出深井,花豔驚上春。
そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。
一貴復一賤,關天豈由身。
その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。
芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。
栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。
戚姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。
現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。
(中山孺子妾の歌)
中山孺子の妾,特に色を以て珍とせらる。
延年の妹に如かずと雖も,亦た是れ當時 絕世の人。
桃李は深井に出で,花豔にして 上春を驚かす。
一貴 復た 一賤,天に關す 豈に身に由らんや。
芙蓉は秋霜に老い,團扇は網塵を羞づ。
戚姫は髡髮して舂市に入り,萬古 共に悲辛。
『中山孺子妾歌』 現代語訳と訳註解説
(本文)
中山孺子妾歌
中山孺子妾,特以色見珍。
雖然不如延年妹,亦是當時絕世人。
桃李出深井,花豔驚上春。
一貴復一賤,關天豈由身。
芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。
戚姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。
詩文(含異文): 中山孺子妾,特以色見珍。雖然不如延年妹,亦是當時絕世人。桃李出深井,花豔驚上春。一貴復一賤,關天豈由身。芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。戚姬髡髮入舂市【戚姬髡剪入舂市】,萬古共悲辛。
(下し文)
(中山孺子妾の歌)
中山孺子の妾,特に色を以て珍とせらる。
延年の妹に如かずと雖も,亦た是れ當時 絕世の人。
桃李は深井に出で,花豔にして 上春を驚かす。
一貴 復た 一賤,天に關す 豈に身に由らんや。
芙蓉は秋霜に老い,團扇は網塵を羞づ。
戚姫は髡髮して舂市に入り,萬古 共に悲辛。
(現代語訳)
(漢の未央の才人、內官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)
中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。
後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。
そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。
その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。
栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。
現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。
(訳注)
中山孺子妾歌
(漢の未央の才人、內官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。《礼記、昏義》 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。
《漢書》曰「“詔賜中山靖王子噲及孺子妾冰、未央才人歌詩四篇。”如淳曰:“孺子,幼少稱孺子。妾,宮人也。”顏師古曰:“孺子,王妾之有品號者。妾,王之眾妾也。冰,其名。才人,天子內官。”按,此謂以歌詩賜中山王及孺子妾、未央才人等爾,累言之,故雲及也。而陸厥作歌,乃謂之中山孺子妾,失之遠矣。」(《漢書》に曰く:“詔して中山靖王子噲、及び孺子妾冰、未央の才人に歌詩四篇を賜う。”と。如淳曰く:“孺子は,幼少 孺子と稱す。妾は,宮人なり。”と。顏師古曰く:“孺子は,王妾の品號有る者。妾は,王の眾妾なり。冰は,其の名なり。才人は,天子の內官なり。”と。按ずるに,此れは歌詩を以て中山王及び孺子 妾、未央の才人等に賜うを謂うのみ。爾,之を累言する,故に及と雲うなり。而して 陸厥 歌を作り,乃ち之を中山孺子妾と謂う,之を失うこと遠し。)とある。
中山晴 中山晴王噲現、在の河北省に中山王国があった。初代王靖王は劉勝で、在位42年で死に、その後は哀王劉昌、康王劉昆侈、頃王劉輔、憲王劉福、懐王劉循と続き、懐王に子がいなかたため断絶した。李白は、劉勝が酒食に耽り、120人以上の子供がいたことで有名で、1968年に中山靖王の墓とされる遺跡から「金縷玉衣(ヒスイで作られた死者に着せる服)が発掘されたことで、豪奢な生活ぶりを示すものを唐時代において、諸侯が同じようにしていることを問題視している。
儒子 儒子妾氷。顏師古曰く:“孺子は,王妾の品號有る者。妾は,王の眾妾なり。冰は,其の名なり。才人は,天子の內官なり。”と
中山孺子妾,特以色見珍。
中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。
雖然不如延年妹,亦是當時絕世人。
後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。
延年妹 人名。生卒年不詳,漢中山(今河北定縣)人,漢武帝寵妃,李延年妹。容貌美麗,善於歌舞。生昌邑哀王,早卒,武帝曾作賦悼念。兄李延年は美人の妹を武帝に売り込むため、詩をつくって自ら歌ってみせた。それが有名な《絶世傾国の歌》「北方有佳人、絶世而獨立。一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得。」(北方に佳人有り、絶世にして獨立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや 、佳人は再びは得がたし。)売り込みは大成功で、李延年の妹は武帝の夫人として召され、他の兄たちも要職を得て出世した。ところで、武帝に愛されたのは李夫人だけではなかった。傾国と例えるのに相応しい美人だった李夫人の兄、李延年自身もまた絶世の美男だった。武帝は李夫人を慈しみ、男子をもうけつつ、同時に李延年をも寵愛し、夫婦のように起臥を共にしていた。李夫人は不幸にして夭折してしまい、死に瀕して容色衰えた自分の顔を武帝に見せることを頑なに拒んだと伝えられる。
桃李出深井,花豔驚上春。
そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。
桃李 史記「桃李不言下自成蹊」桜梅桃李:桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李、それぞれの姿、特質がある。 桜は決して梅にはなれないけれど、桜であるからこその美しさがある。
深井 後宮の寝殿の奥にある井戸端。
花豔驚上春 初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。
一貴復一賤,關天豈由身。
その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。
芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。
栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。
戚姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。
現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。
戚姬 戚夫人(未詳- 紀元前194年?)は、秦末から前漢初期の人物。高祖劉邦の側室で、劉如意の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。
しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は趙王のままとされた。
このことから、戚夫人母子は盈の生母である呂雉に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による報復が始まる。
まず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えた。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として『漢書』に収められている。
そして呂太后は、長安に入朝した如意を毒殺した。その前後、戚夫人も殺害された。『史記』によると呂后は戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落としてそれを人豚と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せたため、彼は以後激しい衝撃を受け、酒色に溺れるようになり早世したという。
不幸な運命、感情の飢渇富貴
栄達、優閑、快適
彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っていたからである。
『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は動乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。
后妃たちにとって、最も恐ろしいことはまず
第一に政治権力をめぐる闘争
彼女たちはしばしば全く理由もなく政治事件の被害に遭ったり、家族の罪に連坐させられたり、甚だしい場合には殺害されるという災難にあった。ここで人々はまず楊貴妃のことを最初に想い浮かべることであろう。複雑な政治闘争、権力闘争の角逐の中で、いまだ政治に関与したことのなかったこの女性は、玄宗皇帝が彼女に夢中になり、また彼女の家族を特別に厚遇したということだけで、君主を迷わし国を誤らせ禍をもたらした罪魁となり、最後には無残にも締め殺されたうえ、千古に残る悪名を背負わされ、正真正銘の生け贅の小羊となった。
唐代に、このような悲劇が決して他になかったわけではない。中宗の趨皇后(死後に皇后の称号を追贈)は王妃となった時、母親の常楽長公主と武則天の間に抗争が起ったため、内侍省(宮中に在る官官管理の一役所)に拘禁された。毎日窓から生のままの食事を少し与えられただけで、世話する人もいなかった。数日後、衛士が中で死んでいるのを発見したとき、死体はすでに腐乱していた。容宗の睾后と劉后は人から無実の罪に陥れられ、武則天の命で、同じ日に秘密裏に殺され、死体は行方知れずになった。粛宗が皇太子だった時、章妃は長兄が罪により死を賜ったため粛宗と離婚を余儀なくされた。以後彼女は宮中で尼僧となって終生灯明古仏を伴としてくらした。唐末、昭宗の何皇后の最後はさらに悲惨で、昭宗が朱全忠に殺された後、罪を控造されて締め殺され、王朝交替の犠牲者となった。
第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うこと
大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と艱難を共にしたことによって寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。王皇后と玄宗は艱難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った喜后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔艱難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がちょっとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂実の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ひどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃嬢に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災難を逃れることができた(王走保『唐掟言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と斎淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。
この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから手足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。
后妃、妃嬪にとって脅威は皇帝の死去
これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」 へと転じることができた。少なくとも子のある妃嬪はちょっとした地位を保つことができたが、子のない妃嬢たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后といぅ至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭太后を礼遇しなかった。それで郭太后は鬱々として楽しまず、楼に登って自殺しょうとした。宣宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。
唐代の后妃のなかには、そのほか皇帝に殉死したという特別な例がある。それは武宗の王賢妃である。彼女はもとは才人の身分であり、歌舞をよくし、皇帝からたいへんな寵愛を受けた。武宗は危篤間近になると、彼女に「朕が死んだらお前はどうするのか」と問うた。すると彼女は「陛下に御供して九泉にまいりたいと思います」と答えた。すると武宗は布を彼女に与えたので、王才人は帳の下で首をくくって死んだ(『資治通鑑』巻二四八、武宗会昌六年)。次の宣宗が即位すると、彼女に「賢妃」を追贈し、その貞節を誉め讃えた。このようにして、一個の生きた肉体が「賢妃」という虚名と取り換えられたのである。
もし、予測のつかない未来と苦難の多い運命によって生みだされる不安な感情が、后妃たちの生活の普通の心理であったとするなら、もう一つ彼女たちにまとわりついているのは、心の慰めや家庭の暖かさが欠けていることによって深く感ずる孤独、寂蓼、哀怨の気特であった。次のようにも言うことができよう。彼女たちは物質的には豊かであったが、人間の情愛の面では貧しかったと。
寵愛を失った者は言うまでもないが、寵愛を受けている者でさえも、何万にものぼる女性が一人の男性に侍っている宮中においては、誰も皇帝の愛情をいつまでも一身に繋ぎとめておくことは不可能であり、また正常な夫婦生活と家族団欒の楽しみを味わうことも不可能であった。皇帝が訪れることもなくなって、零落してしまった后妃の場合、おのずから悲痛はさらに倍加した。
玄宗の時代、妃嬪がはなはだ多かったので、「妃嬪たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃嬪のところに赴いた」。また、妃嬪たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。
「長門(妃嬪の住む宮殿)閉ざし定まりで生を求めず、頭花を焼却し挙を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王建「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら荊の簪を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「婕妤怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作品を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには彼女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。
残酷な生存競争
日常的に危険と不安が潜伏している後宮のなかで、気の弱い者、能力のない者は、ただ唯々諾々と運命に翻弄されるしかなかった。しかし、ちょっと勇敢な者は、他人から運命を左右されることに甘んぜず、自分の力をもって自分の運命を支配し変革しょうとし、さらに進んでは他人をも支配しょうとした。これは高い身分にいることから激発される権力欲ばかりではなかった。彼女たちの特殊な生活環境もまた、彼女たちを一場の激しい 「生存競争」 の只中に投げ入れずにはおかなかったのである。
皇帝の寵愛を失う恐怖があるからこそ、人は様々な手段を講じて寵愛をつなぎとめたり、寵愛を奪いとろうとした。後宮における寵愛をめぐる最も残酷な一場の闘争は、武則天、王皇后、粛淑妃の間で行われた。王皇后は皇帝の寵愛もなく、また子もなかったので、寵愛を一身に受ける斎淑妃を嫉妬して張り合った。彼女は高宗がかつて武則天と情を通じていたことを知ると、策略をめぐらし、感業寺の尼になっていた武則天に蓄髪させて再び宮中に入れ、粛淑妃の寵愛を奪わせようとした。宮中に入ったはじめのうちは武則天もへりくだって恭しくしていたが、いったん帝の寵愛を得ると、この二人の競争相手に対抗し始めた。王皇后を廃するために武則天は自分の生んだ女の子を締め殺し、その罪を皇后にかぶせることもいとわなかった。最終的に武則天はさまざまな計略と手段をもって徹底的に競争相手を打ち破って皇后になり、王、請の二人は悲惨な末路をたどった。斎淑妃は処刑される時、武則天を激しく呪い、「願わくば来世は猶に生れ、武氏を鼠にして、世々代々その喉笛にくらいつき仇を討ちたい」といった。後宮の競争の激しさは人を懐然とさせる。こうした競争は王后、粛妃が起したものではないし、また武則天だけを谷めることもできない。それはじつに後宮のなかで極限にまで発展した、一夫多妻制度がもたらした産物であった。政治と権力が彼女たちの争いを発酵させ膨らませたのであり、その激烈さは普通の家庭の妻と妾の争いを遥かに越えるものとなった。
皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなくなるので、早くから考えをめぐらせた人たちもいた。男子を生んだ后妃は、いうまでもなくあらゆる手段を講じてわが子を皇太子にし、その貴い子の母たる地位を手に入れようとした。こうして跡継ぎを決めることも、后妃たちの激しい競争となった。玄宗はすでに趨魔妃の生んだ子を皇太子にしていたが、武恵妃が玄宗の寵愛を受けるようになると、現皇太子の位を奪って我が子寿王を皇太子に立てようと画策した。まず彼女は皇太子を廃するため罠をしかけて、〝宮中に賊が出た〞と言って皇太子と二人の王子に鎧を着て来させ、その後で玄宗に三人が謀反を起したと告げた。それで、太子と二人の王子は処刑された。男子のない后妃、あっても皇太子になる望みのない后妃は別に出路を求め、皇太子かその他の皇子たちにとりいって自己の安全を図ったのである。高祖李淵が晩年に寵愛したダ徳妃、張捷好などは子がなかったり、あっても助かったので、すでに勢力をもっている他の何人かの皇子と争うことはたいへん難しかった。そこで彼女たちは皇太子の李建成と互いに結びあい、利用しあって建成の即位を助け、高祖の死後のわれとわが子の不測の運命にそなえたのである。
后妃たちは表面的には高貴で優閑な生活を送っていたが、裏では緊張に満ちた活動をしており、それは彼女たちの別の生活の大きな部分をなしていた。こうした様々な手段は決して公明正大なものとはいえない。しかし、政治の変動と後宮の生活が彼女たちにもたらす残酷無情な状況を見るならば、そしてまた天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったことを考えるならば、彼女たちが自分の運命を変えようと少しあがいたからといって、どうして厳しく責めることができよう。
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- カテゴリ:李太白集 巻三
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