360 李白清平調についてと唐の女性芸術について kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7373
- 2016/02/20
- 21:28
楽府の一つ。唐の玄宗が楊貴妃と沈香亭で牡丹をながめて楽しんだとき、李白が勅を受けて作ったもの。楽府には、清調・平調・瑟調があったが、李白が、清調と平調を合わせて清平調三章を作った。
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1.李白 樂府 清平調について
清平調とは、欒律の名で、
通典に「『清商三調』,而其初,則是僅有『清商』曲之稱.我們如今就來談漢朝起初的『清商』曲的古琴的訂弦法.而唐朝杜佑《通典》:『平調、清調、瑟調,皆周房中曲之遺聲,漢世謂之三調。』則似漢代己有清商三調的稱呼了.」
(『清商三調』,而其初,則是僅有『清商』曲之稱.我們如今就來談漢朝起初的『清商』曲的古琴的訂弦法.而唐朝杜佑《通典》:平調、清調、瑟調は皆周の房中曲の遺聲、漢世、これを三調といい、すべて相和調という。則似漢代己有清商三調的稱呼了.」とある。
李白の巻四30・31・32-《清平調詞,三首之一・二・三》詩は、沈香亭の牡丹の宴に際し、勅命に因って作ったので、清調平調の二つを合して曲に譜したから、清平調といったので、もとより詩題ではない。それから、李白が勅命に因って作ったのは、この詩と宮中行楽詞十首とであるが、これに就いては、後人の記述が錯雑して、傳聞異辭、頗る多く、紛粉として、歸著するところを知らぬようである。そこで、今正史たる新舊唐書の文を挙げ、それから他の雑書の説をも引抄して、一わたり、研究して見ようと思う。但し、是等は、大抵、王埼註文の序誌碑傳年譜などに集めてあるので、何もここで新たに詮議したわけではないこと一言ここに断って置く。
劉句の《舊唐書》
「白既嗜酒,日與飲徒醉於酒肆。玄宗度曲,欲造樂府新詞,亟召白,白已臥於酒肆矣。召入,以水灑面,即令秉筆,頃之成十餘章,帝頗嘉之。嘗沉醉殿上,引足令高力士脫靴,由是斥去。乃浪?江湖,終日沉飲。時侍御史崔宗之謫官金陵,與白詩酒唱和。」
(白、すでに酒をたしなみ、日に飲徒とともに酒肆に酔う。玄宗、曲を度して、楽府新調を造らんと欲し、すみやかに白を召す。年すでに酒肆に臥す。召し入るとき、水を以て面に灌ぎ、即ち筆を秉らしむ。これに頃くして、十餘草を成す。帝、頗る之を嘉す。かつて、殿上に沈醉し、高力士をして、靴を脱せしむ。これに由って、斥け去られ、乃ち江湖に浪跡し、終日沈飲す。時に侍御史崔宗之は金陵に謫官し,白詩と酒と唱和す。」とある。
次に宋祁の《新唐書・李白傳》
「玄宗,召見金鑾殿,論當世事,奏頌一篇。帝賜食,親為調羹,有詔供奉翰林。白猶與飲徒醉於市。帝坐沈香亭子,意有所感,欲得白為樂章;召入,而白已醉,左右以水靧面,稍解,援筆成文,婉麗精切無留思。帝愛其才,數宴見。白嘗侍帝,醉,使高力士脫靴。力士素貴,恥之,擿其詩以激楊貴妃,帝欲官白,妃輒沮止。白自知不為親近所容,益驁放不自脩,與知章、李適之、汝陽王璡、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂為「酒八仙人」。懇求還山,帝賜金放還。白浮游四方,嘗乘舟與崔宗之自采石至金陵,著宮錦袍坐舟中,旁若無人。」
(玄宗、金鑾殿に召し見て、当世の事を論じ、頌一篇を奏す。帝、食を賜ひ、親ら爲に羹を調す、詔あり、翰林に供奉せしむ。白、なお飲徒と市に醉ふ。帝、沈香亭中に坐し、意咸ずるところあり、白を得て樂章を爲らしめむと欲し、召し入るれば、白、すでに醉へり。左右、水を以て面に注ぎ、稍々や解くるや、筆をとって之を成す、艶麗精切にして、恩を留むるなし。帝、その才を愛し、数ば宴飲す。
白、常に帝に侍し、酔うて、高力士をして靴を脱せしむ。力士顕貴、これを恥とし、その詩を摘まんで、以て楊貴妃を激す。帝、白を官せむと欲す、妃、輒ち沮んで止む。白、自ら近親に容れられざるを知り、益す驁放にして、自ら修せず、賀知章、李適之、汝陽王璡、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂とともに、酒中の八仙人となり、懇ろに山に還るを求む。帝、金を賜うて放還す。白 四方に浮游し,嘗て與崔宗之と乘舟し 采石より金陵に至る,宮錦袍を著し舟中に坐す,旁若無人。」とある。
《新唐書》卷二百二〈文藝列傳中·李白〉~5762~
天寶初,南入會稽,與吳筠善,筠被召,故白亦至長安。往見賀知章,知章見其文,歎曰:「子,謫仙人也!」言於玄宗,召見金鑾殿,論當世事,奏頌一篇。帝賜食,親為調羹,有詔供奉翰林。白猶與飲徒醉于市。帝坐沈香子亭,意有所感,欲得白為樂章,召入,而白已醉,左右以水面,稍解,授筆成文,婉麗精切,無留思。帝愛其才,數宴見。白嘗侍帝,醉,使高力士脫靴。力士素貴,恥之,擿其詩以激楊貴妃,帝欲官白,妃輒沮止。白自知不為親近所容,益驁放不自脩,與知章、李適之、汝陽王璡、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂為「酒八仙人」。懇求還山,帝賜金放還。白浮游四方,嘗乘月與崔宗之自采石至金陵,著宮錦袍坐舟中,旁若無人。
(天寶の初め,南の方會稽入る,與筠と善くす,筠被召し,故に白 亦た長安に至る。往いて賀知章に見う,知章 其の文を見て,歎して曰く:「子,謫仙人也!」於れを玄宗に言う,金鑾殿に召して見う,論 世事に當る,頌一篇を奏す。食を賜ひ、親ら爲に羹を調す、詔あり、翰林に供奉せしむ。白、なお飲徒と市に醉ふ。帝 沈香子亭に坐し,意 感ずる所有r,白を得て樂章を為らしめんと欲し,召し入るれば,白 已に醉えり,左右、水を以て面に注ぎ、稍々や解くるや、筆をとって之を成す、艶麗精切にして、恩を留むるなし。帝、その才を愛し、数ば宴飲す。
白、常に帝に侍し、酔うて、高力士をして靴を脱せしむ。力士顕貴、これを恥とし、その詩を摘まんで、以て楊貴妃を激す。帝、白を官せむと欲す、妃、輒ち沮んで止む。白、自ら近親に容れられざるを知り、益す驁放にして、自ら修せず、賀知章、李適之、汝陽王璡、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂とともに、酒中の八仙人となり、懇ろに山に還るを求む。帝、金を賜うて放還す。白 四方に浮游し,嘗て與崔宗之と乘舟し 采石より金陵に至る,宮錦袍を著し舟中に坐す,旁若無人。)
舊唐書、新唐書、二書の記するところ、各も詳略はあるも、李白の作ったのは、欒府新調、もしくは楽章というだけで、詩を特定しているわけではない。しかし、舊唐書には十餘章とあるから、宮中行楽詞を指したものらしく、新書には、「帝 沈香亭中に坐す」とあるから、どうやら、興慶宮の龍池のほとり沈香亭の前の牡丹を詠じた清平調詩らしいが、これだけでは、どうも確定まではできない。それから孟棨の本事詩は、前に宮中行楽詞の候下に引いたが、明かに、同詞である。
次に太平廣記に引ける韋叡の松窓録は、一番詳しく、
「開元中,禁中初重木芍藥,即今牡丹也。《開元天寶》花呼木芍藥,本記云禁中為牡丹花。得四本紅、紫、淺紅、通白者,上因移植於興慶池東沉香亭前。會花方繁開,上乘月夜召太真妃以步輦從。詔特選梨園子弟中尤者,得樂十六色。」(開元中、禁中、はじめて木芍薬を重んず、即ち今の牡丹なり。四本、紅、紫、浅紅、通白なるものを得たり。上、輿慶地東の沈香亭前に移植す。たまたま、花、まさに繁開す。上、照夜白の馬に乗じ、太眞妃、歩輦を以て従う。詔して、特に梨園弟子中の尤なるものを選び、樂十六部を得たり。)
李龜年手捧檀板,押眾樂前,將欲歌。上曰:"賞名花對妃子焉用舊樂辭?"為遽命,龜年持金花箋,宣賜翰林學士李白進清平調辭三章,白欣承詔旨,猶苦宿醒未解,援筆賦: 雲想衣裳花想容, 春風拂檻露華濃。 若非群玉山頭見, 會向瑤台月下逢。 一枝紅豔露凝香, 雲雨巫山枉斷腸。 借問漢宮誰得似, 可憐飛燕倚新妝。 名花傾國兩相歡, 常得君王帶笑看。 解釋春風無限恨, 沉香亭北倚欄幹。 龜年捧詞進,上命黎園弟子約略詞調撫絲竹,遂捉龜年以歌。妃持頗黎七寶杯,酌西涼州葡萄酒,笑領歌意甚厚。
(李亀年、歌を以て一時の名をほしいままにす、手に檀板を捧げ、衆樂を押して前み、将に之を歌はむとす。上曰く、名花を賞し、妃子に対す、焉んぞ、舊樂詩を用ふるを爲さむ、と。遂に亀年に命じ、金花箋を持し、翰林供奉李白に宣賜し、立どころに、清平調辭三首を進めしむ。白、欣然として旨を承け、なお宿酲未だ解けざるに苦みつつ、因って、筆を援って之を賦す。その辭に曰く、云云と。龜年、遽に辭を以て進む。上、梨園の弟子に命じ、約略、絲竹を調撫し、遂に龜年を促し、以て歌はしむ。太眞妃、披璃七賓盞を持して、西涼州の蒲桃酒を酌み、笑って歌意を領する、甚だ惇し。)
上因調玉笛以倚曲,每曲遍將換,則遲其聲以媚之。太真飲罷,斂繡巾重拜上。龜年常語於五王,獨憶以歌得自勝者,無出於此,抑亦一時之極致耳。上自是顧李翰林尤異於他學士。
(上、因って、玉笛を調し、以て曲に倚り、曲遍、將に換らむとする毎に、すなはち、其聲を遅くして、以て之に媚ぶ。太眞妃、飲罷んで、繍巾を斂め、重ねて、上を拝す。龜年、常に五王に語る、ひとり憶ふに、歌を以て自ら勝るを得るもの、これより出づるはなしと。抑も、亦一時の極致のみ。上、これより一、李翰林を顧みること、尤も他の學士に異なり)とあって、ここには、明かに清平調としてある。それから、李陽氷の草堂集序には「天寳中,皇祖下詔,徵就金馬,降輦歩迎,如見綺皓,以七寳牀賜食,御手調羮以飯之,謂曰:卿是布衣,名為朕知,非素蓄道義,何以及此。?'置於金鑾殿, 出入翰林中, 問以國政, 潛草詔誥, 人無知者。」(天寶中、皇祖〔玄宗を指す〕詔を下し、徴して、金馬に就かしめ、輦を降って歩迎し、綺晧を見るが如く、七寶牀を以て食を賜ひ、御手子、羹を調し、以て之に飲ましむ。謂って日く、卿は是れ布衣なるも、名、朕に知らる、素より道義を蓄ふるに非ざれば、何を以て、此に及ばむと。金鑾殿に置き、翰林中に出入し、問ふに国政を以てし、潜に詔誥を草せしむ、人、知るものなし)とあって、酔中に詩を賦した事などは、少しも書いてない。勿諭、陽氷は、太白の族叔であるから、この序中には、唯だ大なるものを挙げて、その他を略したのであらう。
次に、魏顥の李翰林集序には「上皇豫遊召白,白時為貴門邀飲。比至半醉,令制出師詔,不草而成。」(上皇 豫遊して白を召す,白 時に為貴門に邀飲せられ。半醉に至る比ろ,出師の詔を制せ令む,草せずして成る。)とあって、李白が醉中に作ったのは、出師の詔だといって居る。
李翰林集序 作者:魏顥 唐
自盤古畫天地,天地之氣艮於西南。劍門上斷,橫江下絕,岷、峨之曲,別為錦川。蜀之人無聞則已,聞則傑出是生,相如、君平、王裦、揚雄,降有陳子昂、李白,皆五百年矣。白本隴西,乃放形,因家於綿。身既生蜀,則江山英秀。伏羲造書契後,文章濫觴者六經。六經糟粕《離騷》,《離騷》糠比建安七子。七子至白,中有蘭芳,情理宛約,詞句妍麗。白與古人爭長,三字九言,鬼出神入,瞠若乎後耳。白久居峨眉,與丹邱因持盈法師達,白亦因之入翰林,名動京師,《大鵬賦》時家藏一本。故賓客賀公奇白風骨,呼為謫仙子,由是朝廷作歌數百篇。上皇豫遊召白,白時為貴門邀飲。比至半醉,令制出師詔,不草而成。許中書舍人,以張垍讒逐,遊海岱間。年五十餘,尚無祿位。祿位拘常人,橫海鶤,負天鵬,豈池籠榮之?顥始名萬,次名炎。萬之日,不遠命駕,江東訪白。遊天台,還廣陵見之。眸子炯然,哆如餓虎,或時束帶,風流醞籍。曾受道籙於齊,有青綺冠帔一副。少任俠,手刃數人。與友自荊徂揚,路亡,權窆回棹,方暑,亡友麋潰,白收其骨,江路而舟。又長揖韓荊州,荊州延飲,白誤拜,韓讓之,白曰:「酒以成禮,荊州大悅。白始娶於許,生一女二男,曰明月奴,女既嫁而卒。又合於劉,劉訣。次合於魯,一婦人生子曰頗黎。終娶於宋,間攜昭陽、金陵之妓,跡類謝康樂,世號為李東山。駿馬美妾,所適二千石郊迎,飲數鬥,醉則奴丹砂撫青海波。滿堂不樂,白宰酒則樂。顥生平自負,人或為狂,白相見泯合,有贈之作,謂餘:「爾後必著大名於天下,無忘老夫與明月奴。」因盡出其文,命顥為集。顥今登第,豈符言耶?解攜明年,四海大盜,宗室有潭者,白陷焉,謫居夜郎。罪不至此,屢經昭洗,朝廷忍白久為長沙、汨羅之儔,路遠不存,否極則泰,白宜自寬。吾觀白之文義,有濟代命,然千鈞之弩、魏王大瓠,用之有時。議者奈何以白有叔夜之短?儻黃祖過禰,晉帝罪阮,古無其賢,所謂仲尼不假蓋於子夏。經亂離,白章句蕩盡。上元末,顥於絳偶然得之,沈吟累年,一字不下。今日懷舊,援筆成序,首以贈顥作、顥酬白詩,不忘故人也。次以《大鵬賦》、古樂府諸篇,積薪而錄。文有差互者兩舉之。白未絕筆,吾其再刊,付男平津子掌。其他事跡,存於後序。
その次に范傳正の墓碑には 他に見えぬ答蕃書之事もあり、「他日,泛白蓮池,公不在宴。皇歡既洽,召公作序。時公已被酒於翰苑中,仍命高將軍扶以登舟,優寵如是。」(他日、白蓮池に泛ぶ。公、宴に在らず。歡 既に洽ねく、公を召して、序を作らしむ。時に、公、すでに酒を翰苑中に被る、仍って、高力士に命じ、扶けて舟に登らしむ、優寵かくの如し)とあって、これには、白蓮地の序としてある。
杜甫の《巻二01 飲中八仙歌》に「李白一斗詩百篇,長安市上酒家眠。天子呼來不上船,自稱臣是酒中仙。」(李白 一斗 詩百篇、長安市上酒家に眠る。天子呼び來れど船に上らず、自ら稱す 臣は是酒中の仙なりと。)飲中八仙歌 杜甫28とあるのを事実とすれば、この註も、どうやら信ずることができる。
飲中八仙歌(卷二01(一)八一)
知章騎馬似乘船,眼花落井水底眠。
汝陽三斗始朝天,道逢(麥曲)車口流涎,恨不移封向酒泉。(汝陽王李璡)
左相日興費萬錢,飲如長鯨吸百川,銜杯樂聖稱避(舊本作世,《卲氏聞見錄》
作避)賢。(左相李適之)
宗之蕭灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。(崔宗之,日用子)
蘇晉長齋繡佛前,醉中往往愛逃禪。
李白一斗詩百篇,長安市上酒家眠。天子呼來不上船,自稱臣是酒中仙。
張旭三杯草聖傳,脫帽露頂王公前,揮毫落紙如雲煙。
焦遂五斗方卓然,高談雄辨驚四筵。
それから、太平廣記に引いてある王保定の摭言には「開元中,李翰林應詔草〈白蓮花開序〉及宮詞十首。時方大醉,中貴人以冷水沃之稍醒,白於禦前索筆一揮,文不加點。」(開元中,李翰林詔に應じ〈白蓮花開の序〉及び宮詞十首を草す。時 方に大醉す,中貴人 冷水を以て之に沃し 稍や醒むるや,白 禦前に於て筆を索めて一揮し,文點を加えず。)とあって、白蓮地の序と宮中行楽詞とを同時の作としてある。しかし、宮中行樂詞は、主として春景を賦したのであるから、白蓮地の序と同時といふのは、一寸受取り悪い。
次に明の鐘泰華《文苑四史》引く《唐書》雲う「玄宗召李白草《白蓮辭》,使太真捧硯,力士脫靴。」(玄宗、李白を召して、白蓮の辭を草せしめ、太眞をして、硯を捧げ、力士をして、靴を脱せしむ)とあって、高力士が靴を脱した外に、楊妃捧硯の一事がある。
唐朝段成式《酉陽雜俎》卷十二〈語資〉「李白名播海内,玄宗於便殿召見,神氣高朗,軒軒然若霞舉,上不覺亡萬乘之尊,因命納履。白遂展足與高力士,曰:“去靴。”力士失勢,遽爲脫之。及出,上指白謂力士曰:“此人固窮相。」(李白、名、海内に播く。玄宗、便殿において召見するや、神氣高朗、軒軒として霞擧のごとし。上、覚えず、万乗の尊を忘れ、因って、履を納れしむ。白、蓬に足を展べて、高力士に輿へ、靴を表れといふ。カ雪 努を失し、蓬に翁に之を臆す。出づるに及びて、上、白を指し、力士に謂って日く、この人、もとより窮相なわ)とあって、腹靴を主として、又一異聞を増したものである。要するに、どれが眞の事実なのか、ー寸分らないが、松窓録の文が尤も詳しく、やや小説家の言に似て居るが、必ずよりどころのあるものと思われ、宋の樂史の李翰林別集の序にも、すっかり其文を採ってある位で、これらのなかで一番正しいものと思えるので、今これによって進めてゆくことにする。
李白詩
尊 前 集: 清平楽五首、清平調三首
李太白集: 《巻四》清平調三首《巻二十五補遺》清平楽令二首、清平楽三首、
清平調詞,三首之一
雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。
清平調詞,三首之二
一枝穠豔露凝香,雲雨巫山枉斷腸。借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。
清平調詞,三首之三
名花傾國兩相歡,長得君王帶笑看。解釋春風無限恨,沈香亭北倚闌干。
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清平樂 一(一)
禁庭春畫。鶯羽披新繡。百草巧求花下鬥。祗賭珠璣滿鬥。
日晚卻理殘妝。禦前閑舞霓裳。誰道腰肢窈窕,折旋笑得君王。
清平樂 二(二)
禁闈清夜。月探金窗罅。玉帳鴛鴦噴蘭麝。時落銀燈香ㄠ。
女伴莫話孤眠。六宮羅綺三千。一笑皆生百媚,宸衷教在誰邊。
清平樂 三(一)
煙深水闊。音信無由達。惟有碧天雲外月。偏照懸懸離別。
盡日感事傷懷。愁眉似鎖難開。夜夜長留半被,待君魂夢歸來。
清平樂 四(二)
鸞衾鳳褥。夜夜常孤宿。更被銀臺紅蠟燭。學妾淚珠相續。
花貌些子時光。拋人遠泛瀟湘。欹枕悔聽寒漏,聲聲滴斷愁腸。
清平樂 五(三)
畫堂晨起。來報雪花墜。高卷簾櫳看佳瑞。皓色遠迷庭砌。
盛氣光引爐煙,素草寒生玉佩。應是天仙狂醉。亂把白雲揉碎。
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清平調 三首其一
雲想衣裳花想容。春風拂檻露華濃。若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。
清平調 三首其二
一枝紅艷露凝香。雲雨巫山枉斷腸。借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。
清平調 三首其三
名花傾國兩相歡。常得君王帶笑看。解得春風無限恨。沈香亭北倚闌幹。
清平調
唐 大曲名, 後用為詞牌。 相傳 唐 開元 中, 李白 供翰林, 時宮中木芍藥盛開, 玄宗 於月夜賞花, 召 楊貴妃 侍酒, 以金花箋賜 李白 , 命進新辭《清平調》, 白 醉中乃成三章。 二十八字, 七言絕句, 平仄不拘。
宋 詞蓋因舊曲名, 另創新聲。 雙調五十字, 平韻。 參閱 唐 李濬 《松窗雜錄》、 宋 王灼 《碧雞漫志》卷五。
清平調 — 拼音:qing ping2 diao4 1. 唐樂府大曲的曲名, 為俗樂曲調。 曲詞以李白所填者最著名。 相傳李白供翰林時, 玄宗月夜賞木芍, 命進新詞助興。 李白醉書七絕體三章, 每章二十八字, 平仄不拘。 後宋人因之改編為詞牌。 明·劉兌·金童玉女嬌紅記: “霓裳曲, 慣聽得花奴羯鼓, 清平調, 又提起唐人樂府。” 2. 詞牌名。 宋人改制舊曲, 另創新譜, 雙調,五十字。
清平调 — (清平調, 清平调) 唐 大曲名, 後用為詞牌。 相傳 唐 開元 中, 李白 供翰林, 時宮中木芍藥盛開, 玄宗 於月夜賞花, 召 楊貴妃 侍酒, 以金花箋賜 李白 , 命進新辭《清平調》, 白 醉中乃成三章。 二十八字, 七言絕句, 平仄不拘。 宋 詞蓋因舊曲名, 另創新聲。 雙調五十字, 平韻。參閱 唐 李濬 《松窗雜錄》、 宋 王灼 《碧雞漫志》卷五。 …
清平樂 — (清平樂, 清平乐) 1. 唐 代教坊曲名, 後用為詞牌。 又名《清平樂令》、《憶蘿花》、《醉東風》等。 雙調四十六字。 前段四句四仄韻;後段四句三平韻。 又一體, 前段四句四仄韻;後段四句三仄韻。 2.曲牌名。 屬南曲羽調。 有二體, 其一字句格律與詞牌前半闕同;另一與詞牌不同。 都用作引子。
清平樂 1. 唐 代教坊曲名, 後用為詞牌。 又名《清平樂令》、《憶蘿花》、《醉東風》等。 雙調四十六字。 前段四句四仄韻;後段四句三平韻。 又一體, 前段四句四仄韻;後段四句三仄韻。 2.曲牌名。 屬南曲羽調。 有二體, 其一字句格律與詞牌前半闕同;另一與詞牌不同。 都用作引子。
平調曲 — (平調曲, 平调曲) 1.樂府《相和歌》的一部。 有《長歌行》《短歌行》《猛虎行》《君子行》《燕歌行》《從軍行》等。 所用樂器有笙、笛、筑、瑟、琴、箏、琵琶七種。 梁啟超 認為, 《平調曲》應屬《清商曲》。 參閱《樂府詩集‧相和歌辭五‧平調曲》引 南朝 陳 智匠 《古今樂錄》。 2.戲曲劇種之一。 流行於 浙江 寧海 、 象山 、 三門 等地。 傳自 新昌 或 寧波 , 尚無定論。 演唱形式為高腔。
平調 — 拼音:ping2 tiao2 平穩和諧。 後漢書·卷四十一·宋均傳: “今諸國之封, 並皆膏腴, 風氣平調, 道路夷近, 朝聘有期, 行來不難。” ㄆ|ㄥˊㄉ|ㄠˋpngdiu 拼音:ping2 diao4 1. 漢﹑魏﹑六朝間, 相和三調或清商三調所用的一種調式。 2. 在燕樂二十八調中的一個調名。 3. 清代方苞通雅所列笛上七調的一種調名。 4. 流行於浙江省紹興﹑上虞﹑諸暨一帶的一種曲藝, 屬彈詞韹音樂風格典雅清幽, 文 靜優美。
清平世界 — 太平世界。 元 李文蔚 《燕青博魚》第一摺: “好呵!清平世界, 浪蕩乾坤, 你怎麼當街裏打人?” 《水滸傳》第七回: “清平世界,是何道理把良人調戲?” 《儒林外史》第三九回: “清平世界, 蕩蕩乾坤, 把彈子打瞎人的眼睛, 卻來這店裏坐的安穩!”
四平調 — 拼音:si4 ping2 diao4 一種平劇曲調, 為二黃劇之基本。 由吹腔演變而來, 吹腔用笛子伴奏, 四平調用胡琴伴奏, 旋律基本相同。 平劇如貴妃醉酒、 清風亭等均用四平調。
清調 — (清調, 清调) 漢 代樂府《相和歌》的曲調之一, 與平調、瑟調合稱三調, 也稱清商三調。 後亦指清雅的樂曲。 《魏書‧段承根傳》: “思樂哲人, 靜以鎮躁。 藹彼繁音, 和此清調。” 清 鈕琇 《觚賸續編‧于家琵琶》: “今宵萬籟俱寂, 清調遠聞, 恍出吾姬之手, 不勝悲痛。”參見“”、“ ”。
2. 唐の女性芸術
昔 佳人の公孫氏有り、一たび剣器を舞えば四方を動かす- 杜甫
杜甫《2099觀公孫大娘弟子舞劍器行》767年大曆二年56歲
昔有佳人公孫氏,一舞劍氣動四方。
觀者如山色沮喪,天地為之久低昂。
爀如羿射九日落,矯如群帝驂龍翔。
來如雷霆收震怒,罷如江海凝清光。
絳脣朱袖兩寂寞,況有弟子傳芬芳。
臨潁美人在白帝,妙舞此曲神揚揚。
與余問答既有以,感時撫事增惋傷。
先帝侍女八千人,公孫劍器初第一。
五十年間似反掌,風塵傾動昏王室。
梨園子弟散如煙,女樂餘姿映寒日。
金粟堆南木已拱,瞿唐石城草蕭瑟。
玳筵急管曲復終,樂極哀來月東出。
老夫不知其所往,足繭荒山轉愁疾。
【爀は火+霍であるが字書にないため代用する】
〝昔 佳人の公孫氏有り、一たび剣器を舞えば四方を動かす。先帝の侍女は八千人あり,公孫の劍器は初第一なり。〞
杜甫《巻二十99觀公孫大娘弟子舞劍器行》「昔有佳人公孫氏,一舞劍氣動四方。」「先帝侍女八千人,公孫劍器初第一。
世界中の注目をあびてきた、豪華絢欄たる唐代芸術の世界で、女性は顕著な位置を占めており、千年の後にまで名を伝えられた芸術家が輩出した。
歌舞と音楽
歌舞と女楽、これらは唐代には上は天子、公卿から、下は庶民、士人に至るまでの、すべての人々にとって欠くことのできない芸術的楽しみであった。それゆえこれらは宮廷から、あらゆる社会の階層に至るまで盛んに行われた。宮廷の中にあった教坊、宜春院、梨園、それに長安・洛陽両京にあった外教坊などには、歌舞と音栗に携わる芸妓が多数集中していた。朝廷は天下の名人を広く捜し出したので、唐代の女性芸術家の最も優れた人々をそこに集めることができたのである。彼女たちは恵まれた条件を与えられ、専門的な教育を受けた。また宮廷では常時大規模な催しが開かれたので、彼女たちは芸術的才能を充分に発揮することができ、高度な芸術的才能をもった人々が輩出することになった。その他、貴族や富豪が、自宅に家妓を抱えておく風習も盛んであった。彼らは専門家を招いて家妓を教育し、賓客の歓送迎会、家の慶事や誕生日などの御祝には、必ず家妓に芸を披露させて興趣を添えた。各地の官妓たちの歌舞や音楽の才能も人々から重視され、官庁の歓送迎会、宴会、遊覧の際には、彼女たちの出演は不可欠な漬物となっていた。妓優、姫妾たちが音楽、歌舞を得意としただけでなく、家庭の女性も音楽を習い楽器に通じることを家庭の娯楽、高雅な修養とみなしていた。こうした風潮によって、優秀な芸術家が数多く育成されたのである。
彼女たちの中には一声喉をころがせば長安の大通りに鳴り響いたといわれる歌手、曲を作り楽器を見事に奏でる音楽家、舞姿が美しく絶妙な芸を身につけた舞踊家、その他様々な方面に才能を発揮した芸術家がいた。
永新と念奴は、共に盛唐時代の著名な宮廷歌手であった。永新の本名は許和子といい、もとは吉州永新(江西省永新県)の楽家(音楽を専業にしていた家)の娘であり、選ばれて宮廷に入った。彼女は歌が上手なばかりでなく、新しい歌を編み出すことができた。秋が深まり月が晴々と輝き、楼台、宮殿が静まりかえった時に、彼女がひと声歌えば、その声は長安の大通りに響き渡ったという。ある時、玄宗皇帝は勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。
この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。
念奴も歌がたいへん上手で、玄宗は彼女をひじょうに愛し、一日たりとも側を離れることを許さなかった。彼女は歌声で人を魅了したばかりでなく、身振りも人の心をうった。彼女は歌う度に観衆を見まわし、流し目を送ってうっとりさせた。歌声は雲や霞を突き抜け、鐘・太鼓・笙・竿(大型の笙)などにぎやかな音も、彼女の歌声を凌ぐことはできなかった(『開元天宝遺事』巻上)。
また、張紅紅という著名な歌手がいた。彼女はもともと父について大道で歌を唱って暮らしていたが、その歌声が将軍寺青の耳にとまり彼の姫妾にされた。彼女は非常に賢く、曲をすぐ覚えてしまった。ある時、韋青は一人の楽工(歌舞演奏の芸人)に曲を作らせ一遍だけ歌わせた。側にいた張紅紅は豆を置きながらメロディーとリズムを覚えて、楽工が歌い終るとすぐ一人で歌い、楽工を大いに驚かせた。彼女の芸術的才能は後に代宗の耳にも達し、宮中に召されて才人に封じられ、宮中で「記曲娘子」(曲覚えの名手)とよばれた(『楽府雑録』「歌」)。
教坊妓の中でも、任智方の四人の娘は、いずれも歌が上手で、それぞれの歌いぶりに特徴があった。中でも「二番目の娘は発声の仕方が柔かく物悲しく、歌が終る時いつ止んだのか分からないほど静かだった。三番目の娘は物腰が穏やかで、側で見ると歌を唱っているという意識が全くないようであった。四番目の娘は声が穏やかでしっとりしており、また透き通るように澄んでいてその声はあたかも空から降ってくるようだった」(『教坊記』「仕氏四女」、以下本書によるものは特別注記しない)。
劉采春と周徳華は俳優、楽工の身分に属する歌手であり、二人は母娘の関係であった。劉采春の歌声は空の雲をつき通すほど響きわたった。その歌はすべて当代の才子が書いた新詩であり、中でも羅貢曲が得意だった。周徳華は楊柳詞を歌うのが上手で、多くの名門・豪族の家の女性たちが彼女から歌を学んだ。彼女の性格は上品で世俗に媚びず、一流の作者による優れた歌曲を唱うだけで、輕佻浮薄な歌はいっさい唱わなかった(『雲渓友議』巻九、一〇)。
貞元年間、洛陽の金谷県に葉という姓の女性がおり、歌がじつに素晴らしかった。彼女は人の家の家妓になったことがあったが、後に長安に出た。長安の歌手たちは彼女の名声を聞くと、次々と彼女と歌合わせに来た。彼女が二戸発すると伴奏していた絃工、楽師もみな歌声に聞き惚れて演奏を忘れてしまった。この女性はまた、ある大家の子弟の家妓にされた。人柄がよかったので、人々は彼女の歌の才能を宮廷に漏さなかったということである。かくして、この芸術的な至宝は長く民間に瓜田まることができた(『文苑英華』巻八三二、沈亜之「歌者菓記」)。
その他、千年の後にまで名声が伝えられた歌仙劉三姐も、また唐代の人と伝えられている。一説によれば、彼女は唐の中宗の神龍元年(七〇五)に生れ、姉妹三人とも歌が上手であった。幼い時から文章の読み書きができ、また歌も上手だった。数百里の遠方からも、歌の好きな人々が噂を聞いて歌競にやってきた(『古今図書集成』「閏媛典閣奇部」)。
この他にも多方面の芸術的才能をもつ人々がいた。
文宗の時代、宮人の沈阿翹は歌と舞いが上手な上、また作曲と演奏もできた。彼女が「何満子」(宮廷妓の何満子が作った作品)という舞曲を演じた時には、音の調べ、舞う姿ともやわらかくしなやかで流れるように素晴らしかった。「涼州曲」という一曲を演奏した時なぞは、音が清らかで哀調を帯び、文宗はこれぞ天上の音楽であると称讃した。そして最も優れた才能をもつ宮人を選んで彼女から芸を学ばせた。後に、この女性は宮中を出て秦という姓の男に嫁した。夫が出張していた時、『翹制曲』「憶秦郎」(秦郎を憶う」という一曲を作って、遥かに思慕の情を寄せた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」、『杜陽雄編』巻中)。
泰娘は貴族の家の家妓であった。多芸多才で、歌舞弾奏なんでも窮めないものはなく、当時、都の貴顕の子弟は争って泰娘の名を伝えた。劉南錫は「泰娘の歌」を作ってその経歴を記している。
武則天の時代に、もう一人よく歌曲を作る無名の宮人がいた。その夫は菟罪で獄に陥ち、自分も籍没されて宮中の婦女にされた。彼女は日頃、篳篥を上手に吹き、また音律にもよく通じていた。
そして、「離別難」(別れの苦しみ)という曲を作って、自分の悲しみと恨みの気特を托した(『楽府雑録』「離別難」)。
楽器に精通している女性などは、数えきれぬほどたくさんいた。宰相宋璟の娘の宋氏は獦鼓(インドから中央アジアを経て伝わった太鼓の一種)を専門に習い、その技量はかなり高度な水準に達していた(南卓『掲鼓録』)。楊志の父方の叔母は、もともと宮妓であり、琵琶の演奏で一世を風廃した女性であった(『楽府雑録』「琵琶」)。ひじょうに多くの唐詩の諸篇に、楽器を演奏する高度な技術と妙なる音声を持つ女性たちのことが描かれている。白居易の有名な詩「琵琶行」には、次のように琵琶妓の絶妙な技術と芸術的な影響力とが生々と描かれている。
【琵琶行】
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轉軸撥絃三兩聲,未成曲調先有情。
絃絃掩抑聲聲思,似訴平生不得志。
低眉信手續續彈,説盡心中無限事。
輕慢撚抹復挑,初爲霓裳後綠腰。
大絃如急雨,小絃切切如私語,
切切錯雜彈,大珠小珠落玉盤。
間關鶯語花底滑,幽咽泉流氷下難。
氷泉冷澀絃凝絶,凝絶不通聲暫歇。
別有幽愁暗恨生,此時無聲勝有聲。
銀瓶乍破水漿迸,鐵騎突出刀槍鳴。
曲終收撥當心畫,四絃一聲如裂帛。
東船西舫悄無言,唯見江心秋月白。
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(琵琶行 二)
軸を 轉(し)め 絃を 撥ひて 三兩聲,未だ 曲調を 成さざるに 先ず 情 有り。
絃絃 掩抑して 聲聲に 思ひ,平生 志を 得ざるを 訴ふるに 似たり。
眉を低れ 手に信せて 續續と 彈き,説き盡くす 心中 無限の事。
輕く(し)め 慢く撚りて 抹み 復た 挑ひ,初めは 霓裳を 爲し 後は 綠腰。
大絃は として 急雨の如く,小絃は 切切として 私語の如し,
と 切切と 錯雜して 彈き,大珠 小珠 玉盤に 落つ。
間關たる 鶯語 花底に 滑かに,幽咽せる 泉流は 氷下に難む。
氷泉 冷澀して 絃 凝絶し,凝絶 通ぜず 聲 暫し 歇(や)む。
別に 幽愁の 暗恨 生ずる 有り,此の時 聲 無きは 聲 有るに 勝る。
銀瓶 乍ち 破れ 水漿 迸(ほとばし)り,鐵騎 突出して 刀槍 鳴る。
曲 終らんとして 撥(ばち)を收め 當心を 畫き,四絃 一聲 裂帛の如し。
東船 西舫 悄として 言(ことば) 無く,唯だ見る 江心に 秋月の 白きを。
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詩人の描写の素晴らしさに感謝したいと思う。古代の女性演奏家の技芸と人を感動させる琵琶曲を、わずかながらも知ることができたのであるから。
唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。
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案前舞者顏如玉,不著人家俗衣服。
虹裳霞帔步搖冠,鈿瓔累累佩珊珊。
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飄然轉旋迴雪輕,嫣然縱送游龍驚。
小垂手后柳無力,斜曳裾時雲欲生。
煙蛾斂略不勝態,風袖低昂如有情。
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「案前 舞う者 顔は玉の如く、人家の俗なる衣服を著けず。虹の裳 霞の帔(内掛け」 歩揺の冠、細瓔は累累として珊珊を佩ぶ。.……諷然と転旋すれば廻る雪より軽く、嫣然と縦送すれば游る龍も驚く。小しく手を垂れし後 柳は力無く、斜めに裾を曳く時 雲 生ぜんと欲す。煙き蛾は斂略めて態に勝えず、風はらむ袖は低く昂く 情有るが如し」(白居易「霓裳羽衣歌」)
白居易の《胡旋女》
胡旋女,胡旋女,心應弦,手應鼓。
弦鼓一聲雙袖舉,回雪飄搖轉蓬舞。
左旋右轉不知疲,千匝萬周無已時。
人間物類無可比,奔車輪緩旋風遲。
曲終再拜謝天子,天子為之微啟齒。
胡旋女,出康居,徒勞東來萬里余。
中原自有胡旋者,斗妙爭能爾不如。
天寶季年時欲變,臣妾人人學圜轉。
中有太真外祿山,二人最道能胡旋。
梨花園中冊作妃,金雞障下養為兒。
祿山胡旋迷君眼,兵過黃河疑未反。
貴妃胡旋惑君心,死棄馬嵬念更深。
從茲地軸天維轉,五十年來制不禁。
胡旋女,莫空舞,數唱此歌悟明主。
胡旋の女 胡旋の女、心は弦に應じ 手は鼓に應ず。
弦鼓一聲 雙袖舉がり、回雪飄搖し 轉蓬舞ふ。
左に旋り右に轉じて疲れを知らず、千匝 萬周 已む時無し。
人間物類 比すべき無く。奔車 輪緩 旋風 遲し。
曲終り再拜して天子に謝す、天子之が為に微かし齒を啟(ひら)く。
胡旋の女 康居に出ず、勞して東來すること萬里余。
中原に自ずから有胡旋の者有り、斗妙 爭能 爾如かず。
天寶の季年 時に變はらんと欲し、臣妾人人 圜轉を學ぶ。
中に太真有り 外には祿山、二人最も道ふ 能く胡旋すと。
梨花園中 冊して妃と作し、金雞障下 養ひて兒と為す。
祿山の胡旋 君は眼を迷はし、兵黃河を過ぐるも未だ反せずと疑ふ。
貴妃の胡旋 君が心を惑はし、死して馬嵬に棄つるも 念ひ更に深し。
茲(これ)より地軸天維轉じ、五十年來 制せど禁ぜず。
胡旋舞は別の風格がある。これら舞妓のなかから、何人かの出色の舞踊家が出現した。
楊玉環(楊貴妃)、彼女は以千年後百年にもわたって絶世の美人として、また「女禍」として史上有名になった。しかし、人は往々この女性が天才的な舞踊家、音楽芸術家であったことを軽視する。彼女は多方面の芸術的才能を持っており、特に舞踊に長じ、「霓裳羽衣舞」の類いまれな踊り手として、千古の後までその名が伝えられている。彼女はまた胡旋舞等の舞いも踊ることができた。同時にまた音律にも長じ、多種多様な楽器にもよく通じていた。特に撃磐(石製の打楽器の演奏)が最も得意であり、その音声は冷たく清らかであり、またオリジナリティに富んでいて、宮廷の名楽師でも及ばなかった。また琵琶もたいへんL手で、梨園で演奏した時、音色は張りつめ澄みきって、雲外にただよう如くであった。それで、親王、公主、貴婦人たちは争って彼女の琵琶の弟子になろうとした。笛豊た上手であった。ある華、彼女は玄宗の兄賢の玉笛をこっそり借りて吹いたため、玄宗皇帝の不興をかった。しかし、風流文士たちは「梨花の静院に人の見ゆる無く、閑ろに寧王の玉笛を把りて吹く」(『楊太真外伝』に引く張詰の詩句)などといって、きわめで風流なことと褒めそやした。
楊貴妃の侍女張雲容も「霓裳羽衣舞」が上手だったので、楊貴妃は詩をつくって彼女の舞姿を誉めそやした。「羅袖 香を動かし 香己まず、紅蕖は嫋嫋 秋煙の裏。軽き雲は嶺上にて乍ち風に揺らぎ、嫩き柳は池塘にて初めて水を払う」(楊貴妃「阿那曲」)。
これと同じ時期、新豊(陝西省臨潼)の女俳優謝阿蛮は凌波曲を上手に踊った。常時、宮廷に出入りし、玄宗と楊貴妃からたいへん愛された。ある時、彼女が舞い、玄宗と楊貴妃が親しく自ら伴奏した。楊貴妃は特別に金を散りばめた腕輪を褒美として贈った(『楊太真外伝』、『明皇雑録』補遺)。
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