太白集 362《太白巻四32 清平調詞,三首之三》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7388
- 2016/02/23
- 21:47
李白 清平調詞,三首之三
名花傾國兩相歡,長得君王帶笑看。
解釋春風無限恨,沈香亭北倚闌干。
(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)
名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。
この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。
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清平調詞,三首之一
(興慶宮での宴の模様を述べる)
雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。
雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。
若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。
ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。
(清平調詞 三首其の一)
雲には、衣裳かと想い、花には、容かと想う、春風 檻を払って、露華 濃かなり。
若し 群玉山頭に見るに非ざれば、会ず 瑤臺の月下に向って逢わん。
年: 天寶二年
寫作時間: 743年
寫作年紀: 43歲
卷別: 卷一六四 文體: 樂府
詩題: 清平調詞,三首之二
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點: 巫山 (山南東道 夔州 巫山)
交遊人物/地點:
清平調詞,三首之二
(沈香亭の牡丹が咲き誇るのを、巫山の神女、趙飛燕に比して、そしてそのどれより誰より美しい妃嬪が此処にいると述べる)
一枝穠豔露凝香,雲雨巫山枉斷腸。
一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。
借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。
漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。
(清平調詞,三首の二)
一枝の穠豔 露 香を凝らし,雲雨 巫山 枉げて斷腸。
借問す 漢宮 誰が似るを得たる,可憐の飛燕 新妝に倚る。
743年天寶二年43歳 94首-(46)
卷別: 卷一六四 巻四32 文體: 樂府
詩題: 清平調詞,三首之三
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點:無
交遊人物/地點:
清平調詞其三
(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)
名花傾國兩相歡、長得君王帶笑看。
名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。
解釋春風無限恨、沈香亭北倚欄干。
この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。
(清平調詞 其の三)
名花 傾国 両つながら相い歓び、長く君王の笑いを帯びて看るを得たり。
解釈す 春風無限の恨み、沈香亭北 欄干に倚る。
『清平調詞,三首之三』 現代語訳と訳註解説
(本文)
清平調詞,三首之三
名花傾國兩相歡,長得君王帶笑看。
解釋春風無限恨,沈香亭北倚闌干。
(下し文)
(清平調詞 其の三)
名花 傾国 両つながら相い歓び、長く君王の笑いを帯びて看るを得たり。
解釈す 春風無限の恨み、沈香亭北 欄干に倚る。
(現代語訳)
清平調詞,三首之三(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)
名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。
この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。
(訳注)
清平調詞,三首之三
(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)
名花傾國兩相歡、長得君王帶笑看。
名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。
14. 傾国 絶世の美女をいう。漢の武帝の寵臣、名歌手として知られた李延年の歌、
北方有佳人,絶世而獨立。
一顧傾人城,再顧傾人國。
寧不知傾城與傾國,佳人難再得。
「北方に佳人有り、絶世にして独立す。一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く」に基づく。李延年は自分の妹を「傾国の美女」として武帝に勧めた。後にその妹は「李夫人」となる。
白居易「長恨歌」、李商隠「柳」「北斉二首其一」(小燐)にもみえる。国を傾けるほどの美人という意味にマイナスの意味を感じない中国人的表現である。美しいことへの最大限の表現であるが、結果的に国を傾けてしまうことを使うとよくないことを暗示するのが日本的であるのかもしれない。しかし、西施についても李延年の妹「李夫人」についても後世の詩で、ただ美人だけの意味では使用していない。趙飛燕について、家柄が低い家系である後に、平民に落とされたものに比較したこと、貴族社会で最大の屈辱であることは理解できる。李延年も兄弟、趙飛燕の姉妹、北斎の小燐も姉妹で寵愛された。やはり李白は、ただ、お抱え詩人の地位に不満を持ち、宮中で長くは続かないことを感じ取っていたのだろう。
15. 君王 天子とは訳せない。もう少し小さい国の王、戦国、六朝の王に使用する場合が多い。
解釋春風無限恨、沈香亭北倚欄干。
この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。
16. 解釋 解きほぐす。解き明かす。理解する。解き放す。
17. 春風無限恨 春風がもたらす様々な鬱屈の情。
18. 沈香亭 沈香(水に沈む堅く重い香木)で作ったのでこう名づけられた建物。興慶宮の芝池の東南に在った。現在も興慶公園の沈香亭として復元されている。
19. 倚 身をもたせる。よりかかる。
親友の杜甫も、「李十二白に寄せる、二十韻」
昔年有狂客,號爾謫仙人。筆落驚風雨,詩成泣鬼神。
聲名從此大,汩沒一朝伸。文彩承殊渥,流傳必絕倫。
龍舟移棹晚,獸錦奪袍新。白日來深殿,青雲滿後塵。
乞歸優詔許,遇我夙心親。未負幽棲誌,兼全寵辱身。
劇談憐野逸。嗜酒見天真,醉舞梁園夜,行歌泗水春。』
才高心不展,道屈善無鄰。處士隬衡俊。諸生原憲貧。
稻粱求未足,薏苡謗何頻?五嶺炎蒸地,三危放逐臣。
幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。蘇武元還漢,黃公豈事秦?
楚筵辭醴日,梁獄上書辰。已用當時法,誰將此議陳?
老吟秋月下,病起暮江濱。莫怪恩波隔,乘槎與問津。』
昔年 狂客有り、爾を謫仙人【たくせんにん】と号す。筆落つれば風雨【ふうう】驚き、詩成れば鬼神【きしん】泣く。声名 此 従【よ】り大に、汩沒【こつぼつ】一朝に伸ぶ。文彩【ぶんさい】 殊渥【しゅあく】を承【う】く、流伝【るてん】するは必ず絶倫【ぜつりん】なり。竜舟【りょうしゅう】棹【さお】を移すこと晩く、獣錦【じゅうきん】奪袍【だつほう】新たなり。
白日【はくじつ】 深殿【しんでん】に来たる、青雲に後塵【こうじん】満つ。帰るを乞うて優詔【ゆうしょう】許さる、我に遇うて宿心【しゅくしん】親しむ。未だ負【そむ】かず幽棲【ゆうせい】の志に、兼ねて全うす寵辱【ちょうじょく】の身。劇談【げきだん】野透【やいつ】を憐れむ、嗜酒【ししゅ】天真【てんしん】を見る。酔舞【すいぶ】す梁園【りょえん】の夜、行歌【こうか】す泗水【しすい】の春。』
才高くして心展べず、道屈【くつ】して善【ぜん】隣り無し。処士【しょし】隬衡【でいこう】俊【しゅん】に、諸生【しょせい】原憲【げんけん】貧なり。稲梁【とうりょう】求むる未だ足らず、薏苡【よくい】謗【そしり】り何ぞ頻りなる。五嶺【ごれい】炎蒸【えんじょう】の地、三危【さんき】放逐【ほうちく】の臣。幾年か鵩鳥【ふくちょう】に遭える、独泣【どくきゅう】麟鱗【きりん】に向こう。
蘇武【そぶ】元【もと】漢に還る、黃公【こうこう】豈に秦に事【つか】えんや。楚筵【そえん】醴【れい】を辞せし日、梁獄【りょうごく】書を上りし辰【とき】。巳に当時の法を用う、誰か此の議を将で陳【ちん】せん。老いて吟ず秋月の下、病起【へいき】す暮江【ぼこう】の浜【ほとり】。怪しむ莫れ恩波【おんは】の隔たるを、槎【さ】に乗じて与【た】めに津【しん】を問わん。』
に、「筆落とせば風雨を驚かせ、詩成れば鬼神か泣かしむ」といい、かの賀知章が「烏夜噂」を嘆賞して「鬼神を泣かしむ」といったことを含みつつ、李白の詩を激賞している。そして、「文采は殊寵を承け、流伝すれば必ず絶倫たり」といって、天子の「殊寵を承け」たことを歌っている。真実を歌う杜甫がいうほどだから、玄宗の特別の寵愛があったことは確かであろう
楊貴妃はすこぶる寵愛された。馬に乗るごとに高力士が轡を執って鞭を振るった。 貴妃院専従の織工は七百人もおり、中外は争って器服珍玩を献上した。嶺南経略使張九章や広陵長史王翼は、 献上物が精緻で美しかったので、九章には三品が加えられ、翼は朝廷にて戸部侍郎となった。 天下は、風に靡くように従った。
民間では、歌にまで歌われた。
「男を産んでも喜ぶな。女を産んでも悲しむな。主君は今、女を見て出世させるぞ。」
楊貴妃が生茘支を欲しがると、嶺南から駅伝で届けるよう命じた。長安へ届いたときには、 色も味も劣化していなかった。
そこまで愛されたので、楊貴妃は不遜になり嫉妬や悍気を発するようになった。 玄宗皇帝は怒り兄の楊銛の屋敷に送り返すよう命じた。
その日、玄宗皇帝は不機嫌で、一日中食事も摂らず、近習が少しでも気に入らないと、容赦なく鞭でぶっ叩いた。 高力士は玄宗皇帝の想いを知り、院中の官女全員が、車百台で楊貴妃を迎えに行くよう請うた。 玄宗皇帝は喜び、自ら膳を賜った。
夜になって、楊貴妃が院に帰ってきたと、高力史が上奏した。 ついに、禁門を開いて楊貴妃を入れた。
この一件で、寵恩はますます隆くなり、後宮の女性は誰も相手にされなくなった。
杜甫 麗人行
三月三日天氣新,長安水邊多麗人。態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉勻。
繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。頭上何所有, 翠微盎葉垂鬢唇。
背後何所見, 珠壓腰衱穩稱身。就中雲幕椒房親,賜名大國虢與秦。
紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。
黄門飛鞚不動塵,御廚絡繹送八珍。簫管哀吟感鬼神,賓從雜遝實要津。
後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。楊花雪落覆白蘋,靑鳥飛去銜紅巾。
炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。
三月三日 天氣 新たに,長安の水邊 麗人 多し。態は濃く 意は遠くして淑且かつ真に,肌理は 細膩にして 骨肉は勻し。
繍羅の衣裳は 莫春に 照はゆる,蹙金の孔雀 銀の麒麟。頭上何の有る所ぞ, 翠を盎葉と爲して鬢脣に 垂たる。背後何の見る所ぞ,珠は腰衱を壓して穩やかに身に稱ふ。』
就中【なかんづ】く 雲幕の椒房の親しん,名を賜ふ 大國 虢くと秦と。紫駝の峰を翠釜より 出だし,水精の盤に 素鱗 行くばる。犀箸 厭飫して久しく未だ下さず,鸞刀 縷切して 空しく紛綸たり。黄門 鞚を飛ばして塵を動かさず,御廚 絡繹として 八珍を送る。簫管 哀吟して 鬼神をも感ぜしめ,賓從 雜遝して 要津に實つ。』
後れ來たる鞍馬は何ぞ 逡巡する,軒に當たりて 馬より下りて 錦茵に入る。楊花 雪のごとく落ちて 白蘋を覆ひ,靑鳥 飛び去りて 紅巾を銜む。手を炙らば 熱す可べし 勢は絶倫なり,慎みて 近前する莫れ 丞相 嗔からん。』
清平調詞,三首 【字解】
1 清平調詞,三首 宋の楽史の『李翰林集別集』序や『楊太真外伝』にも載っている。
「開元中,禁中初重木芍藥,即今牡丹也。《開元天寶》花呼木芍藥,本記云禁中為牡丹花。得四本紅、紫、淺紅、通白者,上因移植於興慶池東沉香亭前。會花方繁開,上乘月夜召太真妃以步輦從。詔特選梨園子弟中尤者,得樂十六色。」(開元中、禁中、はじめて木芍薬を重んず、即ち今の牡丹なり。四本、紅、紫、浅紅、通白なるものを得たり。上、輿慶地東の沈香亭前に移植す。たまたま、花、まさに繁開す。上、照夜白の馬に乗じ、太眞妃、歩輦を以て従う。詔して、特に梨園弟子中の尤なるものを選び、樂十六部を得たり。)
李龜年手捧檀板,押眾樂前,將欲歌。上曰:"賞名花對妃子焉用舊樂辭?"為遽命,龜年持金花箋,宣賜翰林學士李白進清平調辭三章,白欣承詔旨,猶苦宿醒未解,援筆賦: 雲想衣裳花想容, 春風拂檻露華濃。 若非群玉山頭見, 會向瑤台月下逢。 一枝紅豔露凝香, 雲雨巫山枉斷腸。 借問漢宮誰得似, 可憐飛燕倚新妝。 名花傾國兩相歡, 常得君王帶笑看。 解釋春風無限恨, 沉香亭北倚欄幹。 龜年捧詞進,上命黎園弟子約略詞調撫絲竹,遂捉龜年以歌。妃持頗黎七寶杯,酌西涼州葡萄酒,笑領歌意甚厚。
(李亀年、歌を以て一時の名をほしいままにす、手に檀板を捧げ、衆樂を押して前み、将に之を歌はむとす。上曰く、名花を賞し、妃子に対す、焉んぞ、舊樂詩を用ふるを爲さむ、と。遂に亀年に命じ、金花箋を持し、翰林供奉李白に宣賜し、立どころに、清平調辭三首を進めしむ。白、欣然として旨を承け、なお宿酲未だ解けざるに苦みつつ、因って、筆を援って之を賦す。その辭に曰く、云云と。龜年、遽に辭を以て進む。上、梨園の弟子に命じ、約略、絲竹を調撫し、遂に龜年を促し、以て歌はしむ。太眞妃、披璃七賓盞を持して、西涼州の蒲桃酒を酌み、笑って歌意を領する、甚だ惇し。)
開元中、天子は、牡丹(木芍薬)を重んじた。紅、紫、浅紅、裏白の四本を興慶池の東、沈香亭の前に移植した。花の真っ盛りのときに、天子は昭夜白の馬に乗り、楊貴妃は手車で従った。梨園の弟子の特に選抜された者に詔をして楽曲十六章を選んだ。李亀年は当時の歌唱の第一人者である。この李亀年に梨園の楽人を指揮して歌わせようとした。李亀年は紫檀の拍子板をもって楽人の前で指揮して歌おうとしたとき、玄宗は、「名花を質し、妃子に対す、いずくんぞ旧楽詞を用いんや」といって、そこで李亀年に命じ、金花箋を持ってこさせ、翰林供奉の李白に命じた。李白は立ちどころに「清平調詞」三章を作ってたてまつった。天子は梨園の弟子たちに命じ楽器に調子を合わさせて、李亀年に歌わせた。楊貴妃は、玻璃七宝の盃を持ち、涼州のぶどう酒を飲み、歌意をさとりにっこりし、また玄宗も、みずから玉笛を吹いて曲に和し、曲の移り変わりのときには、調子をゆるめて妃に媚びた。玄宗はこれ以後、李白を特に重視するようになった。
2 云想衣裳 霓裳羽衣舞のことで、興慶宮、花萼相輝樓前で300人以上の妃嬪妓優などで舞わせた。 これはは唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと、雲の様にうかびながれる。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。・云想 雲は艶情詩の世界では艶めかしい女性を示す。・衣裳 衣装はあでやかさを示す。
3 花想容 美しい花、沈香亭の
4 檻 沈香亭の龍池に面した舞台の欄干。
5 露華 興慶宮での夜の華やかな屋外舞台。玄宗皇帝は興慶宮、勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。
この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。
6 群玉山 不老不死の仙女、西王母の住むという伝説上の仙山、崑崙山。《山海經‧西山經》. 又西三百五十里曰玉山,是西王母所居也。 《穆天子傳》謂之羣玉之山,見其山河無險,四徹中繩,先王之所謂策府。
7 瑤台 五色の玉で作った高台。崑崙山の西王母の臺、神仙の住むという土地。瑤池もある。
8 清平調詞,三首之二 側近の宦官、高力士は、かつて宴席で李白の靴を脱がせられたことを恨みに思い、この第二首に前漢の成帝の皇后趨飛燕が歌われていることを理由として(第二首の語釈参照)、李白のことを貴妃に議言し、李白の登用に強く反対させたため、玄宗もついに断念することになった。(趙飛燕は漢代随一の美人とされるが、後年、王葬に弾劾されて庶民となり、自殺している。それを太真妃になぞらえたということが、彼女の怒りを買ったのである)。李白がなぜ楊貴妃とタイプが違い、何よりも権力の掌握度が圧倒的に違っていたし、姉妹で皇帝に寵愛された趙飛燕を喩えにとったかは理解できないが、残っている資料は支配者側のものでしかない。事実はあったかもしれないが宮廷を追われるほどのものかどうか疑問が残る点である。
一枝紅艷露凝香、云雨巫山枉斷腸。
一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。
9 雲雨巫山 昔、楚の先王(懐王)が、楚の雲夢の沢にあった高唐の台に遊び、昼寝の夢の中で巫山の神女と契った。神女は去るに当たり、「妾は、巫山の陽、高丘の阻(険岨な場所)に在り。且には朝雲と為り、暮には行雨と為る。朝々暮々、陽台の下」と、その思いを述べた。翌朝、見てみると、その言葉どおりだったので、神女のために廟を立てて「朝雲」と名づけた。(宋玉の「高唐の拭、序を幷す」〔『文選』巻十九〕に見える話であるが、宋玉にこの賦を作らせた襄王〔懐王の子〕のこととして語られることが多い)。
10 枉 いたずらに、甲斐もなく。
11 断腸 はらわたがちぎれる。恋慕の情の激しさ、言葉の意味の中にセックスの意味が込められた悲痛を表わす慣用語。
12 借間 ちょっとたずねたい。軽く問いかける時の慣用語。
13 可憐 激しい感情の動きを表わす慣用語。プラスにもマイナスにも用いる。ここでは、美人の愛らしさに用いている。
14 飛燕 前漠の成帝の皇后、趙飛燕。やせ形で身の軽い、漢代随一の美人だったとされる。(「宮中行楽詞、其の二」)。
15 倍新粧 新たに化粧した容貌を誇らかに示す。「俺」は、悼みとして自信をもつこと。
李白 宮中行樂詞,八首 【字解】
【1】 〔宮中における内職、冊封制度について〕
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618-626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも孺人【じゅじん】等の媵妾【ようしょう】の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃嬢だけが史書にいささかの痕跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』「后妃伝」 には、全部で二十六人の皇后、十人の妃嫁が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には竇皇后の他に、万貴妃、ヂ徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、佳境、楊嬢、小楊嬢、張捷好、郭妊婦、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趨麗妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高娃好、柳娃好、鍾美人、慮美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、闇才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嫁がたしかに最も多かったようである。
【2】 宮中行楽詞 宮中における行楽の歌。李白は数え年で四十二歳から四十四歳まで、足かけ三年の間、宮廷詩人として玄宗に仕えた。この宮中行楽詞八首と、つぎの晴平調詞三首とは、李白の生涯における最も上り詰めた時期の作品である。唐代の逸話集である孟棨の「本事詩」には、次のような話がある。
本事詩
嘗因宮人行樂,謂高力士曰:「對此良辰美景,豈可獨以聲伎為娛,
倘時得逸才詞人吟詠之,可以誇耀於後。」遂命召白。
時寧王邀白飲酒,已醉。
既至,拜舞頹然。上知其薄聲律,謂非所長,命為宮中行樂五言律詩十首。
白頓首曰:「寧王賜臣酒,今已醉。倘陛下賜臣無畏,始可盡臣薄技。」
上曰:「可。」即遣二內臣掖扶之,命研墨濡筆以授之。
又令二人張朱絲欄於其前。白取筆抒思,略不停綴,十篇立就,更無加點。
筆跡遒利,鳳跱龍拏。律度對屬,無不精絕。
嘗て宮人行樂するに因り,高力士に謂って曰く:「此の良辰美景に對し,豈に獨り聲伎を以って娛と為す可けんや,
倘し時逸才の詞人を得て之を吟詠すれば,以て後に誇耀す可し。」と。遂に命して白を召す。
時に寧王 白を邀えて酒を飲ましめ,已に醉う。
既に至るや,拜舞して頹然たり。上 其の聲律を薄しとするを知り,謂えらく長ずる所に非ずと,命じて宮中行樂の五言律詩十首を為らしむ。
白 頓首して曰く:「寧王 臣に酒を賜い,今 已に醉う。倘し 陛下 臣に畏るる無きを賜わば,始めて臣の薄技を盡す可し。」と。
上 曰く:「可なり。」と。即ち遣二內臣をして之を掖扶せしめ,命じて墨を研し筆を濡し以て之を授け。
又た 令二人をして 朱絲欄を其の前に張らしむ。白 筆を取って思いを抒べ,略 停綴せず,十篇 立ちどころに就る,更に點を加うる無し。
筆跡 遒利,鳳跱 龍拏。律度對屬,精絕ならざるなし。
玄宗皇帝があるとき、宮中での行楽のおり、側近の高力士にむかって言った。「こんなに良い季節、うるわしい景色を前にしながら、単に歌手の歌をきいてたのしむだけでは物足りぬ。天才の詩人が来て、この行楽を詩にうたえば、後の世までも誇りかがやかすことであろう」と。そこで、李白が召されたのだ。李白はちょうど皇帝の兄の寧王にまねかれて酒をのみ、泥酔していたが、天子の前にまかり出ても、ぐったりとなっていた。玄宗は、この奔放な詩人に、律詩を十首つくるよう命じた。五言律詩は、対句が基本、最も定型的な詩形である。李白はあまり得意としない詩形であった。玄宗は知っていて、酔っているので命じたのである。そし二、三人の側近に命じて、李白を抱きおこさせ、墨をすらせ、筆にたっぷり警ふくませて李白に持たせ、朱の糸で罫をひいた絹幅を李白の前に張らせた。李白は筆とると、少しもためらわず、十篇の詩を、たちまち書きあげた。しかも、完璧なもので、筆跡もしっかりし、律詩の規則も整っていた。現在は八首のこっている。
【3】 小小 年のおさないこと。
【4】 金屋 漢の武帝の故事。鷺は幼少のころ、いとこにあたる阿矯(のちの陳皇后)を見そめ、「もし阿嬌をお嫁さんにもらえるなら、黄金づくりの家(金星)の中へ入れてあげる」と言った。
李白《巻三35妾薄命》
漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。
寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。
雨落不上天,水覆難再收。君情與妾意,各自東西流。
昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。
(漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 昔日 芙蓉の花,今 成る 斷根の草。色を以て 他人に事【つか】へ,能【よ】く 幾時【いくとき】の 好【よろし】きを 得たりや。)
(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)
漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。
雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)
また、吉川幸次郎「漢の武帝」(岩波誓)にくわしい物語がある。
【5】 盈盈 みずみずしくうつくしいさま。古詩十九首の第二首に「盈盈たり楼上の女」という句がある。
【6】 紫微 がんらいは草の名。紫微殿があるため皇居にたとえる。
【7】 寶髻 髻はもとどり、髪を頂に束ねた所。宝で飾りたてたもとどり。
【8】 石竹 草の名。和名セキチク。別称からなでしこ。葉は細く、花は紅・自または琶音ごろ開く。中国原産であって、唐代の人もこの花の模様を刺繍して、衣裳の飾りとした。
【9】 羅衣 うすぎねのうわぎ。
【10】 歩輩 手車。人がひく車。人力車。
【11】 彩云 いろどり模様の美しい雲。
【12】 柳色 芽をふき出したばかりの柳の色であるが、男性を示唆する柳は龍で玄宗。楊は女性、楊貴妃を示す。
【13】 嫩 物がまだ新しく、若くて、弱い状態。
【14】 梨花 女性を示唆する、楊太真(貴楊妃)。
【15】 玉楼 宝玉でかざり立てた楼閣。
【16】 翡翠 かわせみ。うつくしい羽根の鳥。
【17】 珠殿 真珠をちりばめた御殿。
【18】 鴛鴦 おしどり。おす(鴛)と、めす(鴦)と仲むつまじい鳥。
【19】 妓 宮妓、教坊妓 宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職責は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。
宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸*、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上手だったため選ばれて宮中に入った。辞填壇はもとは色町の妓女であったが、挙が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、玄宗時代には特に「搊弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『古今図書集成』閏媛典閏艶部、崔令欽『教坊記』による。)。
*楽戸 楽籍という賤民身分の戸籍に属し、宮中の官妓、在野の楽人などが登録されていた。
彼女たちの中には、また別に朝臣や外国からの使節が献上した女性も、一部分であるが含まれていた。たとえば、敬宗の時代、浙東(浙江省一帯)から朝廷に飛燕、軽風という二人の舞妓が献上されている。また文宗の時代、回紇に降嫁した太和公主が馬にまたがって弓をひく七人の娘を献上したこともあった(『杜陽雜編』巻中、『旧唐書』文宗紀下)。それ以外に、少数ではあるが、元々官女であった女性の中から選ばれ、訓練を受けて宮妓になったものもいた。宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。
玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院**などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣***」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。
**梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。
***霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。
【20】雕輦 彫刻をほどこした手ぐるま。
【21】洞房 奥ぶかい部屋。*梨園、宜春院、平康里北里の妓優、侶優など。
【22】 飛燕 漢の成帝の愛姫、超飛燕。もとは長安の生れで身分は低かったが、歌や舞がうまく、やせ型の美人で、その軽やかな舞はツバメが飛ぶようであったから、飛燕とよばれた。ある時、おしのびで遊びに出た成帝の目にとまり、その妹とともに宮中に召され、帝の寵愛を一身にあつめた。十余年、彼女は日夜、帝を誘惑したので、しまいに帝は精根つきはてで崩御した。晩年、彼女は不遇となり、さいごには自殺した。彼女は漢代随一の美女とされている。また、やせた美人の代表は漢の趙飛燕、ふとった美人の代表は唐の楊貴妃とされているが、唐詩において趙飛燕をうたうとき、多くの易合、玄宗の後宮における第一人者、楊貴妃そのひとを暗に指す。もっともこの時期は楊太真で、李白が都を追われた後、楊貴妃となる。
【23】 昭陽 趙飛燕がすんでいた宮殿の名。
【24】 盧橘 果樹、枇杷の別名。もと南方の植物、で秋に花を咲かせ、夏に実を結ぶ。戴叔倫の「湘南即事」に「盧橘花開楓菓哀」とあるのもそれがもとは南方の風物であることを示したもの。
【25】 秦樹 太古から長安の街を眼下に置いていた樹木。李白はこの詩のみであるが、杜甫は以下の三首、李商隠も使っている。
杜甫(卷三16)投贈哥舒開府翰二十韻「日月低秦樹,乾坤繞漢宮。」
杜甫(卷二二70)千秋節有感二首其一「湘川新涕淚,秦樹遠樓臺。」
杜甫(卷三18) 送張十二參軍赴蜀州因呈楊五侍御「兩行秦樹直,萬點蜀山尖。」
・秦 長安の地方。李商隠「寄令狐郎中」では
嵩雲秦樹久離居、雙鯉迢迢一紙書。
休問梁園舊賓客、茂陵秋雨病相如。
秦樹は長安を長い時代見ていた樹という意味に使っている。
【26】 蒲桃 葡萄。ぶどう。ペルシャ原産で、西域を通って中国に入ったのは、漢の武帝のときである。
【27】 煙花 かすみと花とでの花霞。
【28】 絲管 弦楽器と管楽器。つまり、音楽。
【29】 節奏竜鳴水 漢馬融《長笛賦》“「龍鳴水中不見已, 截竹吹之聲相似。」後則多指管首為龍形的笛。” 漢の馬融の「笛の賦」によれば、西方の異民族である羌の人が、竹を伐っていると、龍があらわれて水中で鳴いた。すぐに龍は見えなくなったが、羌人が、きり出した竹でつくった笛を吹くと、龍のなき声と似ていたという。龍は、空想の動物である。
【30】 蕭吟鳳下空 簫は管楽器の一種。「列仙伝」に、蕭史という人が、上手に簫を吹いた。すると鳳凰がとんで来て、その家の屋根に止まった、とある。鳳凰もまた、空想の動物である。鳳がおす、凰がめす。
漢·劉向·《列仙傳·卷上·蕭史》「秦穆公有女弄玉,善吹簫,公以弄玉妻之。遂教弄玉作鳳鳴。居十數年,吹簫似鳳聲,鳳凰來止其屋。」
【31】 万方 万国と同じ。天下、万事のこと。
【32】 君王多樂事 行事は、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。
〔宮中の代表的な行事〕
元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。
人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。
上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。
探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。
寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、3月1日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。
寒食 古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。
上巳節は、3月3日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。
春の行事:探春の宴、送窮日、寒食節、清明節、上巳節
秋の行事:七夕、天長節、中秋節、重陽節
端午節は、5月5日に、悪鬼を防ぐため、艾(よもぎ)人形を戸口にかけ、艾の虎を頭にかぶる行事である。粽子(ちまき)を食べ、竜船競渡(ボートレース)を行うこともあった。宮廷でも、衣服やチマキが下賜された。部屋に飾る鍾馗の絵は唐代からはじまっている。
夏至節には、百官は3日間の休みが与えられる。
七夕は、7月7日に、年に一度、織女星と牽牛星が会う日である。爆衣・爆書という衣類や書籍の虫干しが行われ、夜に粥や瓜を食べ、竹を立てて二つの星を祭る。針穴に色糸を通して織物の上達を祈る「乞巧節」でもある。
「天長節」は、8月5日の玄宗の誕生日を国慶節としたことによる。宮廷では宴席を行い、興慶宮の広場で、玄宗のもとで宮廷楽団の音楽や大規模な舞踊、出し物や曲芸、軽業、手品などの百戯が行われた。全国の寺観でも盛大な儀式が行われ、農民も天神を祭るという行事に組み入れられた。
「中秋節は、8月15日に、中秋の名月を眺める日であり、この日の満月が最も美しい月とされた。果物などを食べながら、月見を行った。唐代の半ばにはじまり、晩唐には定着した。
重陽節は、9月9日に、人々が高い丘や高楼の高所に登高し、茱萸(かわはじかみ)の枝や菊の花を髪に挿し、その実を入れた袋を肘に下げ、菊酒を飲み邪気を祓う行事である。翌日の9月10日が小重陽で酒宴が開かれた。
冬至節は、11月15日に、皇帝が朝賀を行う前に天に祭り、天下太平・五穀豊穣を祈り、式典が催される。元旦とともに重視され、官僚は7日間の休日を与えられた。民間でも「拝冬」として祝い、ご馳走をする。この前夜は、「至除夜」と言われ、徹夜して夜明けを迎える。
臘日は成道日の12月8日に、酒宴などを行って祝う行事。宮中でも宴会が開かれる。
徐夕は、12月29日か30日の1年の最終日。夜の「除夜」に、新しい年を迎えるため、酒を飲んで、徹夜する。宮廷では「大儺」の儀式が行われた。
〔其 四〕
【33】 玉樹 (1)美しい木。 (2)すぐれて高潔な姿の人。 (3)エンジュの異名。⑷美しい樹。転じて姿の美しいさま。才能の優れた人。ここでは、後宮の美しい妃嬪を指す。
【34】 金宮 こがね作りの宮殿。漢の武帝の故事。長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に「阿嬌を得たいかい?」と訊いた。劉徹は「もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ」と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。
【36】 樂事多 春には年中行事、行楽行事が目白押しにある。
【37】 後庭 玉樹後庭花, 玉树后庭花 1.樂府 吳 聲歌曲名。 南朝 陳後主 作。 《陳書‧皇后傳‧後主張貴妃》: “ 後主 每引賓客對 貴妃 等遊宴, 則使諸貴人及女學士與狎客共賦新詩, 互相贈答。後宮。宮中の奥御殿
【38】 朝 朝は、紫宸殿で日の出に朝礼が行われ、列を整えて礼をする。その後、天下の政事、諸事をおこなう。
【39】 輕輦 手車の呼び方を変えている。「其一」・歩輩 手車。人がひく車。人力車。「其二」・雕輦 彫刻をほどこした手くるま。宮中において天子のみが使用する車で宮中を象徴するものとしてとらえている。
【40】花間語 宮女の話し声。花は宮女。
【41】嬌 美しい。艶めかしい。声や色合いが美しい。可愛がる。
【42】竹下歌 紙のない時代は紙の代わりに用いた。蝋燭のもとで竹に書き物をする。また、竹の簾のもと、閨を意味しそこでの男女の情交の際の声を歌で示した。
【43】留著 とめておく。
【44】嫦蛾 。古代の神話中の女性。努という弓の名人の妻であったが、夫が酎欝が(仙女)からもらってきた不死の薬。宮中では、不死薬は媚薬でもあり、精力増強剤とされていた。それを、夫のるすの問にぬすんでのんだため、体が地上をはなれて月にむかってすっとび、それいらい、月の精となった。月の世界で、「女の盛りに、一人で、待っている女性」という意味でつかわれる。魯迅の「故事新編」の中の「奔月」は、この話がもとになっている。
紀頌之漢詩ブログ 李白 97 把酒問月
白兔搗藥秋復春,嫦娥孤棲與誰鄰。
嫦娥 李商隠
雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。
嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。
紀頌之漢詩ブログ 李商隠 嫦娥
1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥
【45】 繍戸 きらびやかに飾りたてた扉。宮中の女の部屋をさす。
【46】 紗窗 薄絹を張った窓。
【47】 曙色 あけぼのの光。
【48】 宮花争笑日 「劉子新論」に「春の葩は日を含みで笑うが似く、秋の葉は露に泫おいて泣くが如し」とある。宮妓たちが微笑み、花々が競って咲き誇る春の日。
【49】 弛草幡生春 南宋、謝霊運の長詩《登池上楼閣》「初景革緒風、新陽改故陰。池塘春草生、園柳変鳴禽。」(初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。)池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。
登池上樓 #2 謝靈運<25>#2 詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005
別に李白は、Kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 李白「灞陵行送別」に「上有無花之古樹、下有傷心之春草。」とある。同じように使用している。
【50】 青楼 「南史」に、斉の武帝は、「興光楼上に青い漆をぬり、世人これを青楼とよんだ」、とある。
斉の武帝(ぶてい、440年 - 493年)は、斉の第2代皇帝。姓は蕭、諱は賾。高帝蕭道成の長子。 父の死で即位する。即位後は国力増強に力を注ぎ、大規模な検地を実施した。あまりに厳しい検地であったため、逆に農民の反発を招くこととなってしまったこともあったが、反乱自体は微弱なものに過ぎず、検地は結果的に大成功したという。また戸籍を整理したり、貴族の利権を削減して皇帝権力の強化に務めるなどの政治手腕を見せた。このため、武帝は南朝における名君の一人として讃えられている。
51. 明光 漢代の宮殿の名。「三輔黄図」という宮苑のことを書いた本に「武帝、仙を求め、明光宮を起し、燕趙の美女二千人を発して之に充たす」とある。
52. 還須結伴遊 『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。①形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。②彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きる。③「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、④「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。
53. 紫殿 唐の大明宮にもある。「三輔黄図」にはまた「漢の武帝、紫殿を起す」とある。漢の武帝が神仙の道を信じ、道士たちにすすめられて、大規模な建造物をたくさん建てたことは、吉川幸次郎「漢の武帝」(岩波新書)にくわしい。玄宗も同じように道教のために寄進している。
54. 天樂 玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。○梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。○霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。
55. 豔舞全知巧 張雲容がその代表であろう。全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。
56. 嬌歌半欲羞 許和子(永新)のこと。『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている
57. 憐花 北斉の後主高給が寵愛した馮淑妃の名。燐は同音の蓮とも書かれる。もとは穆皇后の侍女であったが、聡明で琵琶、歌舞に巧みなのが気に入られて穆皇后への寵愛がおとろえ、後宮に入った。開元年間の後期の、念奴のことであろう。『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。
58. 蔵鉤 遊戯の一種。魏の邯鄲淳の「芸経」によると、じいさん、ばあさん、こどもたちがこの遊戯をしていたという三組にわかれ、一つの鈎を手の中ににぎってかくしているのを、他の組のものが当て、たがいに当てあって勝敗をきそう。漢の武帝の鈎弋夫人は、幼少のころ、手をにぎったまま開かなかった。武帝がその拳にさわると、ふしぎと閲いたが、手の中に玉の釣をにぎっていた。蔵鈎の遊戯は鈎弋夫人の話から起ったといわれている。
これをもとに宮妓たちの間では送鉤という遊びをしていた。二組の遊びで、艶めかしい遊びに変化したようだ。
(其の七)
59. 宮鶯 後宮の中であちこちの木々で鳴いている鶯。首聯上句の梅に対しての語である。
60. 簷燕 のきばのつばめ。首聯下句の柳に対しての語である。
61. 遲日 日が長くなる春。なかなか日が暮れない。「詩経」の豳風(ひんふう)に「七月ふみづき」
七月流火 九月授衣 春日載陽 有鳴倉庚
女執深筐 遵彼微行 爰求柔桑 春日遅遅
采蘩祁祁 女心傷悲 殆及公子同歸
一緒になりたいと待っている女心を詠っている。
62. 歌席 音楽の演奏会。
63. 晩来 夕方。
64. 綵仗 唐の制度では、宮殿の下の衛兵を仗という。綵は、着飾ってはなやかなという形容、飾り物が華麗である場合に使用する。別のテキストでは彩としている。この場合は色のあでやかさの場合が多い。
65. 行楽泥光輝 野外において性的行為をする光景を詠っている。光と影が交錯していること。景色を泥はやわらかくする。
(其の八)
66. 南薫殿 興慶宮の北側中央部分にある。長安志「興慶宮興慶殿前に瀛州門あり、内に南薫殿あり」と記してある。興慶宮と大明宮は天子専用道路とする夾城によって結ばれており、唐の制度では、宮殿の下の衛兵である綵仗が玄武門まで数㎞も並んで警護していた。龍首渠によって終南山からの流れと渭水、滻水を結ぶ運河とされ、興慶宮の龍池と連結されていた。この詩の春の時期には雪解け水で満水であった。
67. 北闕樓 いずれも唐代の長安の大明宮玄武門の名。長安城北の見張り台のある楼閣。左右に石の高さ15メートル以上石壁がありその上に大きな宮殿のような楼閣が聳えるように建っていた玄武殿と玄武門をさす、いわゆる、奥御殿。
68. 太液 池の名。漢の太液池は漢の武帝が作った。池の南に建章宮という大宮殿を建て、池の中には高さ二十余丈の漸台というものを建て、長さ三文の石の鯨を刻んだ。また、池に三つの島をつくり、はるか東海にあって仙人が住むと信じられた瀛洲・蓬莱・方丈の象徴とした。漢の成帝はこの池に舟をうかべ、愛姫趙飛燕をのせて遊びたわむれた。唐代においても、大明宮に漢代のそれをまねて、蓬莱殿の北に太液池をつくり、池の中の三山の島を蓬莱・瀛州・方丈山。
69. 鳳吹 笙(しょうのふえ)のこと。鳳のかたちをしている。
70. 瀛洲 仙島の一つ。別に蓬莱、方丈がある。
71. 素女 仙女の名。瑟(琴に似た楽器)をひくのが上手といわれる。
72. 珠佩 真珠のおびもの。礼服の装飾で、玉を貫いた糸を数本つないで腰から靴の先まで垂れ、歩くとき鳴るようにしたもの。宮中に入るものすべてのものがつけていた。階級によって音が違った。
73. 天人 仙女。天上にすむ美女。天の乙女。
74. 彩毬 美しい模様の鞠。
75. 未央 漢の皇居の正殿の名。中国、漢代に造られた宮殿。高祖劉邦(りゅうほう)が長安の竜首山上に造営したもの。唐代には宮廷の内に入った。
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- カテゴリ:李太白集 巻四
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