李太白集 373《太白巻六07 西嶽雲臺歌送丹丘子》 (西嶽崢嶸何壯哉) 李白 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7443
- 2016/03/05
- 21:51
李白 西嶽雲臺歌送丹丘子
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
李太白集 373《太白巻六07 西嶽雲臺歌送丹丘子》 (西嶽崢嶸何壯哉) 李白 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7443 |
元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。
李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。
李太白集 | Category 詩題 | 作時 |
巻-No. | 西暦 年号 | |
06-08 | 1.元丹丘歌 | 731年開元十九年 |
24-02 | 2.題元丹丘山居 | 731年開元十九年 |
24-03 | 731年開元十九年 | |
18-16 | 736年開元二十四年 | |
02-08 | 5.將進酒 | 736年開元二十四年 |
14-12 | 738年開元二十六年 | |
23-55 | 738年開元二十六年 | |
巻13-13 | 14.江上寄元六林宗 | 739年開元二十七年39歳 |
巻09-01 | 741年開元二十九年 | |
06-07 | 9. 西嶽雲臺歌送丹丘子 | 743年天寶二年 |
18-11 | 8. 以詩代書答元丹丘 | 744年天寶三年 |
24-08 | 10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 | 750年天寶九年 |
22-02 | 11.尋高鳳石門山中元丹丘 | 751年天寶十年 |
12-11 | 12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 | 751年天寶十年 |
22-01 | 13.與元丹丘方城寺談玄作 | 751年天寶十年 |
以上の十三首+二首である。
年:743年天寶二年43歳 94首-(55)
卷別: 卷一六六 文體: 七言古詩
詩題: 西嶽雲臺歌送丹丘子
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點: 雲臺峰 (京畿道 華州 華山)
華山 (京畿道 華州 華山) 別名:華、太華、華岳、西岳
仙人掌 (京畿道 華州 華山)
渭橋 (京畿道 京兆府 長安)
交遊人物/地點:元丹丘 當地交遊(京畿道 華州 華山)
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)
西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。
黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。
榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。
巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。
三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。
白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。
雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。
明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。
我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。
九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。
玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
詩文(含異文): 西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海【洪波噴流射東海】。三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
『西嶽雲臺歌送丹丘子』 現代語訳と訳註解説
(本文)
西嶽雲臺歌送丹丘子
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
(下し文)
(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)
西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。
黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。
(現代語訳)
西嶽雲臺歌送丹丘子(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。
抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
(訳注)
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)
1. 2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。
2. 3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。
㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)
西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。
黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。
#2
榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。
今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。
巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。
むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。
三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。
華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。
榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。
巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。
三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。
#3
白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。
雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。
明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。
#4
我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。
九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。
玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
詩文(含異文): 西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海【洪波噴流射東海】。三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
『西嶽雲臺歌送丹丘子』現代語訳と訳註解説
(本文)
#2
榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。
巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。
三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。
(下し文)
#2
榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。
巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。
三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。
(現代語訳)
#2
今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。
むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。
華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)
2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。
3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。
榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。
今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。
【6.】 千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。
巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。
むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。
【7.】 巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。)(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。
張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753
三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。
華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。
【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝宫在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。
【9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。
【字解】
1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)
2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。
3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。
元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。
李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。
李太白集 | Category 詩題 | 作時 |
巻-No. | 西暦 年号 | |
06-08 | 1.元丹丘歌 | 731年開元十九年 |
24-02 | 2.題元丹丘山居 | 731年開元十九年 |
24-03 | 731年開元十九年 | |
18-16 | 736年開元二十四年 | |
02-08 | 5.將進酒 | 736年開元二十四年 |
14-12 | 738年開元二十六年 | |
23-55 | 738年開元二十六年 | |
巻13-13 | 14.江上寄元六林宗 | 739年開元二十七年39歳 |
巻09-01 | 741年開元二十九年 | |
06-07 | 9. 西嶽雲臺歌送丹丘子 | 743年天寶二年 |
18-11 | 8. 以詩代書答元丹丘 | 744年天寶三年 |
24-08 | 10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 | 750年天寶九年 |
22-02 | 11.尋高鳳石門山中元丹丘 | 751年天寶十年 |
12-11 | 12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 | 751年天寶十年 |
22-01 | 13.與元丹丘方城寺談玄作 | 751年天寶十年 |
以上の十三首+二首である。
㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。
㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。
6. 千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。
7. 巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。)(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。
張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753
【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝宫在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。
【9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)
西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。
黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。
#2
榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。
今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。
巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。
むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。
三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。
華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。
榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。
巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。
三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。
#3
白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。
五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。
雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。
その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。
明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。
かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。
白帝の金精 元氣を運【めぐ】らし,石は蓮花を作し 雲は臺を作す。
雲臺の閣道 窈冥に連り,中に不死の丹丘生有り。
明星玉女 灑掃に備わり,“麻姑搔背” 指爪輕し。
#4
我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。
九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。
玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
『西嶽雲臺歌送丹丘子』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#3
白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。
雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。
明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。
(下し文)
#3
白帝の金精 元氣を運【めぐ】らし,石は蓮花を作し 雲は臺を作す。
雲臺の閣道 窈冥に連り,中に不死の丹丘生有り。
明星玉女 灑掃に備わり,“麻姑搔背” 指爪輕し。
(現代語訳)
#3
五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。
その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。
かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)
2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。
3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。
白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。
五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。
10. 白帝金精 少昊【しょうこう】は、中国古代の五帝の一人。姓は己姓。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏とも称される)。名は摰(質とも作る)。号は「皞」(「皓」・「顥」とも作る)、「朱宣」、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。黄帝の子。窮桑(現在の山東省曲阜市)に生まれる。義和の国と称された東夷族の国の領主。暦を創り、官名を「玄鳥氏」、「伯趙氏」、「青鳥氏」、「丹鳥氏」等、鳥の名で呼んだことが、春秋左氏伝-昭公十七年の項に記載されている。蟜極の父。中国神話では、金字塔(ピラミッド)に埋葬されたとされている。なお、その遺構は中華人民共和国内に発見されていない。赢姓の氏族(嬴、桑、谭、秦、徐、黄、江、李、趙、 数百あり)の始祖。東晉葛洪《枕中書、五嶽大帝》「則以太昊氏為青帝,治岱宗山,祝融氏為赤帝,治衡霍山,金天氏為白帝,治華陰山,顓頊氏為黑帝,治太恆山,軒轅氏為黃帝,治嵩高山。」とあり、(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)とみえる。
11. 運 はこぶ。めぐる。めぐらす。もてあそぶ。めぐりあわせ、うん。
12. 石作蓮花 華山の西峰海拔2082米,又、因みに石葉が蓮の瓣の如く峰巔を覆蓋している,故に又の名を蓮花峰という。
13. 雲作臺 雲が臺をなす、道教においての仙境の台をいう。
雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。
その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。
14. 雲臺 雲臺峰 北峰のことで、海拔1614米,華山において主峰の一である,華山において北にあることで拝礼する方向にあるやまである。北峰四面は懸絕であり,上に景雲を冠しており,下には地脈に通じ,巍然として獨り秀である,雲臺の若く有り,此に因て又の名を雲臺峰という。
15. 閣道 ①花を見るための桟道。王維《御製従蓬萊宮向興慶》「鑾輿迴出千門柳,閣道廻看上苑花。」(鑾輿 迴らし出ず千門の柳,閣道廻らし看る上苑の花)②山中のがけからがけに渡した橋。かけ橋。アーチ橋や肘木橋のような梯橋などもいう。③秦の始皇帝が渭水(いすい)の両岸に築いた長楽・咸陽両宮の間に架けられた橋は支間68,柱750本からなる木造の桁橋であり,漢代の壁画に中段を高く上げた橋の描写がある。秦・漢時代には,閣道という宮殿もあった。
明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。
かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。
16. 明星玉女 《太平廣記·卷第五十九·女仙四》「明星玉女者,居华山。服玉浆,白日升天。山顶石龟,其广数亩,高三仞。其侧有梯磴,远皆见。玉女祠前有五石臼,号曰玉女洗头盆。其中水色,碧绿澄澈,雨不加溢,旱不减耗。祠内有玉石马一匹焉。」(明星玉女者は,華山に居す。玉浆を服し,白日升天す。山頂に石龜とし,其の広さは数畝であり,高さは三仞である。其の侧には梯磴有り,遠く皆見る。玉女祠の前には五石臼が有り,号して曰う玉女が頭を洗った盆である。其の中は水色,碧绿で澄澈していて,雨がふっても溢れることはない,旱であっても中の水が减耗することもなく。祠内には玉石の馬が一匹有るだけである。
17. 麻姑搔背 漢の桓帝かんていのとき、蔡経さいけいという者が麻姑の長い爪を見て、あの爪で背中をかかせたら、さぞかし気持ちがよいだろうと心の中で思ったという故事「麻姑」は中国伝説上の仙女の名。鳥のような長い爪つめをもっているので、かゆいところをかくのに適しているといわれた。「掻痒」はかゆいところをかくこと。晉·葛洪《神仙傳》卷二《王遠》“麻姑手爪似鳥,經見之,心中念曰:「背大癢時,得此爪以爬背,當佳也。」遠已知經心中所言,即使人牽經鞭之,謂曰:「麻姑神人也,汝何忽謂其爪可爬背耶!」但見鞭著經背,亦莫見有人持鞭者。”(麻姑の手爪は鳥に似たり,蔡經之を見て,心中に念じて曰く:「背大に癢き時,此の爪を得て以て背を爬く,當に佳なるべきなり。」と。王遠 已に蔡經心中を言う所を知り,即ち人をして經を牽いて之を鞭たしめて,謂うて曰く:「麻姑は神人なり,汝 何ぞ忽に謂其の爪で背を爬く可し!」と。但し鞭著して蔡經の背を見れば,亦た人の鞭を持す者有る見る莫れ。)
【字解】
1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)
2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。
3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。
元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。
李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。
李太白集 | Category 詩題 | 作時 |
巻-No. | 西暦 年号 | |
06-08 | 1.元丹丘歌 | 731年開元十九年 |
24-02 | 2.題元丹丘山居 | 731年開元十九年 |
24-03 | 731年開元十九年 | |
18-16 | 736年開元二十四年 | |
02-08 | 5.將進酒 | 736年開元二十四年 |
14-12 | 738年開元二十六年 | |
23-55 | 738年開元二十六年 | |
巻13-13 | 14.江上寄元六林宗 | 739年開元二十七年39歳 |
巻09-01 | 741年開元二十九年 | |
06-07 | 9. 西嶽雲臺歌送丹丘子 | 743年天寶二年 |
18-11 | 8. 以詩代書答元丹丘 | 744年天寶三年 |
24-08 | 10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 | 750年天寶九年 |
22-02 | 11.尋高鳳石門山中元丹丘 | 751年天寶十年 |
12-11 | 12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 | 751年天寶十年 |
22-01 | 13.與元丹丘方城寺談玄作 | 751年天寶十年 |
以上の十三首+二首である。
㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。
㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。
6. 千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。
7. 巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。)(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。
張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753
【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝宫在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。
【9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。
【10】 自帝金精 枕中書に「金天氏は自帝なり、撃陰に治す」とある。
【八】 璧室 山慣蒙の名山記にう李白の詩、石作壷花-曹作壷、今山形を載る、外、諸山に窺って蓬録の如し0中間三一峰、特出して蓮心の如し○その下を曹養蜂となす、遠くより之な望めば、宛として、青色の蓮花、雪葦の上に開くが如きなり」とみろ○
【九】 窮盈玉女 郭嘆の山海経証に「大挙山上、明星玉女あり、玉求を挿して、上って之毎服するを得れば、仙となる、造険、僻にして混ぜず」とある0
【十】 麻姑接骨 紳仙博に「麻姑の手爪、鳥に似たり。奔経=れね見て心中に念じて日く、背大に持古時、=の爪を得て背ね爬く、常に佳なるべき光り、と。王達・すでに糎の心中言ふところを知り、打ち人をして経ね牽いて之を鞭たしめて日く、麻姑に沖人なり、汝、何ぞ忽に其爪育み爬くべしと謂ふかしとある。
華山は、秦嶺山脈の東段に属し、『水経注』には、「遠而望之若花状」、「西方為華山,少阴用事,万物生華,故曰華」という記述があるので、「華山」と呼ばれる。華山は主に南峰(落雁)、東峰(朝陽)、西峰(蓮花)、中峰(玉女)、北峰(雲台)の5峰からなり、その中主峰落雁、朝陽、蓮花は高く険しく、神技があるように聳え立っている。南峰は一番高い峰だけでなく、五岳の中では最高の峰です。顶上に登り群山を見下ろし、山々が重なり合ってそばだち、勢いがある。ここに「仰天池」と呼ばれる池があり、一年中澄みきっていて涸れない。玉女と雲台はほかの峰に比べて高くはないが、それぞれの特色がある。風光明美な華山は、中国の著名な景勝地だけではなく、道教の有名な「洞天福地」である。華山には奇妙な石がたくさんあり、岩洞が全山に分布し、《雲笈七籤》の洞天福地記によると、華山西玄洞は、三元极真洞天とも呼ばれ、十大洞天の第四洞天とされている。華山洞は、太极総仙洞天とも呼ばれ、三十六小洞天の第四洞天とされ、他に蓮花洞、玉皇洞、太上洞、賀老洞、迎陽洞、希夷洞などがあるという。
古くから道教教徒は華山での修行に憧れていた。歴代の著名な道士、隐士の修行の遺跡と文物が山の至る所にあり、彼らに関する伝説と物語は、今日まで当地に伝わっている。道教が形成する前、その前身「方仙道」、「黄老道」の時期に、すでにたくさんの著名な神仙家達が華山に定住して修道していたのである。とくに、唐代は国教として盛んな時期であった、唐高祖、唐太宗などが華山に登り拝礼をしているし、唐睿宗の娘金仙王女は華山で修道し、唐玄宗が王女の為に仙姑観、白雲宮を建てている。
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
西嶽崢嶸何壯哉,黃河如絲天際來。
西嶽の華山は、崢嶸と天に聳えて、実に壮観であって、その絶頂に登って遥かに下方を望めば黄河は、絲の如く細く、遥かにに西北の天際から流れてくるのが見える。
黃河萬里觸山動,盤渦轂轉秦地雷。
抑も、黄河は、万里の塞外からきて、このやま麓に触れ、これを動かすが如き勢であって、ぐるぐると廻る渦は、車轂の如く旋轉し、その聲は、古の秦地たる長安の都までも、恐ろしい雷の如く聞える。
(西嶽雲臺の歌で 丹丘子を送る)
西嶽 崢嶸として何ぞ壯なる哉,黃河絲の如く天際より來る。
黃河萬里 山に觸れて動き,盤渦 轂轉して秦地雷なり。
#2
榮光休氣紛五彩,千年一清聖人在。
今は堯舜のころのような「開元の治」といわれる聖主の御治世であるから、黄河から栄光を生じ、目出度い休気を発し、五彩紛粉として、空中に輝いて居る。黄河は、千年に唯だ一度清むというが、今しも、丁度清んで居るので、正に聖人が上に在ますということが分かる。
巨靈咆哮擘兩山,洪波噴箭射東海。
むかし、華山は、首陽山と対して、黄河は其間を流れて居たのであるが、巨霊といって恐ろしい力のある神様が、この西嶽を掌でつんざき開いて、河水を切って落したというが、その巨霊が叫び狂って、南山を劈いたその跡も、歴々として今でも残って居るし、その劈いた道筋は、大きな波が、箭を射るが如き勢を以て流れ、そして、東海に馳せ向うのである。
三峰卻立如欲摧,翠崖丹谷高掌開。
華山は、元来多くの峰が集合してできているので、中にも蓮花、落雁、朝陽の主要三峰は鼎立して、今にも崩れ掛りそうで、巨霊の掌でつんざいて開いたによって、翠崖丹谷が出来たのである。
榮光休氣 五彩に紛たり,千年一たび清んで 聖人在り。
巨靈 咆哮して 兩山を擘き,洪波 箭を噴いて東海を射る。
三峰 卻立して 摧けんと欲するが如し,翠崖 丹谷 高掌開く。
#3
白帝金精運元氣,石作蓮花雲作臺。
五嶽大帝に「金天氏為白帝,治華陰山。」(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)と白帝は金の精を集め、元気をめぐらせて、西方を平鎮して居るが、その元気を受けてできた華山の中には、他に見ることはない様な奇絶な景色があって、石は蓮花の形をなし、雲は臺となって居る。
雲臺閣道連窈冥,中有不死丹丘生。
その雲臺峰には、立派な道観があって、閣道が天に通じで居る。そこに行い澄まして居る高徳の道士は、太古から今に至るまで、不死と傳えられた丹邱先生その人である。
明星玉女備灑掃,麻姑搔背指爪輕。
かくて、丹邱先生は、明星玉女という峰の何し負う仙女などを自由に使って、自分の居る雲臺観の掃除をさせて居るし、その端坐して居る間には、麻姑といふ仙女がきて、長い爪で背中の痒い處を掻いて呉れることであらう。
白帝の金精 元氣を運【めぐ】らし,石は蓮花を作し 雲は臺を作す。
雲臺の閣道 窈冥に連り,中に不死の丹丘生有り。
明星玉女 灑掃に備わり,“麻姑搔背” 指爪輕し。
#4
我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。
今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。
九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。
もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。
玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。
我が皇 手に把る天地の戶,丹丘 天を談じて天と語る。
九重 出入 光輝を生ず,東 蓬萊に來り 復た西に歸る。
玉漿 儻し故人に惠んで飲ましむれば,二茅の龍に騎し天に上って飛ばん。
『西嶽雲臺歌送丹丘子』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#4
我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。
九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。
玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
(下し文)
#4
我が皇 手に把る天地の戶,丹丘 天を談じて天と語る。
九重 出入 光輝を生ず,東 蓬萊に來り 復た西に歸る。
玉漿 儻し故人に惠んで飲ましむれば,二茅の龍に騎し天に上って飛ばん。
(現代語訳)
#4
今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。
もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。
かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。
西嶽雲臺歌送丹丘子
(華山の雲臺峰に元丹邱先生が歸隠するのを送る詩)
我皇手把天地戶,丹丘談天與天語。
今、天子は、四海に君臨して、天地の戸を手に握って居られるが、そこへ、丹邱先生が伺候して、天を談じ、至尊の前に於で道を講じられ、天子の前にその思想を語られるべきお方であるのである。
18 天地戶 六朝初期の霊宝派や上清派の道教と密接な関係をもちつつ形成された仙伝小説である《漢武帝内傳》「又命侍女安法嬰歌元靈之曲。其詞曰:“大象雖寥廓,我把天地戶。」(又た侍女安法嬰に命じて 元靈の曲を歌わしむ。其ぼ詞に曰く“大象寥廓と雖も,我は天地戶を把む。)とある。
19 談天與天語 道教の源流は、上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家の上帝鬼神信仰などさまざまなものである。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられたのである。これらを踏まえ、元丹邱は天を談じ、天語得るということであるから、天子に迎えられるにふさわしい人物であるということを言うのである。
九重出入生光輝,東來蓬萊復西歸。
もとより、何等の官位も無い一道士ではあるが、道徳堅固なばかりに、天子は非常に之を尊敬し、九重に出入するのを許されたので、この上もないこうえいなことであるとしている。そして、丹邱先生の蹤跡は、凡人の企てが及ぶことができないもので、朝には、東の方、遠く蓬莱島へ行ったかと思えば、夕には、西の方、華山にかえるというように、天地の間を自由自在に翺翔して居る。この丹邱先生が、今度、いよいよ長安を辞して、雲臺峰の道観にかえられるというので、この詩を作って、送別の意を表した次第である。
玉漿儻惠故人飲,騎二茅龍上天飛。
かねがね願っているのは、神仙の道にあるがゆえに、せめて先生が平生服用されている、玉漿の仙液を少しでも善いから、われに恵んで飲ましては下さるまいか。そうすると、われは、直に二茅龍に乗じて、天に登って昇仙することが出来るであろう。どうかこの詩を作ってさし上げた我が好意に免じて、如上の希望を叶へて戴きたいものである。
20 玉漿 中国の古い天文思想により引用した言葉で、玉でもって不老長寿の水を作ったものを玉漿という、
21 二茅龍 漢劉向《列仙傳‧呼子先》“呼子先者, 漢中關下卜師也,老壽百馀歲。 臨去, 呼酒家老嫗曰: '急裝, 當與嫗共應中陵王。 '夜有仙人持二茅狗來至, 呼子先。子先持一與酒家嫗,得而騎之。乃龍也,上華陰山,常於山上大呼言:「子先、酒母在此耳」”(呼子先は,漢中關下の卜師なり,老壽 百馀歲なり。去るに臨み,酒家の老嫗を呼んで曰く、「急裝して,當に嫗と共に中陵王に應ずべしと。夜 仙人有り 二茅狗を持して來り至り,子先を呼ぶ。子先 一を持して酒家の嫗に與え,得て之に騎す。乃ち龍まり,華陰山に上り,常に山上に於いて大呼して言う:「子先、酒母 此に在るのみ」)とある。
【字解】-----------------------------------
1 西嶽 華山のこと。 中国陝西省華陰市にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山、五岳の一つで、西岳と称されている。最高峰となる南峰の標高は2,160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。《癸辛雜識》 「五岳惟華岳極峻,直上四十五里,遇無路處皆挽鐵絙以上。有西岳廟在山頂,望黃河一衣帶水耳。」(五岳惟だ華岳のみ極めて峻,直上四十五里,無路き處に遇えば 皆 鐵絙を挽いて以て上る。西岳廟山頂に在り,黃河を望めば一衣帶水のみと有る。)
2. 雲臺 雲臺觀,在陝西省華陰縣南華山上。
3. 丹丘子 その華岳の雲臺峰に元丹邱子という道士が棲んで居た。この人は、李白と親交があつたと見えて、集中に其名が散見して居る。そして、元丹邱は神仙の術を得、天子から尊崇され、しばしば招いて道教の話を聞かれたこともあるので、それ等の事実を詠み込んで、今や丹邱子が華山の雲臺峰に歸隠するのをおくったのである。
元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。
李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。
李太白集 | Category 詩題 | 作時 |
巻-No. | 西暦 年号 | |
06-08 | 1.元丹丘歌 | 731年開元十九年 |
24-02 | 2.題元丹丘山居 | 731年開元十九年 |
24-03 | 731年開元十九年 | |
18-16 | 736年開元二十四年 | |
02-08 | 5.將進酒 | 736年開元二十四年 |
14-12 | 738年開元二十六年 | |
23-55 | 738年開元二十六年 | |
巻13-13 | 14.江上寄元六林宗 | 739年開元二十七年39歳 |
巻09-01 | 741年開元二十九年 | |
06-07 | 9. 西嶽雲臺歌送丹丘子 | 743年天寶二年 |
18-11 | 8. 以詩代書答元丹丘 | 744年天寶三年 |
24-08 | 10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 | 750年天寶九年 |
22-02 | 11.尋高鳳石門山中元丹丘 | 751年天寶十年 |
12-11 | 12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 | 751年天寶十年 |
22-01 | 13.與元丹丘方城寺談玄作 | 751年天寶十年 |
以上の十三首+二首である。
㈣ 崢嶸 1 山や谷のけわしさ。2 人生のけわしさ。[ト・タル][文][形動タリ]山などが、高くけわしいさま。
㈤ 盤渦轂轉 渦が盤のようにぐるぐる回って車轂の如く回転する。
6. 千年一清 晉•王嘉撰《拾遺記》「黄河千年一清,至聖之君以為大瑞。」(黄河千年に一たび清む、至聖の君、以て大瑞と爲す。)とある。
7. 巨靈 巨神、川の神、古語に昔二つの華山が一つになっていた。黄河がそのためまっすぐ流れないので、河神が手で山をおし開き、足で麓をおし分けて河水を通した。その手足の跡がのこっているという。張衡《西京賦》「漢氏初都,在渭之涘,秦里其朔,寔為咸陽。左有崤函重險、桃林之塞,綴以二華,巨靈贔屓,高掌遠蹠,以流河曲,厥跡猶存。」(漢氏の初都は、渭の涘【ほとり】に在り。秦 其の朔【きた】に里【あ】り、寔【これ】を咸陽と為す。左に崤函【こうかん】の重険【ちょうかん】、桃林の塞有り。綴【てい】するに二華を以てし、巨靈贔屓【ひいき】し、掌を高くし蹠【あし】を遠くし、以て河曲を流せり。厥【そ】の跡 猶お存す。)(長安の地勢) 漢の王室が始めて定めた都は、渭水のほとりである。それまで秦はその北に居り、そこは咸陽という。漢都長安の東は、崤山・函谷山の二重の険があり、桃林の塞がある。そこから長安まで、その間を太華と少華のなん両山をつないでおり、むかし河の巨神が全力を傾ける。掌を高くさし上げ、足を大きく踏ん張り、もと一つの山であったのを押し開き、曲流する河水をまっすぐ流した。その痕跡は今も残る。
張平子(張衡)《西京賦》(4)(長安の地勢) #2-1 文選 賦<114―(4)>31分割68回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1041 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3753
【8】三峰 現在の華山は東、西、南、北、中と五峰有る。主峰は南峰“落雁”、東峰“朝陽”、西峰“蓮花” と有って,三峰が鼎峙している。“勢飛白雲外影倒黃河裡”といわれ,人々は “天外三峰”と稱している。また雲台、玉女の二峰が相輔してその側に有る。華山記に「太華山削成而四方直上至頂、列爲三峯。其西爲蓮花/峯、峯之石窳隆不一。皆如蓮葉倒垂、故名是峯曰蓮花。 其南曰落雁峯、上多松檜、故亦曰松檜峯。白帝宫在其/間、俯眺三秦、曠莽無際黄河如一縷、水 繚繞岳下。其東峯曰朝陽峯、峯之左脇中有一峯、狀甚秀異、如爲東峯/所抱者曰玉女峯、乃東峯之支峯也。世之談三峯者、數玉女而不數朝陽非矣。」(太華山削成し、四方直上して頂きに至り、列して三峰となる。その西を蓮花峰となす、峰の石窳隆して一ならず、皆蓮葉の倒垂するが如し、故にこの峰を名づけて蓮花という。その南を落雁峰という、上に松檜多し、故に亦た松檜峰といふ。白帝宮、その間に在り、伏して三秦を眺むれば、黄河一縷の如く、水、嶽下み繚繞す。その東峰在朝陽峰といふ、峰の左脇中に一峰あり、状甚だ秀異、東峰に抱かるるものの如し、玉女峰といふ、乃ち東峰の支峰なり。世の三峰を談するもの、玉女を数えて、朝陽を数えず、非なり。)とある。
【9】 高掌開 上文の続きに「山の東北は、即ち仙人掌たり、即ちいわゆる巨霊掌なり 巌壁黒色、石膏、宝中より流れ出で、凝結して痕を成し、黄白相間はる。遠く之を望めば、その大なるもの、五岐、指の如きものも見る。好奇のもの、ついに傳えて、巨霊山を劈くの掌跡となす。『掌の長さ三十丈、五指参差、中指直に峰頂きに冠す、長さ三十丈」とある、これに就いて、王涯の大華山掌辯等あれども、あまりくどいので、省略する。
10. 白帝金精 少昊【しょうこう】は、中国古代の五帝の一人。姓は己姓。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏とも称される)。名は摰(質とも作る)。号は「皞」(「皓」・「顥」とも作る)、「朱宣」、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。黄帝の子。窮桑(現在の山東省曲阜市)に生まれる。義和の国と称された東夷族の国の領主。暦を創り、官名を「玄鳥氏」、「伯趙氏」、「青鳥氏」、「丹鳥氏」等、鳥の名で呼んだことが、春秋左氏伝-昭公十七年の項に記載されている。蟜極の父。中国神話では、金字塔(ピラミッド)に埋葬されたとされている。なお、その遺構は中華人民共和国内に発見されていない。赢姓の氏族(嬴、桑、谭、秦、徐、黄、江、李、趙、 数百あり)の始祖。東晉葛洪《枕中書、五嶽大帝》「則以太昊氏為青帝,治岱宗山,祝融氏為赤帝,治衡霍山,金天氏為白帝,治華陰山,顓頊氏為黑帝,治太恆山,軒轅氏為黃帝,治嵩高山。」とあり、(金天氏白帝と為り,華陰山に治す。)とみえる。
11. 運 はこぶ。めぐる。めぐらす。もてあそぶ。めぐりあわせ、うん。
12. 石作蓮花 華山の西峰海拔2082米,又、因みに石葉が蓮の瓣の如く峰巔を覆蓋している,故に又の名を蓮花峰という。
13. 雲作臺 雲が臺をなす、道教においての仙境の台をいう。
14. 雲臺 雲臺峰 北峰のことで、海拔1614米,華山において主峰の一である,華山において北にあることで拝礼する方向にあるやまである。北峰四面は懸絕であり,上に景雲を冠しており,下には地脈に通じ,巍然として獨り秀である,雲臺の若く有り,此に因て又の名を雲臺峰という。
15. 閣道 ①花を見るための桟道。王維《御製従蓬萊宮向興慶》「鑾輿迴出千門柳,閣道廻看上苑花。」(鑾輿 迴らし出ず千門の柳,閣道廻らし看る上苑の花)②山中のがけからがけに渡した橋。かけ橋。アーチ橋や肘木橋のような梯橋などもいう。③秦の始皇帝が渭水(いすい)の両岸に築いた長楽・咸陽両宮の間に架けられた橋は支間68,柱750本からなる木造の桁橋であり,漢代の壁画に中段を高く上げた橋の描写がある。秦・漢時代には,閣道という宮殿もあった。
16. 明星玉女 《太平廣記·卷第五十九·女仙四》「明星玉女者,居华山。服玉浆,白日升天。山顶石龟,其广数亩,高三仞。其侧有梯磴,远皆见。玉女祠前有五石臼,号曰玉女洗头盆。其中水色,碧绿澄澈,雨不加溢,旱不减耗。祠内有玉石马一匹焉。」(明星玉女者は,華山に居す。玉浆を服し,白日升天す。山頂に石龜とし,其の広さは数畝であり,高さは三仞である。其の侧には梯磴有り,遠く皆見る。玉女祠の前には五石臼が有り,号して曰う玉女が頭を洗った盆である。其の中は水色,碧绿で澄澈していて,雨がふっても溢れることはない,旱であっても中の水が减耗することもなく。祠内には玉石の馬が一匹有るだけである。
17. 麻姑搔背 漢の桓帝かんていのとき、蔡経さいけいという者が麻姑の長い爪を見て、あの爪で背中をかかせたら、さぞかし気持ちがよいだろうと心の中で思ったという故事「麻姑」は中国伝説上の仙女の名。鳥のような長い爪つめをもっているので、かゆいところをかくのに適しているといわれた。「掻痒」はかゆいところをかくこと。晉·葛洪《神仙傳》卷二《王遠》“麻姑手爪似鳥,經見之,心中念曰:「背大癢時,得此爪以爬背,當佳也。」遠已知經心中所言,即使人牽經鞭之,謂曰:「麻姑神人也,汝何忽謂其爪可爬背耶!」但見鞭著經背,亦莫見有人持鞭者。”(麻姑の手爪は鳥に似たり,蔡經之を見て,心中に念じて曰く:「背大に癢き時,此の爪を得て以て背を爬く,當に佳なるべきなり。」と。王遠 已に蔡經心中を言う所を知り,即ち人をして經を牽いて之を鞭たしめて,謂うて曰く:「麻姑は神人なり,汝 何ぞ忽に謂其の爪で背を爬く可し!」と。但し鞭著して蔡經の背を見れば,亦た人の鞭を持す者有る見る莫れ。)
華山は、秦嶺山脈の東段に属し、『水経注』には、「遠而望之若花状」、「西方為華山,少阴用事,万物生華,故曰華」という記述があるので、「華山」と呼ばれる。華山は主に南峰(落雁)、東峰(朝陽)、西峰(蓮花)、中峰(玉女)、北峰(雲台)の5峰からなり、その中主峰落雁、朝陽、蓮花は高く険しく、神技があるように聳え立っている。南峰は一番高い峰だけでなく、五岳の中では最高の峰です。顶上に登り群山を見下ろし、山々が重なり合ってそばだち、勢いがある。ここに「仰天池」と呼ばれる池があり、一年中澄みきっていて涸れない。玉女と雲台はほかの峰に比べて高くはないが、それぞれの特色がある。風光明美な華山は、中国の著名な景勝地だけではなく、道教の有名な「洞天福地」である。華山には奇妙な石がたくさんあり、岩洞が全山に分布し、《雲笈七籤》の洞天福地記によると、華山西玄洞は、三元极真洞天とも呼ばれ、十大洞天の第四洞天とされている。華山洞は、太极総仙洞天とも呼ばれ、三十六小洞天の第四洞天とされ、他に蓮花洞、玉皇洞、太上洞、賀老洞、迎陽洞、希夷洞などがあるという。
古くから道教教徒は華山での修行に憧れていた。歴代の著名な道士、隐士の修行の遺跡と文物が山の至る所にあり、彼らに関する伝説と物語は、今日まで当地に伝わっている。道教が形成する前、その前身「方仙道」、「黄老道」の時期に、すでにたくさんの著名な神仙家達が華山に定住して修道していたのである。とくに、唐代は国教として盛んな時期であった、唐高祖、唐太宗などが華山に登り拝礼をしているし、唐睿宗の娘金仙王女は華山で修道し、唐玄宗が王女の為に仙姑観、白雲宮を建てている。
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