李太白集 355《太白巻四25 宮中行樂詞,八首之四》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7348
- 2016/02/15
- 22:48
李白 宮中行樂詞,八首之四
玉樹春歸日,金宮樂事多。後庭朝未入,輕輦夜相過。
笑出花間語,嬌來竹下歌。莫教明月去,留著醉嫦娥。
(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。
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年:743年天寶二年43歳 94首-(39)
卷別: 卷一六四 文體: 樂府
詩題: 宮中行樂詞,八首之四
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點: 無
宮中行樂詞,八首之四
(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)
玉樹春歸日,金宮樂事多。
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。
後庭朝未入,輕輦夜相過。
天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。
笑出花間語,嬌來竹下歌。
その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。
莫教明月去,留著醉嫦娥。
春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。
(宮中行楽詞 其の四)
玉樹 春 帰るの日、金宮 楽事 多し。
後庭 朝に未だ入らず、輕輦 夜 相過ぐ。
笑って 花間を出でて語り、嬌として 竹に下し来って歌う。
明月をして去らしむる莫れ、留著して 嫦蛾を酔わしめん。
『宮中行樂詞,八首之四』 現代語訳と訳註解説
(本文)
宮中行樂詞,八首之四
玉樹春歸日,金宮樂事多。
後庭朝未入,輕輦夜相過。
笑出花間語,嬌來竹下歌。
莫教明月去,留著醉嫦娥。
詩文(含異文)
玉樹春歸日【玉殿春歸日】【玉樹春歸好】【玉殿春歸好】,金宮樂事多。
後庭朝未入,輕輦夜相過。
笑出花間語,嬌來竹下歌【嬌來燭下歌】。
莫教明月去,留著醉嫦娥。
(下し文)
(宮中行楽詞 其の四)
玉樹 春 帰るの日、金宮 楽事 多し。
後庭 朝に未だ入らず、輕輦 夜 相過ぐ。
笑って 花間を出でて語り、嬌として 竹に下し来って歌う。
明月をして去らしむる莫れ、留著して 嫦蛾を酔わしめん。
(現代語訳)
宮中行楽詞 其四(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。
天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。
その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。
春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。
(訳注)
宮中行樂詞,八首之四
(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)
宮中の威厳のある立派な木々に春が、漢武帝の黄金の宮で行楽行事がある。寝殿奥の御殿、軽輦によって、夜の訪れになる。ほほえみに花を咲かせ、歓びの声、蝋燭の光、簾の下の歌のような声にあふれた。あの美しい月のような美人を帰らせてはいけない。引きとどめておいて、月の精の嫦娥を酔わせるのだ。
李白のこの詩に極似の詩を下に示す。
陳叔寶《玉樹後庭花》
麗宇芳林對高閣,新粧艶質本傾城。
映戸凝嬌乍不進,出帷含態笑相迎。
妖姫臉似花含露,玉樹流光照後庭。
麗宇 芳林 高閣に 對し,新粧 艶質 本より 傾城。
戸に映(は)ゆに 嬌を凝らして 乍(たちま)ち 進まず,帷を出で 態を含みて 笑ひて 相ひ迎ふ。
妖姫 臉(かほ)は 花の露を含むに 似て,玉樹 光を流して 後庭を照らす。
玉樹春歸日。金宮樂事多。
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。
【33】 玉樹 (1)美しい木。 (2)すぐれて高潔な姿の人。 (3)エンジュの異名。⑷美しい樹。転じて姿の美しいさま。才能の優れた人。ここでは、後宮の美しい妃嬪を指す。
【34】 金宮 こがね作りの宮殿。漢の武帝の故事。長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に「阿嬌を得たいかい?」と訊いた。劉徹は「もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ」と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。
【36】 樂事多 春には年中行事、行楽行事が目白押しにある。
後庭朝未入。輕輦夜相過。
天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。
【37】 後庭 玉樹後庭花, 玉树后庭花 1.樂府 吳 聲歌曲名。 南朝 陳後主 作。 《陳書‧皇后傳‧後主張貴妃》: “ 後主 每引賓客對 貴妃 等遊宴, 則使諸貴人及女學士與狎客共賦新詩, 互相贈答。後宮。宮中の奥御殿
【38】 朝 朝は、紫宸殿で日の出に朝礼が行われ、列を整えて礼をする。その後、天下の政事、諸事をおこなう。
【39】 輕輦 手車の呼び方を変えている。「其一」・歩輩 手車。人がひく車。人力車。「其二」・雕輦 彫刻をほどこした手くるま。宮中において天子のみが使用する車で宮中を象徴するものとしてとらえている。
笑出花間語。嬌來竹下歌。
その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。
【40】花間語 宮女の話し声。花は宮女。
【41】嬌 美しい。艶めかしい。声や色合いが美しい。可愛がる。
【42】竹下歌 紙のない時代は紙の代わりに用いた。蝋燭のもとで竹に書き物をする。また、竹の簾のもと、閨を意味しそこでの男女の情交の際の声を歌で示した。
莫教明月去。留著醉嫦蛾。
春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。
【43】留著 とめておく。
【44】嫦蛾 。古代の神話中の女性。努という弓の名人の妻であったが、夫が酎欝が(仙女)からもらってきた不死の薬。宮中では、不死薬は媚薬でもあり、精力増強剤とされていた。それを、夫のるすの問にぬすんでのんだため、体が地上をはなれて月にむかってすっとび、それいらい、月の精となった。月の世界で、「女の盛りに、一人で、待っている女性」という意味でつかわれる。魯迅の「故事新編」の中の「奔月」は、この話がもとになっている。
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白兔搗藥秋復春,嫦娥孤棲與誰鄰。
嫦娥 李商隠
雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。
嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。
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1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥
李白 宮中行樂詞,八首 【字解】
【1】 〔宮中における内職、冊封制度について〕
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも孺人【じゅじん】等の媵妾【ようしょう】の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃嬢だけが史書にいささかの痕跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』「后妃伝」 には、全部で二十六人の皇后、十人の妃嫁が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には竇皇后の他に、万貴妃、ヂ徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、佳境、楊嬢、小楊嬢、張捷好、郭妊婦、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趨麗妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高娃好、柳娃好、鍾美人、慮美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、闇才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嫁がたしかに最も多かったようである。
【2】 宮中行楽詞 宮中における行楽の歌。李白は数え年で四十二歳から四十四歳まで、足かけ三年の間、宮廷詩人として玄宗に仕えた。この宮中行楽詞八首と、つぎの晴平調詞三首とは、李白の生涯における最も上り詰めた時期の作品である。唐代の逸話集である孟棨の「本事詩」には、次のような話がある。
本事詩
嘗因宮人行樂,謂高力士曰:「對此良辰美景,豈可獨以聲伎為娛,
倘時得逸才詞人吟詠之,可以誇耀於後。」遂命召白。
時寧王邀白飲酒,已醉。
既至,拜舞頹然。上知其薄聲律,謂非所長,命為宮中行樂五言律詩十首。
白頓首曰:「寧王賜臣酒,今已醉。倘陛下賜臣無畏,始可盡臣薄技。」
上曰:「可。」即遣二內臣掖扶之,命研墨濡筆以授之。
又令二人張朱絲欄於其前。白取筆抒思,略不停綴,十篇立就,更無加點。
筆跡遒利,鳳跱龍拏。律度對屬,無不精絕。
嘗て宮人行樂するに因り,高力士に謂って曰く:「此の良辰美景に對し,豈に獨り聲伎を以って娛と為す可けんや,
倘し時逸才の詞人を得て之を吟詠すれば,以て後に誇耀す可し。」と。遂に命して白を召す。
時に寧王 白を邀えて酒を飲ましめ,已に醉う。
既に至るや,拜舞して頹然たり。上 其の聲律を薄しとするを知り,謂えらく長ずる所に非ずと,命じて宮中行樂の五言律詩十首を為らしむ。
白 頓首して曰く:「寧王 臣に酒を賜い,今 已に醉う。倘し 陛下 臣に畏るる無きを賜わば,始めて臣の薄技を盡す可し。」と。
上 曰く:「可なり。」と。即ち遣二內臣をして之を掖扶せしめ,命じて墨を研し筆を濡し以て之を授け。
又た 令二人をして 朱絲欄を其の前に張らしむ。白 筆を取って思いを抒べ,略 停綴せず,十篇 立ちどころに就る,更に點を加うる無し。
筆跡 遒利,鳳跱 龍拏。律度對屬,精絕ならざるなし。
玄宗皇帝があるとき、宮中での行楽のおり、側近の高力士にむかって言った。「こんなに良い季節、うるわしい景色を前にしながら、単に歌手の歌をきいてたのしむだけでは物足りぬ。天才の詩人が来て、この行楽を詩にうたえば、後の世までも誇りかがやかすことであろう」と。そこで、李白が召されたのだ。李白はちょうど皇帝の兄の寧王にまねかれて酒をのみ、泥酔していたが、天子の前にまかり出ても、ぐったりとなっていた。玄宗は、この奔放な詩人に、律詩を十首つくるよう命じた。五言律詩は、対句が基本、最も定型的な詩形である。李白はあまり得意としない詩形であった。玄宗は知っていて、酔っているので命じたのである。そし二、三人の側近に命じて、李白を抱きおこさせ、墨をすらせ、筆にたっぷり警ふくませて李白に持たせ、朱の糸で罫をひいた絹幅を李白の前に張らせた。李白は筆とると、少しもためらわず、十篇の詩を、たちまち書きあげた。しかも、完璧なもので、筆跡もしっかりし、律詩の規則も整っていた。現在は八首のこっている。
【3】 小小 年のおさないこと。
【4】 金屋 漢の武帝の故事。鷺は幼少のころ、いとこにあたる阿矯(のちの陳皇后)を見そめ、「もし阿嬌をお嫁さんにもらえるなら、黄金づくりの家(金星)の中へ入れてあげる」と言った。
李白《巻三35妾薄命》
漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。
寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。
雨落不上天,水覆難再收。君情與妾意,各自東西流。
昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。
(漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 昔日 芙蓉の花,今 成る 斷根の草。色を以て 他人に事【つか】へ,能【よ】く 幾時【いくとき】の 好【よろし】きを 得たりや。)
(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)
漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。
雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)
また、吉川幸次郎「漢の武帝」(岩波誓)にくわしい物語がある。
【5】 盈盈 みずみずしくうつくしいさま。古詩十九首の第二首に「盈盈たり楼上の女」という句がある。
【6】 紫微 がんらいは草の名。紫微殿があるため皇居にたとえる。
【7】 寶髻 髻はもとどり、髪を頂に束ねた所。宝で飾りたてたもとどり。
【8】 石竹 草の名。和名セキチク。別称からなでしこ。葉は細く、花は紅・自または琶音ごろ開く。中国原産であって、唐代の人もこの花の模様を刺繍して、衣裳の飾りとした。
【9】 羅衣 うすぎねのうわぎ。
【10】 歩輩 手車。人がひく車。人力車。
【11】 彩云 いろどり模様の美しい雲。
【12】 柳色 芽をふき出したばかりの柳の色であるが、男性を示唆する柳は龍で玄宗。楊は女性、楊貴妃を示す。
【13】 嫩 物がまだ新しく、若くて、弱い状態。
【14】 梨花 女性を示唆する、楊太真(貴楊妃)。
【15】 玉楼 宝玉でかざり立てた楼閣。
【16】 翡翠 かわせみ。うつくしい羽根の鳥。
【17】 珠殿 真珠をちりばめた御殿。
【18】 鴛鴦 おしどり。おす(鴛)と、めす(鴦)と仲むつまじい鳥。
【19】 妓 宮妓、教坊妓 宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職責は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。
宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸*、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上手だったため選ばれて宮中に入った。辞填壇はもとは色町の妓女であったが、挙が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、玄宗時代には特に「搊弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『古今図書集成』閏媛典閏艶部、崔令欽『教坊記』による。)。
*楽戸 楽籍という賤民身分の戸籍に属し、宮中の官妓、在野の楽人などが登録されていた。
彼女たちの中には、また別に朝臣や外国からの使節が献上した女性も、一部分であるが含まれていた。たとえば、敬宗の時代、浙東(浙江省一帯)から朝廷に飛燕、軽風という二人の舞妓が献上されている。また文宗の時代、回紇に降嫁した太和公主が馬にまたがって弓をひく七人の娘を献上したこともあった(『杜陽雜編』巻中、『旧唐書』文宗紀下)。それ以外に、少数ではあるが、元々官女であった女性の中から選ばれ、訓練を受けて宮妓になったものもいた。宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。
玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院**などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣***」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。
**梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。
***霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。
【20】雕輦 彫刻をほどこした手ぐるま。
【21】洞房 奥ぶかい部屋。*梨園、宜春院、平康里北里の妓優、侶優など。
【22】 飛燕 漢の成帝の愛姫、超飛燕。もとは長安の生れで身分は低かったが、歌や舞がうまく、やせ型の美人で、その軽やかな舞はツバメが飛ぶようであったから、飛燕とよばれた。ある時、おしのびで遊びに出た成帝の目にとまり、その妹とともに宮中に召され、帝の寵愛を一身にあつめた。十余年、彼女は日夜、帝を誘惑したので、しまいに帝は精根つきはてで崩御した。晩年、彼女は不遇となり、さいごには自殺した。彼女は漢代随一の美女とされている。また、やせた美人の代表は漢の趙飛燕、ふとった美人の代表は唐の楊貴妃とされているが、唐詩において趙飛燕をうたうとき、多くの易合、玄宗の後宮における第一人者、楊貴妃そのひとを暗に指す。もっともこの時期は楊太真で、李白が都を追われた後、楊貴妃となる。
【23】 昭陽 趙飛燕がすんでいた宮殿の名。
【24】 盧橘 果樹、枇杷の別名。もと南方の植物、で秋に花を咲かせ、夏に実を結ぶ。戴叔倫の「湘南即事」に「盧橘花開楓菓哀」とあるのもそれがもとは南方の風物であることを示したもの。
【25】 秦樹 太古から長安の街を眼下に置いていた樹木。李白はこの詩のみであるが、杜甫は以下の三首、李商隠も使っている。
杜甫(卷三16)投贈哥舒開府翰二十韻「日月低秦樹,乾坤繞漢宮。」
杜甫(卷二二70)千秋節有感二首其一「湘川新涕淚,秦樹遠樓臺。」
杜甫(卷三18) 送張十二參軍赴蜀州因呈楊五侍御「兩行秦樹直,萬點蜀山尖。」
・秦 長安の地方。李商隠「寄令狐郎中」では
嵩雲秦樹久離居、雙鯉迢迢一紙書。
休問梁園舊賓客、茂陵秋雨病相如。
秦樹は長安を長い時代見ていた樹という意味に使っている。
【26】 蒲桃 葡萄。ぶどう。ペルシャ原産で、西域を通って中国に入ったのは、漢の武帝のときである。
【27】 煙花 かすみと花とでの花霞。
【28】 絲管 弦楽器と管楽器。つまり、音楽。
【29】 節奏竜鳴水 漢馬融《長笛賦》“「龍鳴水中不見已, 截竹吹之聲相似。」後則多指管首為龍形的笛。” 漢の馬融の「笛の賦」によれば、西方の異民族である羌の人が、竹を伐っていると、龍があらわれて水中で鳴いた。すぐに龍は見えなくなったが、羌人が、きり出した竹でつくった笛を吹くと、龍のなき声と似ていたという。龍は、空想の動物である。
【30】 蕭吟鳳下空 簫は管楽器の一種。「列仙伝」に、蕭史という人が、上手に簫を吹いた。すると鳳凰がとんで来て、その家の屋根に止まった、とある。鳳凰もまた、空想の動物である。鳳がおす、凰がめす。
漢·劉向·《列仙傳·卷上·蕭史》「秦穆公有女弄玉,善吹簫,公以弄玉妻之。遂教弄玉作鳳鳴。居十數年,吹簫似鳳聲,鳳凰來止其屋。」
【31】 万方 万国と同じ。天下、万事のこと。
【32】 君王多樂事 行事は、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。
〔宮中の代表的な行事〕
元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。
人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。
上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。
探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。
寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、3月1日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。
寒食 古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。
上巳節は、3月3日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。
春の行事:探春の宴、送窮日、寒食節、清明節、上巳節
秋の行事:七夕、天長節、中秋節、重陽節
端午節は、5月5日に、悪鬼を防ぐため、艾(よもぎ)人形を戸口にかけ、艾の虎を頭にかぶる行事である。粽子(ちまき)を食べ、竜船競渡(ボートレース)を行うこともあった。宮廷でも、衣服やチマキが下賜された。部屋に飾る鍾馗の絵は唐代からはじまっている。
夏至節には、百官は3日間の休みが与えられる。
七夕は、7月7日に、年に一度、織女星と牽牛星が会う日である。爆衣・爆書という衣類や書籍の虫干しが行われ、夜に粥や瓜を食べ、竹を立てて二つの星を祭る。針穴に色糸を通して織物の上達を祈る「乞巧節」でもある。
「天長節」は、8月5日の玄宗の誕生日を国慶節としたことによる。宮廷では宴席を行い、興慶宮の広場で、玄宗のもとで宮廷楽団の音楽や大規模な舞踊、出し物や曲芸、軽業、手品などの百戯が行われた。全国の寺観でも盛大な儀式が行われ、農民も天神を祭るという行事に組み入れられた。
「中秋節は、8月15日に、中秋の名月を眺める日であり、この日の満月が最も美しい月とされた。果物などを食べながら、月見を行った。唐代の半ばにはじまり、晩唐には定着した。
重陽節は、9月9日に、人々が高い丘や高楼の高所に登高し、茱萸(かわはじかみ)の枝や菊の花を髪に挿し、その実を入れた袋を肘に下げ、菊酒を飲み邪気を祓う行事である。翌日の9月10日が小重陽で酒宴が開かれた。
冬至節は、11月15日に、皇帝が朝賀を行う前に天に祭り、天下太平・五穀豊穣を祈り、式典が催される。元旦とともに重視され、官僚は7日間の休日を与えられた。民間でも「拝冬」として祝い、ご馳走をする。この前夜は、「至除夜」と言われ、徹夜して夜明けを迎える。
臘日は成道日の12月8日に、酒宴などを行って祝う行事。宮中でも宴会が開かれる。
徐夕は、12月29日か30日の1年の最終日。夜の「除夜」に、新しい年を迎えるため、酒を飲んで、徹夜する。宮廷では「大儺」の儀式が行われた。
〔其 四〕
【33】 玉樹 (1)美しい木。 (2)すぐれて高潔な姿の人。 (3)エンジュの異名。⑷美しい樹。転じて姿の美しいさま。才能の優れた人。ここでは、後宮の美しい妃嬪を指す。
【34】 金宮 こがね作りの宮殿。漢の武帝の故事。長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に「阿嬌を得たいかい?」と訊いた。劉徹は「もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ」と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。
【36】 樂事多 春には年中行事、行楽行事が目白押しにある。
【37】 後庭 玉樹後庭花, 玉树后庭花 1.樂府 吳 聲歌曲名。 南朝 陳後主 作。 《陳書‧皇后傳‧後主張貴妃》: “ 後主 每引賓客對 貴妃 等遊宴, 則使諸貴人及女學士與狎客共賦新詩, 互相贈答。後宮。宮中の奥御殿
【38】 朝 朝は、紫宸殿で日の出に朝礼が行われ、列を整えて礼をする。その後、天下の政事、諸事をおこなう。
【39】 輕輦 手車の呼び方を変えている。「其一」・歩輩 手車。人がひく車。人力車。「其二」・雕輦 彫刻をほどこした手くるま。宮中において天子のみが使用する車で宮中を象徴するものとしてとらえている。
【40】花間語 宮女の話し声。花は宮女。
【41】嬌 美しい。艶めかしい。声や色合いが美しい。可愛がる。
【42】竹下歌 紙のない時代は紙の代わりに用いた。蝋燭のもとで竹に書き物をする。また、竹の簾のもと、閨を意味しそこでの男女の情交の際の声を歌で示した。
【43】留著 とめておく。
【44】嫦蛾 。古代の神話中の女性。努という弓の名人の妻であったが、夫が酎欝が(仙女)からもらってきた不死の薬。宮中では、不死薬は媚薬でもあり、精力増強剤とされていた。それを、夫のるすの問にぬすんでのんだため、体が地上をはなれて月にむかってすっとび、それいらい、月の精となった。月の世界で、「女の盛りに、一人で、待っている女性」という意味でつかわれる。魯迅の「故事新編」の中の「奔月」は、この話がもとになっている。
紀頌之漢詩ブログ 李白 97 把酒問月
白兔搗藥秋復春,嫦娥孤棲與誰鄰。
嫦娥 李商隠
雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。
嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。
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