李太白集 392《太白巻十八12金門答蘇秀才》 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 7548
- 2016/03/27
- 22:25
李白 金門答蘇秀才
君還石門日,朱火始改木。春草如有情,山中尚含綠。
折芳愧遙憶,永路當日勗。遠見故人心,平生以此足。
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭されたそれにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
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李太白集卷十八12 | 金門答蘇秀才 |
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Index-23Ⅲ-2 | 743年天寶二年43歳 94首-(74) |
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年:天寶二年43歳 94首-(74)
卷別: 卷一七八 文體: 五言古詩
詩題: 金門答蘇秀才
作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)
及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣
交遊人物/地點:蘇秀才 書信往來(京畿道 京兆府 長安)
詩文:
金門答蘇秀才#1
君還石門日,朱火始改木。
春草如有情,山中尚含綠。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
遠見故人心,平生以此足。
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
(金門 蘇秀才に答う)#1
君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。
春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。
芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。
遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2
巨海納百川,麟閣多才賢。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
#3
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
我留在金門,君去臥丹壑。
未果三山期,遙欣一丘樂。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
#4
願狎東海鷗,共營西山藥。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
良辰不同賞,永日應閒居。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
#5
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
採薇行笑歌,眷我情何已。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
得心自虛妙,外物空頹靡。
身世如兩忘,從君老煙水。
『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(本文)
金門答蘇秀才#1
君還石門日,朱火始改木。
春草如有情,山中尚含綠。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
遠見故人心,平生以此足。
(下し文)
(金門 蘇秀才に答う)#1
君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。
春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。
芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。
遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
(現代語訳)
金門答蘇秀才#1(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
(訳注)
金門答蘇秀才#1
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743年天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。
金門 漢代の未央宮にあった門で、金門・金閨門の名であり、文学の士(学問をもって天子に仕える人)がここから出仕した。本来この門は、「魯般門」という名であるが、門の外に銅製の馬があることからこうよばれた。揚雄 解嘲 「與羣賢同行,歷金門,上玉堂」(羣賢と同行し,金門を歷,玉堂に上る)とある。唐における金門は、右銀臺門をいい、宣政殿の北には紫宸門があり、その内側には紫宸殿がある。紫宸殿の南にある紫寢門の左側には崇明門があり、右側には光順門がある。紫宸殿の東の方角には左銀台門があり、西の方角には右銀台門がある。この門の北沿いに九仙門がある。唐時代では、右銀台門より学士がことから金馬門といい、翰林學士院に出仕するものの代名詞とされた。銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。唐.李肇の《翰林志》:「今在右銀臺門之北,第一門向牓曰翰林之門,其制高大重複,號為胡門,入門直西為學士院,即開元十六年所置也。」(今右銀臺門の北にり,第一門牓に向う翰林の門を曰う,其れ高大重複を制し,胡門を為すを號し,門に入り直西は學士院を為し,即ち開元十六年(728)に所置されるなり。)唐.李白.相逢行:「朝騎五花馬,謁帝出銀臺。」(朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。)“朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。”
答蘇 蘇が誰であるか、天寶中(742~756)の進士とした蘇源明であればこの時期、科挙試験の地方推薦の秀才であったのでる。
秀才 秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。一時中断されたが714年以降復活し、この詩の段階では、存在している。
君還石門日,朱火始改木。
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
石門 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というものである。石門舊居と 《太平府志》「横望山在當塗 東六十里、春秋楚子重伐呉至於横山、卽此山也。實為金陵/朝對之山。真誥稱、其石形瓌竒、洞穴盤紆、陶隐居、嘗棲遲此地、煉丹。故有陶公讀書堂、石門、古祠、灰/井、丹爐諸遺跡。書堂今為澄心寺。石門、山水尤竒、盤道屈曲、沿道而入、峭壁二里、夾石參天、左擁右/抱、羅列拱揖、髙者抗層霄、下者入衍奥。中有玉泉、嵌空、淵淵而來、春夏霖潦奔馳、秋冬澄流一碧、縈/繞如練。觀詩中所稱、隠居山寺、陶公鍊液、石門流水之諸句、知在石門之旧居其處。」とあるに基づく。
(この詩は、李白が鄴中において、王勸というものに会い、その高鳳幽居の遺跡たる石門山に入ろうとするのを聞いてこの詩を作って送ったもの)
高鳳石門山 石門山 (都畿道 汝州 葉縣) 高鳳石門山幽居は後漢書、高鳳傳にみえる遺跡であり、汝州 葉縣に隠遁するのでこういったのである。
李白が石門を詠ったものは以下に示す。
286巻七53和盧侍御通塘曲 | 石門中斷平湖出。 百丈金潭照云日。 |
320巻八卷八34鄴中贈王大 (一作鄴中王大勸入高鳳石門山幽居 ) | 高鳳石門山幽居遺跡 |
421巻十二11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
421卷12-11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 仆離群遠懷亦有棲遁之志因敘舊以寄之 | 聞君臥石門。 宿昔契彌敦。 |
500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序 | 經永嘉。觀謝公石門。 |
500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序 | 縉云川谷難。 石門最可觀。 |
513卷十五16魯郡堯祠送竇明府薄華還西京 時久病初起作 | 長楊掃地不見日。 石門噴作金沙潭。 |
521卷十六24300魯郡東石門送杜二甫 | 何時石門路。 重有金樽開。 |
726巻二十一4 下途歸石門舊居 (高鳳石門山幽居遺跡) | 下視白日晚。 既過石門隱。 |
605巻十八12金門答蘇秀才 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
610巻十八17答從弟幼成過西園見贈 | 衣劍照松宇。 賓徒光石門。 |
660巻十九34與周剛清溪玉鏡潭宴別 潭在秋浦桃胡陂下高鳳石門山幽居遺跡 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
726巻二十一4 下途歸石門舊居 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
726巻二十一4 下途歸石門舊居 | 懸知樂客遙相待。 石門流水遍桃花。 |
781巻二十二26.尋高鳳石門山中元丹丘 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
朱火始改木 時間経過により変わることを言う。
張華《文選、雑詩》(雑詩三首、玉台新詠二首) 「晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。」(晷度【きど】は天に隨って運り 四時は互いに相承く。東壁は正に昏に中し 固陰の寒節は升る。繁霜、当夕に降り 悲風 中夜に興る。朱火青くして光無く 蘭膏坐ろに自ら凝る。)
張茂先(張華)雜詩三首(1)
晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。
繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。
重衾無暖氣,挾纊如懷冰。伏枕終遙昔,寤言莫予應。
永思慮崇替,慨然獨拊膺。
(2)
逍遙遊春宮,容與緣池阿。白蘋齊素葉,朱草茂丹華。
微風搖芳若,層波動芰荷。榮彩曜中林,流馨入綺羅。
王孫遊不歸,修路邈以遐。誰與翫遺芳,佇立獨咨嗟。
(3)
荏苒日月運,寒暑忽流易。同好逝不存,迢迢遠離析。
房櫳自來風,戶庭無行跡。蒹葭生床下,蛛蝥網四壁。
懷思豈不隆,感物重鬱積。遊雁比翼翔,歸鴻知接翮。
來哉彼君子,無然徒自隔。
晉.張協 文選《雜詩十首之一》「離居幾何時?鑽燧忽改木。」(離居すること幾何の時ぞ?燧を鑽るに忽ち木を改む。)とあるに基づく。
春草如有情,山中尚含綠。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された
愧 涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
勗 励ます.相勖。=努力して学ぶということで互いに励まし合う.勖其向上=向上するように励ます.
遠見故人心,平生以此足。
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
蘇源明,京兆武功人。初名預,字弱夫。天寶中進士,更試集賢院,累遷太子諭德。出為東平太守,召拜國子司業。安祿山陷京師,以病不受偽署。肅宗複兩京,擢考功郎中、知制誥,終秘書少監。
鄭 虔(てい けん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝の学者。詩、書、画に長け、多くの著書をものしたが、貧困にあえいだ。のち、安史の乱において燕に降伏し、官職を受けたため、乱後に左遷された。杜甫と特に親交があった。
鄭州の滎陽の出身。地理や地形、地方の物産、各地の兵の数について詳しかった。高官であった蘇挺と年齢を越えた交わりを結び、その推薦を受けた。天宝元年 742年、協律郎に就任し、80以上の著書を書き上げたが、その著書に国史を私撰した部分があるという上書が出されたことで、10年間地方に流された。長安に戻ってからも、玄宗からその才能を愛され、広文館の博士に任命され、国子司業の蘇源明と交流があった。山水画、書道、詩作に長じ、玄宗にそれを献上し、「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞され、著作郎に移った。
天宝14載(755年)、安史の乱が勃発すると、燕の軍に捕らえられて洛陽に移され、安禄山側の水部郎中に任命された。密かに粛宗の唐側に通じたが、至徳2載(757年)、安慶緒の洛陽逃亡の際に、張通と王維とともに、燕に降伏した罪で宣陽里に閉じこめられた。3人とも画に長じていたため、崔圓によって、壁画を描かせられ、死罪を免れ、台州の司戸参軍事に落とされた。その数年後に死去している。
官職に就いた時でも貧困のままで、紙に不足することもあった。そのため、杜甫の詩に、「才名四十年、坐客寒にして氈(敷物)無し」と詠まれている。杜甫、李白ともに詩酒の友であったと伝えられる。
その画について、王維、畢宏とともに三絶と呼ばれた。晩唐の朱景玄も『唐朝名画録』において、第七位「能品上」に評価している。
木と石の画に長けており、松石図を門下省の壁に描き、杜甫など多くの詩人に詩で称えられた。当代において、その画の名声は高く、樹木の画法に変革を行ったと伝えられる。
大歴2年(767年)、給事中となり、その後、京兆少尹に移り、太子左庶子となった。
その画は、「唐朝名画録」において、第七位「能品上」に評価されている。
秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。隋代に科挙が始められると、科挙の科目になった秀才は科挙中でも重視され、及第者は10名にしか過ぎなかった。
初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精粗によって判定された。貞観年間(627年 - 649年)に、地方から推薦された学生が不合格になった際には、推挙した州県官に罰則が下される規定が新設された。これによって、推薦者・受験者が無くなってしまった。開元年間(714年 - 741年)に一時的に復活したが、及第者が現われず、遂に廃止された。
以後、科挙に応募した者を秀才と称するようになった。
金門答蘇秀才#1
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君還石門日,朱火始改木。
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
春草如有情,山中尚含綠。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。
遠見故人心,平生以此足。
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
(金門 蘇秀才に答う)#1
君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。
春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。
芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。
遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2
巨海納百川,麟閣多才賢。
東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。
#2
巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。
書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。
屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。
恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
我留在金門,君去臥丹壑。
未果三山期,遙欣一丘樂。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
#4
願狎東海鷗,共營西山藥。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
良辰不同賞,永日應閒居。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
#5
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
採薇行笑歌,眷我情何已。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
得心自虛妙,外物空頹靡。
身世如兩忘,從君老煙水。
『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#2
巨海納百川,麟閣多才賢。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
(下し文)
#2
巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。
書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。
屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。
恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
(現代語訳)
#2
東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。
その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。
そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。
かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。
(訳注) #2
金門答蘇秀才#2
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743年天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。
巨海納百川,麟閣多才賢。
東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。
8 麟閣多才賢 麒麟閣の略。別に畫麟閣.雲嫖姚というもとは漢の高祖の時、蒲何が建てて、図書を蔵していたが、のち漢の宜帝は功臣を紀念して表彰するため、霍光等十一人の像を閣上に画かした。宣帝は戎狄が定まって皆、賓服 し、股肱の臣の美を思い、功臣を人に図画させて麒麟閣に絵諸させた。 麒麟閣は未央宮にある。麒麟閣には十一臣が描かれた。 容貌に官爵、姓名を記した。麒麟閣十一臣は以下の通り。・大司馬大将軍博陸侯 姓霍氏、・衛将軍富平侯 張安世、・車騎将軍龍額侯 韓増、・後将軍営平侯 趙充国、・丞相高平侯 魏相、・丞相博陽侯 邴吉、・御史大夫建平侯 杜延年、・ 宗正陽城侯 劉徳、・少府 梁邱賀、・太子太傅 蕭望之、・典属国 蘇武
李白 《塞下曲,六首之三》「駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。」
唐の玄宗皇帝の故事に由来する。 玄宗皇帝は音楽や舞踏の愛好家で、自ら舞楽を教えていた。 その場所に梨が多く植えられていたことから、音楽や舞踏を学ぶ者を「梨園の弟子」といい、転じて、その世界をさすようになった。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。
9 獻書 燕は当時桁外れの力を有していた斉とは国力でも軍事力でも比べ物にならなかった。しかしそれでもなお恨みを晴らしたいと言う昭王の意向に対し、楽毅は他国と連合して斉に当たるべしと説いた“奉上書札;上書。 多指向有地位者陳述意見。獻書若 樂毅 《報燕惠書》”をいう。あるいは、詩文を献上すること。
10 金闕 漢の未央宮(びおうきゅう)にあった金馬門の異称。「禁闕(きんけつ)」に同じ。
11 酌醴 天子から賜る甘酒。
12 奉瓊筵 興慶宮勤政楼の前庭につくられた野外舞台の宴席。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。
13 白雲唱 興慶宮勤政楼に永新の歌声を、西王母の穆王との故事に倣ってたとえたもの。永信は美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。天子觴西王母於瑤池之上,西王母為天子謠曰:『白雲在天,山陵自出,道里悠遠,山川間之,將子無死,尚能復來。』《穆天子傳、卷三》
14 黃竹篇 玄宗が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った《霓裳羽衣曲》を、穆王の《黃竹篇》になぞらえていう。穆王が大寒の時、凍える中詩を三首詠んだところ、それを上手に歌にして寒さをしのいで楽しく過ごせたことから、玄宗の妃賓、念奴のことを例えたのであろう。念奴は、『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。《穆天子傳》卷五「日中大寒,北風雨雪,有凍人,天子作詩三章以哀民曰:「我徂黃竹,○員閟寒,帝收九行。嗟我公侯,百辟冢卿,皇我萬民,旦夕勿忘。」・・・天子曰:「余一人即淫、不皇万民口登,方宿于黄竹。」
『霓裳羽衣舞』は唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。
15 雲漢 河漢 あまのがわ。天河・銀河・経河・銀漢・雲漢・星漢・天津・漢津等はみなその異名である。杜甫『天河』。
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金門答蘇秀才#1
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君還石門日,朱火始改木。
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
春草如有情,山中尚含綠。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。
遠見故人心,平生以此足。
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
(金門 蘇秀才に答う)#1
君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。
春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。
芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。
遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2
巨海納百川,麟閣多才賢。
東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。
#2
巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。
書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。
屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。
恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。
我留在金門,君去臥丹壑。
しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、
未果三山期,遙欣一丘樂。
三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。
#3
鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。
我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。
未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。
玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。
#4
願狎東海鷗,共營西山藥。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
良辰不同賞,永日應閒居。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
#5
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
採薇行笑歌,眷我情何已。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
得心自虛妙,外物空頹靡。
身世如兩忘,從君老煙水。
『金門答蘇秀才』現代語訳と訳註解説
(本文)
#3
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
我留在金門,君去臥丹壑。
未果三山期,遙欣一丘樂。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
(下し文)
#3
鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。
我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。
未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。
玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。
(現代語訳)
#3
鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。
しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、
三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。
そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。
(訳注) #3
金門答蘇秀才#2
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743年天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。
16 銘鼎 《文選‧史岑、出師頌》「澤霑遐荒, 功銘鼎鉉。」とあり、 李善の注に《禮記》を引いて「夫鼎者有銘, 銘者, 論譔其先祖之德美功烈勳勞而酌之祭器,自成其名焉,以祀其先祖者也。」(夫れ鼎者に銘有り,銘者は,譔を論じ其の先祖の德美、功烈、勳勞をして之の祭器を酌し,自ら其の名を成さんや,以て其の先祖者を祀るなり。)とあるに基づく。・鼎:煮食器。肉類を煮るためのもので、鍋形の身に三足を有し、上部には一対の持ち手を有する。蓋を有するものもある。脚は太くがっしりしたもの、獣脚を象ったものなどさまざまである。新石器時代の陶器に祖形がみられ、青銅器としては殷前期から戦国時代まで製作された。煤が付着し、実際に煮炊きに使われたことのわかる個体がある一方で、火にかけた跡がなく、純粋に儀式用のものもある[32]。古代中国の青銅器のなかでもっとも重視されたもので、単なる鍋ではなく、権威の象徴とされた。西周時代には身分に応じて所持できる鼎の数が決められており、同形・同文様で大きさの異なる鼎をセットで揃える「列鼎」が作られた[33]。周王室に伝わった「禹の九鼎」は特に有名であった。「鼎の軽重を問う」という故事もここに由来する。
・方鼎:煮食器。殷前期から西周後期まで製作された。牛、羊等の犠牲獣を神に捧げるための器で、もっぱら宗廟で用いられた。上記のような用途から巨大なものが多い。
17 扁舟 小さな舟。小舟。李白《》「何如鴟夷子、散發棹扁舟。」(何ぞ如かんや 鴟夷子が、發を散じて 扁舟に棹させるに。)かの氾蠡(はんれい)が鴟夷子と名乗って髪をかっさばき引退し、小舟に棹さして気ままに江湖にうかんだ境地こそ何よりだ。18-#4 《古風五十九首之十八》Index-32Ⅳ-7 753年天寶十二年53歳582古風,五十九首之十八天津三月時, <18-#4> Ⅰ李白詩1171 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4403
李伯《自巴東舟行經瞿唐峽,登巫山最高峰,晚還題壁》「辭山不忍聽,揮策還孤舟。」(山を辭して 聽くに忍びず,策を揮って 孤舟に還る。 )
18 渺然 広々として果てしのないさま。遥かに限りないさま。
我留在金門,君去臥丹壑。
しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、
丹壑 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というもの。
未果三山期,遙欣一丘樂。
三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。
19 三山期 東海の神仙三山、蓬莱、瀛州、方丈を言い、其処に往きつく佳き時期の事。
20 遙欣一丘樂 《漢書·敘傳上》「漁釣於一壑,則萬物不奸其志;棲遲於一丘,則天下不易其樂。」(一壑に於いて漁釣すれば,則ち萬物 其の志を奸さず;一丘に於いて棲遲すれば,則ち天下 其の樂を易えず。)とあるに基づく。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。
21 玄珠・象罔 玄珠と呼ばれる価値のある石「玄珠石」ここでは、価値のある生き方の事。玄珠石のような道、ということ。うすぼんやりものの象罔ということ。《莊子·外篇・天地》「黃帝遊乎赤水之北,登乎崑崙之丘而南望,還歸,遺其玄珠,使知索之而不得,使離朱索之而不得,使喫詬索之而不得也。乃使象罔,象罔得之。」(黃帝 赤水の北に遊び,崑崙の丘に登り而して南望す,還た歸り,其の玄珠を遺す,使ち之を索めて得ざるを知り,使ち朱 之をめ離れて得ず,使ち 詬 之を索めて得ざるを喫るなり。乃ち象罔を使す,象罔 之を得たり。)“黄帝が赤水の北方に遊び、崑崙の丘に登って南方を望み見てから帰ってきたが、その玄珠を忘れたことに気がついた。もの知りの知をやって探させたが探しだせず、目のよくきく離朱をやって探させたが探しだせず、弁のたつ喫逅(かいこう)をやって探させたが探しだせなかった。そこで、うすぼんやりものの象罔をやったところ、象罔は玄珠を見つけてきた。”とあるに基づく。
22 赤水 赤水河。長江の右岸の支流、雲南省の北東端、昭通市鎮雄県安家壩の源流から東に向かい、貴州省と四川省を経て、四川省瀘州市合江県で長江に流入する。全長は436.5km、流域面積は20,440平方km。赤水河という名は、夏になると泥で赤茶色に濁ることから付けられている。
23 寥廓 空虚に広いさま。広々として大きいさま。高遠なもの。文選·曹植·贈白馬王彪七首其二詩:「太谷何寥廓,山樹鬱蒼蒼。」
曹植《贈白馬王彪 七首其二》
大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。霖雨泥我途,流潦浩從橫。
中逵絕無軌,改轍登高崗。修阪造雲日,我馬玄以黃。
この大谷関所のあたりは、何んとも空虚なものである。鬱蒼と生いしげる山の樹木が、どこまでもつづいている。
秋の長雨がふりつづく、私の旅の道は泥まみれですすむのがはかどらせない。道のたまり水がずうっとむこうまで地面をおおっている。
暫く行くと辻にきていた、そこには、前に通ったわだちのあとなど全く見当らない。やっと見つけた轍のほうに道をかえて高い山の背に登って行くのである。
長くけわしい山坂は、雲に、太陽にとどかんばかりなのだ。私の馬は黄色になっている。馬も私も疲れはててしまった。
太谷何んぞ寥廓【りょうかく】たる、山樹【さんじゅ】鬱として蒼蒼たり。
霖雨【りんう】我が途を泥【とど】こおらせ、流潦【りゅうりょう】浩として縦横たり。
中逵【ちゅうき】絶えて軌【あと】無く、轍【てつ】を改めて高岡【こうこう】に登る。
修阪【しゅうばん】雲日に造【いた】り、我が馬 玄【げん】以って黄す。
金門答蘇秀才#1
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君還石門日,朱火始改木。
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
春草如有情,山中尚含綠。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。
遠見故人心,平生以此足。
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
(金門 蘇秀才に答う)#1
君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。
春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。
芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。
遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2
巨海納百川,麟閣多才賢。
東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。
#2
巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。
書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。
屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。
恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。
我留在金門,君去臥丹壑。
しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、
未果三山期,遙欣一丘樂。
三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。
#3
鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。
我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。
未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。
玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。
#4
願狎東海鷗,共營西山藥。
吾が願うことは、無心にして東海の鴎を狎らし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。
良辰不同賞,永日應閒居。
であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。
#4
願わくば東海の鷗に狎れ,共に西山の藥を營まむ。
巖に棲みて 君は寂滅【せきめつ】,世に處して 余は龍蠖【りょうわく】。
良辰 同じく賞せず,永日 應に閒居すべし。
鳥は吟ず 簷間の樹,花は落つ 窗下の書。
#5
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
採薇行笑歌,眷我情何已。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
得心自虛妙,外物空頹靡。
身世如兩忘,從君老煙水。
『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#4
願狎東海鷗,共營西山藥。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
良辰不同賞,永日應閒居。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
(下し文)
#4
願わくば東海の鷗に狎れ,共に西山の藥を營まむ。
巖に棲みて 君は寂滅【せきめつ】,世に處して 余は龍蠖【りょうわく】。
良辰 同じく賞せず,永日 應に閒居すべし。
鳥は吟ず 簷間の樹,花は落つ 窗下の書。
(現代語訳)
#4
吾が願うことは、無心にして東海の鴎を狎らし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。
君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。
であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。
試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。
(訳注) #4
金門答蘇秀才#4
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743年天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。
願狎東海鷗,共營西山藥。
吾が願うことは、無心にして東海の鴎を狎らし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。
24 東海鷗 《列子.黃帝篇》:「海上之人有好漚鳥者,每旦之海上,從漚鳥游,漚鳥之至者百住而不止。」(海上の人漚鳥を好む者有り,每旦 海上に之き,漚鳥に從って游ぶ,漚鳥の至る者 百住して止まらず。)“無心にカモメと遊んでいた人が、カモメを捕えてやろうという邪心を持ったとたんに、カモメは素早くそれを見破って、彼に近づかなくなった”というもの。
25 西山藥 仙藥のことを“西山藥”という。魏の文帝、曹丕 《折楊柳行》「西山一何高,高高殊無極,上有兩仙童,不飲亦不食。與我一丸藥,光耀有五色。」(西山一に何ぞ高し,高高して殊に極る無し,上に兩仙童有り,飲まず亦た食わず。我に一丸藥を與う,光耀 五色有り。)ということに基づく。
曹丕 《折楊柳行》
西山一何高,高高殊無極,
上有兩仙童,不飲亦不食。
與我一丸藥,光耀有五色。
服藥四五日,身體生羽翼。
輕舉乘浮雲,倏忽行萬億。
流覽觀四海,茫茫非所識。
彭祖稱七百,悠悠安可原?
老聃適西戎,於今竟不還。
王喬假虛辭,赤松垂空言。
達人識真偽,愚夫好妄傳。
追念往古事,憒憒千萬端。
百家多迂怪。聖道我所觀。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。
26 寂滅 1. 煩悩 (ぼんのう) の境地を離れ、悟りの境地に入ること。涅槃。2 消滅すること。死ぬこと。
27 蠖 尺蠖、しゃくとりむし。
良辰不同賞,永日應閒居。
であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。
28 良辰 よい日。吉日。吉辰。 良晨
29 閒居 人目に立たず一人でいること。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。
金門答蘇秀才#1
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)
君還石門日,朱火始改木。
君が以前に隠遁していた石門に還える日、火を取る燧の木を改めるくらいの時間であった。
春草如有情,山中尚含綠。
つまり、時候が換ったが、春草は依然として、情あるが如く、山中においては、なお緑の色を含み、ここだけは、永久に時節が換わらないようである。
折芳愧遙憶,永路當日勗。
そした中、君はわざわざ花を折って、はるかにたがいに憶い合わねば愧じという意を致され、人生の長路を行くには、常日頃、随分勉めて仕事をしなければならないといって、懇懇と我を諭された。
遠見故人心,平生以此足。
それにつけても、二人離れていれば、故人の誠意を見るだけであり、平生これを以て自ら足れりとしているのである。
(金門 蘇秀才に答う)#1
君 石門に還えるの日,朱火 始めて木を改む。
春草 有情あるが如し,山中 尚お綠を含む。
芳を折って遙憶を愧じ,永路 當に日びに勗むべし。
遠く故人の心を見る,平生 此れを以て足る。
#2
巨海納百川,麟閣多才賢。
東海の巨海が全土の百川を納るると同じく、麟閣に於ては、ひろく才賢を集めて、まことに、濟濟たる多士である。
獻書入金闕,酌醴奉瓊筵。
その時、君は、上書せんとして金闕に入り、やがて、天子が羣臣を瓊筵で宴せられる其席に列って、甘ざけを頂戴されたのである。
屢忝白雲唱,恭聞黃竹篇。
そして、妃嬪たちは、西王母が穆王のために詠ったように白雲の歌を唱へ、又天子が作られた《霓裳羽衣曲》は穆王が黄竹の篇を歌われる多様に素晴らしい歌を拝聴した。
恩光照拙薄,雲漢希騰遷。
かくて、目出たく試験に及第して進士と成り、この才拙く命薄き身にも恩光を被り、はては、青雲の上に登って、天河の邊にも行きたいと思うところである。
#2
巨海 百川を納【い】れ,麟閣 才賢多し。
書を獻じて金闕に入れ,醴を酌んで 瓊筵に奉ず。
屢しば 白雲の唱を忝うし,恭【うやうや】しく 黃竹篇を聞く。
恩光 拙薄を照らし,雲漢 騰遷を希【こいねが】う。
#3
銘鼎倘云遂,扁舟方渺然。
鼎に銘じて、神に捧げ、祖先の美を称揚して、これを後世に伝えてゆくのは、その極であり、功なって身退く時は、扁舟を浮べ、渺然として、この世を去りたいと常に心に念じていたのである。
我留在金門,君去臥丹壑。
しかし、事、志と違い、そうは行かぬところから、吾は猶は金馬門に待詔として留まって居るに拘はらず、君は長安を去って、丹壑の幽境に高臥し、
未果三山期,遙欣一丘樂。
三山に藥を採るという佳き時期は、いまだに果してはいないけれども、一丘の楽については、ひとりで占断してよろこんでいたのである。
玄珠寄象罔,赤水非寥廓。
そこで“うすぼんやりものの象罔”が赤水のほとりに於て玄珠を拾ひ上げたと同じく、ことほとさようにこれが高遠なものではないということ、この人の世に於でも、見事に宇宙の大道を体得することができたのである。
#3
鼎に銘して 倘し遂げたりと云わば,扁舟 方に渺然たり。
我 留りて 金門に在り,君 去りて 丹壑に臥す。
未だ三山の期を果さず,遙に 一丘の樂みを欣ぶ。
玄珠 象罔に寄せ,赤水 寥廓に非らず。
#4
願狎東海鷗,共營西山藥。
吾が願うことは、無心にして東海の鴎を狎らし、君と共に西山の薬を採ろうと思うものである。
棲巖君寂滅,處世余龍蠖。
君が巌谷に棲んで寂滅の域に達しでいるにも拘わらず、吾は猶お塵世に在って、或は龍の如く伸び、或は尺蠖の如く屈して、一進一退、兎角、思い通らに成らない。
良辰不同賞,永日應閒居。
であれば、折角の吉日に遇うも、同じく賞することを得ず、永日を消すためには、物外に於て閒居するのが第一である。
鳥吟簷間樹,花落窗下書。
試みに君の幽棲の有様を想像すると、鳥は簷間に翳せる樹の上に歌い、花は窓下に廣げたる古書の上に落ちるのである。
#4
願わくば東海の鷗に狎れ,共に西山の藥を營まむ。
巖に棲みて 君は寂滅【せきめつ】,世に處して 余は龍蠖【りょうわく】。
良辰 同じく賞せず,永日 應に閒居すべし。
鳥は吟ず 簷間の樹,花は落つ 窗下の書。
#5
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
採薇行笑歌,眷我情何已。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
得心自虛妙,外物空頹靡。
身世如兩忘,從君老煙水。
渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。
かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。
それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。
心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。
かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。
#5
溪に緣って綠篠を見,岫を隔てて紅蕖を窺う。
薇を採って行くゆく笑歌し,我を眷し、情 何ぞ已まん。
月は出づ 石鏡の間,松は鳴る 風琴の裡。
心を得て 自ら虛妙,外物 空しく頹靡。
身世 兩つながら忘るるが如し,君に從って煙水に老いむ。
『金門答蘇秀才』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#5
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
採薇行笑歌,眷我情何已。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
得心自虛妙,外物空頹靡。
身世如兩忘,從君老煙水。
(下し文)
#5
溪に緣って綠篠を見,岫を隔てて紅蕖を窺う。
薇を採って行くゆく笑歌し,我を眷し、情 何ぞ已まん。
月は出づ 石鏡の間,松は鳴る 風琴の裡。
心を得て 自ら虛妙,外物 空しく頹靡。
身世 兩つながら忘るるが如し,君に從って煙水に老いむ。
(現代語訳)
#5
渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。
かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。
それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。
心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。
かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。
(訳注) #5
金門答蘇秀才#5
(この詩は、李白が翰林に供奉し、宮禁に出入して居た頃、蘇秀才が詩を寄せたのに答へて作ったのである。)743年天寶二年43歳に 94首あり、この詩はその年の74首目になる。
緣溪見綠篠,隔岫窺紅蕖。
渓流に沿うて行けば、緑の色濃き小笹が茂り合い、高い谷間を隔てて、水の潭をなす庭には、紅の蓮の花の吹き出でたのがうかがわれる。
30 緣溪 渓流に沿うて行くこと。
31 綠篠 緑の色濃き小笹が茂り合い。 謝霊運《過始寧墅》「白雲抱幽石、緑篠媚清漣。」(白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。)白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
32 隔岫 岫は穴のあるやま。 《1921_甘林》「晨光映遠岫,夕露見日晞。」(晨光 遠岫に映ず,夕露 日を見て晞【かわ】く。)朝日の光が遠方の山にうつろうと、昨夕からかけての露は太陽がでるとまもなく乾いてしまう。
33 紅蕖 紅色の蓮の花。
採薇行笑歌,眷我情何已。
かくて、一人野に出て薇を采りつつ、「笑矣乎。」と行歌して、吾を思う情は決して己む時はない。
34 採薇 蕨をとる。詩經、國風 「陟彼南山、言采其薇。 未見君子、我心傷悲。」(彼の南山に陟り、言に其の薇を采る。未だ君子を見ず、我が心傷悲す。)あの南の山に登り、蕨を摘んでいます、でもわたしはまだ夫と会うことができずに、心は傷んで憂いに閉ざされています
35 笑歌 笑い歌いまた悲しみ哭することで强烈的感情をいう。《周礼·春官·女巫》「凡邦之大災, 歌哭而請。」とある。李白《卷六27笑歌行二首》「笑矣乎。」(笑わんかな)がある。
月出石鏡間,松鳴風琴裡。
それから、月は石鏡山の谷間より出で、松聲は風琴の峡中に鳴りひびきわたる。
36 石鏡 ①高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。慧遠は中国化された仏教の開創者であり、仏教の中国化と、中国の仏教化という潮流を作りだした。
謝霊運《入彭蠡湖口》「攀崖照石鏡,牽葉入松門。」(崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。)崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。太平天国の乱で破壊される前、廬山は中国第一の仏教の聖地であり、全盛期には全山に寺廟は三百以上を数えた。
②石鏡 太平寰宇記「石鏡在東山懸崖之上、其狀團圓、近之、則照見形影」(石鏡は東山懸崖の上に在り、其の狀團圓、之に近づけば、則ち形影を照し見る)一統志「石鏡峰、在南康府西二十六里、有一員石、懸崖明淨照」(石鏡峰は、南康府西二十六里に在り、一員石有り、懸崖明らか淨く照す。)
李白《卷13-01 廬山謠寄盧侍御虛舟》
我本楚狂人、狂歌笑孔丘。手持綠玉杖、朝別黃鶴樓。
五嶽尋仙不辭遠、一生好入名山遊。
廬山秀出南斗傍、屏風九疊雲錦張、影落明湖青黛光。
金闕前開二峰長、銀河倒掛三石梁 。
香爐瀑布遙相望、迴崖沓嶂凌蒼蒼。
翠影紅霞映朝日、鳥飛不到吳天長。
登高壯觀天地間、大江茫茫去不還 。
黃雲萬里動風色、白波九道流雪山 。
好為廬山謠、興因廬山發 。
閑窺石鏡清我心、謝公行處蒼苔沒 。
早服還丹無世情、琴心三疊道初成。
遙見仙人彩雲裡、手把芙蓉朝玉京。
先期汗漫九垓上、願接盧敖遊太清。
(廬山の廬侍御虚舟に謡い寄す)
我は本と楚の狂人、鳳歌して孔丘を笑う。手に緑の玉杖を持ち、朝に別る黄鶴楼。
五嶽に仙を尋ぬるに遠きを辞さず、一生 名山に入りて遊ぶを好む
廬山は秀で出ず 南斗の傍ら、屛風九畳 雲錦張る、影は明湖に落ちて青黛光る。
金闕 前に開いて 二峰長し、銀河は倒に挂かる 三石梁。
香炉の瀑布 遥かに相望む、 迥崖沓嶂 凌として蒼蒼たり。
翠影紅霞 朝日に映じ、鳥は飛びて到らず 呉天の長きを。
高きに登りて壮観す 天地の間、大江は茫茫として去りて還らず。
黄雲 万里 風色を動かし、白波 九道 雪山に流る。
好みて廬山の謡を為し、興じて廬山に因りて発す。
閑に石鏡を窺えば我が心清らかなり、謝公の行処は蒼苔に没す。
早に還丹を服して世情無く、琴心 三畳 道初めて成る。
遥かに仙人を見る綵雲の裏、手に芙蓉を把って玉京に朝す。
先は期さん 汗漫と九垓の上に、 願わくは廬敖に接して太清に遊ばん。
③ 成都の北角に武担という塚があるが、その塚の上に鏡の幅は1メートル、高さは120cm程の石である、すきとおることは鏡のごとくであるという。蜀の古王開明の妃の塚だと伝える。蜀王が好色であることから様々な物語が伝えられている。杜甫は昨年760年の夏にも『石犀行』、『石筍行』、『杜鵑行』という蜀の故事をもとに詩を作っている。この詩はその続編というところである。成都の街に出てこの場所に来て作った。《巻14-36・3春日江村,五首之三》「經心石鏡月,到面雪山風。」(心に經る 石鏡の月,面に到る 雪山の風。)成都の北角に武担にある石鏡の要におおきな満月を眺めた日も過ぎた詩、雪嶺山脈から吹き下ろす冷たい風に顔面が切れそうであったこともある。
杜甫《巻14-36・3春日江村,五首之三》
種竹交加翠,栽桃爛熳紅。
經心石鏡月,到面雪山風。
赤管隨王命,銀章付老翁。
豈知牙齒落,名玷薦賢中。
765年永泰元年54歲-17 《春日江村,五首之三》 杜甫index-15 杜甫<817> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4820 杜甫詩1500-817-1135/2500
杜甫《巻10-12石鏡》
蜀王將此鏡,送死置空山。
冥寞憐香骨,提攜近玉顏。
眾妃無複歡,千騎亦虛還。
獨有傷心石,埋輪月宇間。
石鏡 杜甫 <431> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2100 杜甫詩1000-431-614/1500
贈王二十四侍御契四十韻#8~#10
#8
石鏡通幽魄,琴台隱絳唇。
送終惟糞土,結愛獨荊榛。
置酒高林下,觀棋積水濱。
區區甘累趼,稍稍息勞筋。』
得心自虛妙,外物空頹靡。
心は自然に虚妙の霊域に至り、外物は、すべて頽壊靡散して、少しも累を人に及ぼすことはない。
37 虛妙 虚:物理的実体のない純粋に情報的な存在であり、1.中身がない。からっぽ。からにする。2.実が伴わない。妙:① 不思議なほどにすぐれているさま。霊妙なさま。② 上手であるさま。巧みであるさま。
38 頹靡 頹壊靡散すること。
身世如兩忘,從君老煙水。
かくの如くして、この身も、この世も、両つながら忘れ、唯だ心霊のみが依存して、宇宙と契合する様に、吾も修業が積んだならば、その折こそ、君に従って、煙水の間に老いて、いつまでも其處に住んで居たいと思うのである。
39 老煙水 煙水の間に老いるという意。煙ははかなく消えゆき、水も東海に流れ去る。光陰矢の如し。劉長卿《尋盛禪師蘭若》「秋草黄花覆古阡,隔林何處起人煙。山僧獨在山中老,唯有寒松見少年。」(盛禪師の蘭若を 尋ぬ。秋草黄花古阡を覆ひ,林を隔何處にか人煙起こる。山僧獨り山中に 老いる在りて,唯寒松の少年を見る有り。)
《金門答蘇秀才》 【字解】
1 金門 漢代の未央宮にあった門で、金門・金閨門の名であり、文学の士(学問をもって天子に仕える人)がここから出仕した。本来この門は、「魯般門」という名であるが、門の外に銅製の馬があることからこうよばれた。揚雄 解嘲 「與羣賢同行,歷金門,上玉堂」(羣賢と同行し,金門を歷,玉堂に上る)とある。唐における金門は、右銀臺門をいい、宣政殿の北には紫宸門があり、その内側には紫宸殿がある。紫宸殿の南にある紫寢門の左側には崇明門があり、右側には光順門がある。紫宸殿の東の方角には左銀台門があり、西の方角には右銀台門がある。この門の北沿いに九仙門がある。唐時代では、右銀台門より学士がことから金馬門といい、翰林學士院に出仕するものの代名詞とされた。銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。唐.李肇の《翰林志》:「今在右銀臺門之北,第一門向牓曰翰林之門,其制高大重複,號為胡門,入門直西為學士院,即開元十六年所置也。」(今右銀臺門の北にり,第一門牓に向う翰林の門を曰う,其れ高大重複を制し,胡門を為すを號し,門に入り直西は學士院を為し,即ち開元十六年(728)に所置されるなり。)唐.李白.相逢行:「朝騎五花馬,謁帝出銀臺。」(朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。)“朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。”
2 答蘇 蘇が誰であるか、天寶中(742~756)の進士とした蘇源明であればこの時期、科挙試験の地方推薦の秀才であったのでる。
3 秀才 秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。一時中断されたが714年以降復活し、この詩の段階では、存在している。
4 石門 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というものである。石門舊居と 《太平府志》「横望山在當塗 東六十里、春秋楚子重伐呉至於横山、卽此山也。實為金陵/朝對之山。真誥稱、其石形瓌竒、洞穴盤紆、陶隐居、嘗棲遲此地、煉丹。故有陶公讀書堂、石門、古祠、灰/井、丹爐諸遺跡。書堂今為澄心寺。石門、山水尤竒、盤道屈曲、沿道而入、峭壁二里、夾石參天、左擁右/抱、羅列拱揖、髙者抗層霄、下者入衍奥。中有玉泉、嵌空、淵淵而來、春夏霖潦奔馳、秋冬澄流一碧、縈/繞如練。觀詩中所稱、隠居山寺、陶公鍊液、石門流水之諸句、知在石門之旧居其處。」とあるに基づく。
(この詩は、李白が鄴中において、王勸というものに会い、その高鳳幽居の遺跡たる石門山に入ろうとするのを聞いてこの詩を作って送ったもの)
高鳳石門山 石門山 (都畿道 汝州 葉縣) 高鳳石門山幽居は後漢書、高鳳傳にみえる遺跡であり、汝州葉縣に隠遁するのでこういったのである。
李白が石門を詠ったものは以下に示す。
286巻七53和盧侍御通塘曲 | 石門中斷平湖出。 百丈金潭照云日。 |
320巻八卷八34鄴中贈王大 (一作鄴中王大勸入高鳳石門山幽居 ) | 高鳳石門山幽居遺跡 |
421巻十二11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
421卷12-11聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡 仆離群遠懷亦有棲遁之志因敘舊以寄之 | 聞君臥石門。 宿昔契彌敦。 |
500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序 | 經永嘉。觀謝公石門。 |
500卷十五3送王屋山人魏萬還王屋 并序 | 縉云川谷難。 石門最可觀。 |
513卷十五16魯郡堯祠送竇明府薄華還西京 時久病初起作 | 長楊掃地不見日。 石門噴作金沙潭。 |
521卷十六24300魯郡東石門送杜二甫 | 何時石門路。 重有金樽開。 |
726巻二十一4 下途歸石門舊居 (高鳳石門山幽居遺跡) | 下視白日晚。 既過石門隱。 |
605巻十八12金門答蘇秀才 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
610巻十八17答從弟幼成過西園見贈 | 衣劍照松宇。 賓徒光石門。 |
660巻十九34與周剛清溪玉鏡潭宴別 潭在秋浦桃胡陂下高鳳石門山幽居遺跡 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
726巻二十一4 下途歸石門舊居 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
726巻二十一4 下途歸石門舊居 | 懸知樂客遙相待。 石門流水遍桃花。 |
781巻二十二26.尋高鳳石門山中元丹丘 | 高鳳石門山幽居遺跡 |
5 朱火始改木 時間経過により変わることを言う。
張華《文選、雑詩》(雑詩三首、玉台新詠二首) 「晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。」(晷度【きど】は天に隨って運り 四時は互いに相承く。東壁は正に昏に中し 固陰の寒節は升る。繁霜、当夕に降り 悲風 中夜に興る。朱火青くして光無く 蘭膏坐ろに自ら凝る。)
張茂先(張華)雜詩三首(1)
晷度隨天運,四時互相承。東壁正昏中,涸陰寒節升。
繁霜降當夕,悲風中夜興。朱火青無光,蘭膏坐自凝。
重衾無暖氣,挾纊如懷冰。伏枕終遙昔,寤言莫予應。
永思慮崇替,慨然獨拊膺。
(2)
逍遙遊春宮,容與緣池阿。白蘋齊素葉,朱草茂丹華。
微風搖芳若,層波動芰荷。榮彩曜中林,流馨入綺羅。
王孫遊不歸,修路邈以遐。誰與翫遺芳,佇立獨咨嗟。
(3)
荏苒日月運,寒暑忽流易。同好逝不存,迢迢遠離析。
房櫳自來風,戶庭無行跡。蒹葭生床下,蛛蝥網四壁。
懷思豈不隆,感物重鬱積。遊雁比翼翔,歸鴻知接翮。
來哉彼君子,無然徒自隔。
晉.張協 文選《雜詩十首之一》「離居幾何時?鑽燧忽改木。」(離居すること幾何の時ぞ?燧を鑽るに忽ち木を改む。)とあるに基づく。
6 愧 涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
7 勗 励ます.相勖。=努力して学ぶということで互いに励まし合う.勖其向上=向上するように励ます.
8 麟閣多才賢 麒麟閣の略。別に畫麟閣.雲嫖姚というもとは漢の高祖の時、蒲何が建てて、図書を蔵していたが、のち漢の宜帝は功臣を紀念して表彰するため、霍光等十一人の像を閣上に画かした。宣帝は戎狄が定まって皆、賓服 し、股肱の臣の美を思い、功臣を人に図画させて麒麟閣に絵諸させた。麒麟閣は未央宮にある。麒麟閣には十一臣が描かれた。 容貌に官爵、姓名を記した。麒麟閣十一臣は以下の通り。・大司馬大将軍博陸侯 姓霍氏、・衛将軍富平侯 張安世、・車騎将軍龍額侯 韓増、・後将軍営平侯 趙充国、・丞相高平侯 魏相、・丞相博陽侯 邴吉、・御史大夫建平侯 杜延年、・ 宗正陽城侯 劉徳、・少府 梁邱賀、・太子太傅 蕭望之、・典属国 蘇武
李白 《塞下曲,六首之三》「駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。」
唐の玄宗皇帝の故事に由来する。 玄宗皇帝は音楽や舞踏の愛好家で、自ら舞楽を教えていた。 その場所に梨が多く植えられていたことから、音楽や舞踏を学ぶ者を「梨園の弟子」といい、転じて、その世界をさすようになった。
9 獻書 燕は当時桁外れの力を有していた斉とは国力でも軍事力でも比べ物にならなかった。しかしそれでもなお恨みを晴らしたいと言う昭王の意向に対し、楽毅は他国と連合して斉に当たるべしと説いた“奉上書札;上書。 多指向有地位者陳述意見。獻書若 樂毅 《報燕惠書》”をいう。あるいは、詩文を献上すること。
10 金闕 漢の未央宮(びおうきゅう)にあった金馬門の異称。「禁闕(きんけつ)」に同じ。
11 酌醴 天子から賜る甘酒。
12 奉瓊筵 興慶宮勤政楼の前庭につくられた野外舞台の宴席。
13 白雲唱 興慶宮勤政楼に永新の歌声を、西王母の穆王との故事に倣ってたとえたもの。永信は美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。天子觴西王母於瑤池之上,西王母為天子謠曰:『白雲在天,山陵自出,道里悠遠,山川間之,將子無死,尚能復來。』《穆天子傳、卷三》
14 黃竹篇 玄宗が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った《霓裳羽衣曲》を、穆王の《黃竹篇》になぞらえていう。穆王が大寒の時、凍える中詩を三首詠んだところ、それを上手に歌にして寒さをしのいで楽しく過ごせたことから、玄宗の妃賓、念奴のことを例えたのであろう。念奴は、『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。《穆天子傳》卷五「日中大寒,北風雨雪,有凍人,天子作詩三章以哀民曰:「我徂黃竹,○員閟寒,帝收九行。嗟我公侯,百辟冢卿,皇我萬民,旦夕勿忘。」・・・天子曰:「余一人即淫、不皇万民口登,方宿于黄竹。」
『霓裳羽衣舞』は唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。
15 雲漢 河漢 あまのがわ。天河・銀河・経河・銀漢・雲漢・星漢・天津・漢津等はみなその異名である。杜甫『天河』。
天河 杜甫 <292> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1343 杜甫詩 700- 412
秦州抒情詩(8) 初月 杜甫 <293> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1346 杜甫詩 - 413
16 銘鼎 《文選‧史岑、出師頌》「澤霑遐荒, 功銘鼎鉉。」とあり、 李善の注に《禮記》を引いて「夫鼎者有銘, 銘者, 論譔其先祖之德美功烈勳勞而酌之祭器,自成其名焉,以祀其先祖者也。」(夫れ鼎者に銘有り, 銘者は,譔を論じ其の先祖の德美、功烈、勳勞をして之の祭器を酌し, 自ら其の名を成さんや,以て其の先祖者を祀るなり。)とあるに基づく。・鼎:煮食器。肉類を煮るためのもので、鍋形の身に三足を有し、上部には一対の持ち手を有する。蓋を有するものもある。脚は太くがっしりしたもの、獣脚を象ったものなどさまざまである。新石器時代の陶器に祖形がみられ、青銅器としては殷前期から戦国時代まで製作された。煤が付着し、実際に煮炊きに使われたことのわかる個体がある一方で、火にかけた跡がなく、純粋に儀式用のものもある[32]。古代中国の青銅器のなかでもっとも重視されたもので、単なる鍋ではなく、権威の象徴とされた。西周時代には身分に応じて所持できる鼎の数が決められており、同形・同文様で大きさの異なる鼎をセットで揃える「列鼎」が作られた[33]。周王室に伝わった「禹の九鼎」は特に有名であった。「鼎の軽重を問う」という故事もここに由来する。
・方鼎:煮食器。殷前期から西周後期まで製作された。牛、羊等の犠牲獣を神に捧げるための器で、もっぱら宗廟で用いられた。上記のような用途から巨大なものが多い。
17 扁舟 小さな舟。小舟。李白《》「何如鴟夷子、散發棹扁舟。」(何ぞ如かんや 鴟夷子が、發を散じて 扁舟に棹させるに。)かの氾蠡(はんれい)が鴟夷子と名乗って髪をかっさばき引退し、小舟に棹さして気ままに江湖にうかんだ境地こそ何よりだ。18-#4 《古風五十九首之十八》Index-32Ⅳ-7 753年天寶十二年53歳582古風,五十九首之十八天津三月時, <18-#4> Ⅰ李白詩1171 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4403
李伯《自巴東舟行經瞿唐峽,登巫山最高峰,晚還題壁》「辭山不忍聽,揮策還孤舟。」(山を辭して 聽くに忍びず,策を揮って 孤舟に還る。 )
18 渺然 広々として果てしのないさま。遥かに限りないさま。
丹壑 石門の舊居ということで、隠遁するであろう所縁のある所を邈然というもの。
19 三山期 東海の神仙三山、蓬莱、瀛州、方丈を言い、其処に往きつく佳き時期の事。
20 遙欣一丘樂 《漢書·敘傳上》「漁釣於一壑,則萬物不奸其志;棲遲於一丘,則天下不易其樂。」(一壑に於いて漁釣すれば,則ち萬物 其の志を奸さず;一丘に於いて棲遲すれば,則ち天下 其の樂を易えず。)とあるに基づく。
21 玄珠・象罔 玄珠と呼ばれる価値のある石「玄珠石」ここでは、価値のある生き方の事。玄珠石のような道、ということ。うすぼんやりものの象罔ということ。《莊子·外篇・天地》「黃帝遊乎赤水之北,登乎崑崙之丘而南望,還歸,遺其玄珠,使知索之而不得,使離朱索之而不得,使喫詬索之而不得也。乃使象罔,象罔得之。」(黃帝 赤水の北に遊び,崑崙の丘に登り而して南望す,還た歸り,其の玄珠を遺す,使ち之を索めて得ざるを知り,使ち朱 之をめ離れて得ず,使ち 詬 之を索めて得ざるを喫るなり。乃ち象罔を使す,象罔 之を得たり。)“黄帝が赤水の北方に遊び、崑崙の丘に登って南方を望み見てから帰ってきたが、その玄珠を忘れたことに気がついた。もの知りの知をやって探させたが探しだせず、目のよくきく離朱をやって探させたが探しだせず、弁のたつ喫逅(かいこう)をやって探させたが探しだせなかった。そこで、うすぼんやりものの象罔をやったところ、象罔は玄珠を見つけてきた。”とあるに基づく。
22 赤水 赤水河。長江の右岸の支流、雲南省の北東端、昭通市鎮雄県安家壩の源流から東に向かい、貴州省と四川省を経て、四川省瀘州市合江県で長江に流入する。全長は436.5km、流域面積は20,440平方km。赤水河という名は、夏になると泥で赤茶色に濁ることから付けられている。
23 寥廓 空虚に広いさま。広々として大きいさま。高遠なもの。文選·曹植·贈白馬王彪七首其二詩:「太谷何寥廓,山樹鬱蒼蒼。」
曹植《贈白馬王彪 七首其二》
大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。霖雨泥我途,流潦浩從橫。
中逵絕無軌,改轍登高崗。修阪造雲日,我馬玄以黃。
この大谷関所のあたりは、何んとも空虚なものである。鬱蒼と生いしげる山の樹木が、どこまでもつづいている。
秋の長雨がふりつづく、私の旅の道は泥まみれですすむのがはかどらせない。道のたまり水がずうっとむこうまで地面をおおっている。
暫く行くと辻にきていた、そこには、前に通ったわだちのあとなど全く見当らない。やっと見つけた轍のほうに道をかえて高い山の背に登って行くのである。
長くけわしい山坂は、雲に、太陽にとどかんばかりなのだ。私の馬は黄色になっている。馬も私も疲れはててしまった。
太谷何んぞ寥廓【りょうかく】たる、山樹【さんじゅ】鬱として蒼蒼たり。
霖雨【りんう】我が途を泥【とど】こおらせ、流潦【りゅうりょう】浩として縦横たり。
中逵【ちゅうき】絶えて軌【あと】無く、轍【てつ】を改めて高岡【こうこう】に登る。
修阪【しゅうばん】雲日に造【いた】り、我が馬 玄【げん】以って黄す。
24 東海鷗 《列子.黃帝篇》:「海上之人有好漚鳥者,每旦之海上,從漚鳥游,漚鳥之至者百住而不止。」(海上の人漚鳥を好む者有り,每旦 海上に之き,漚鳥に從って游ぶ,漚鳥の至る者 百住して止まらず。)“無心にカモメと遊んでいた人が、カモメを捕えてやろうという邪心を持ったとたんに、カモメは素早くそれを見破って、彼に近づかなくなった”というもの。
25 西山藥 仙藥のことを“西山藥”という。魏の文帝、曹丕 《折楊柳行》「西山一何高,高高殊無極,上有兩仙童,不飲亦不食。與我一丸藥,光耀有五色。」(西山一に何ぞ高し,高高して殊に極る無し,上に兩仙童有り,飲まず亦た食わず。我に一丸藥を與う,光耀 五色有り。)ということに基づく。
曹丕 《折楊柳行》
西山一何高,高高殊無極,
上有兩仙童,不飲亦不食。
與我一丸藥,光耀有五色。
服藥四五日,身體生羽翼。
輕舉乘浮雲,倏忽行萬億。
流覽觀四海,茫茫非所識。
彭祖稱七百,悠悠安可原?
老聃適西戎,於今竟不還。
王喬假虛辭,赤松垂空言。
達人識真偽,愚夫好妄傳。
追念往古事,憒憒千萬端。
百家多迂怪。聖道我所觀。
26 寂滅 1. 煩悩 (ぼんのう) の境地を離れ、悟りの境地に入ること。涅槃。2 消滅すること。死ぬこと。
27 蠖 尺蠖、しゃくとりむし。
28 良辰 よい日。吉日。吉辰。 良晨
29 閒居 人目に立たず一人でいること。
------ 参考 ------
蘇源明,京兆武功人。初名預,字弱夫。天寶中進士,更試集賢院,累遷太子諭德。出為東平太守,召拜國子司業。安祿山陷京師,以病不受偽署。肅宗複兩京,擢考功郎中、知制誥,終秘書少監。
鄭 虔(てい けん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝の学者。詩、書、画に長け、多くの著書をものしたが、貧困にあえいだ。のち、安史の乱において燕に降伏し、官職を受けたため、乱後に左遷された。杜甫と特に親交があった。
鄭州の滎陽の出身。地理や地形、地方の物産、各地の兵の数について詳しかった。高官であった蘇挺と年齢を越えた交わりを結び、その推薦を受けた。天宝元年 742年、協律郎に就任し、80以上の著書を書き上げたが、その著書に国史を私撰した部分があるという上書が出されたことで、10年間地方に流された。長安に戻ってからも、玄宗からその才能を愛され、広文館の博士に任命され、国子司業の蘇源明と交流があった。山水画、書道、詩作に長じ、玄宗にそれを献上し、「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞され、著作郎に移った。
天宝14載(755年)、安史の乱が勃発すると、燕の軍に捕らえられて洛陽に移され、安禄山側の水部郎中に任命された。密かに粛宗の唐側に通じたが、至徳2載(757年)、安慶緒の洛陽逃亡の際に、張通と王維とともに、燕に降伏した罪で宣陽里に閉じこめられた。3人とも画に長じていたため、崔圓によって、壁画を描かせられ、死罪を免れ、台州の司戸参軍事に落とされた。その数年後に死去している。
官職に就いた時でも貧困のままで、紙に不足することもあった。そのため、杜甫の詩に、「才名四十年、坐客寒にして氈(敷物)無し」と詠まれている。杜甫、李白ともに詩酒の友であったと伝えられる。
その画について、王維、畢宏とともに三絶と呼ばれた。晩唐の朱景玄も『唐朝名画録』において、第七位「能品上」に評価している。
木と石の画に長けており、松石図を門下省の壁に描き、杜甫など多くの詩人に詩で称えられた。当代において、その画の名声は高く、樹木の画法に変革を行ったと伝えられる。
大歴2年(767年)、給事中となり、その後、京兆少尹に移り、太子左庶子となった。
その画は、「唐朝名画録」において、第七位「能品上」に評価されている。
秀才(しゅうさい)は、中国の科挙(官吏登用試験)の科目の一つである。郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。隋代に科挙が始められると、科挙の科目になった秀才は科挙中でも重視され、及第者は10名にしか過ぎなかった。
初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精粗によって判定された。貞観年間(627年 - 649年)に、地方から推薦された学生が不合格になった際には、推挙した州県官に罰則が下される規定が新設された。これによって、推薦者・受験者が無くなってしまった。開元年間(714年 - 741年)に一時的に復活したが、及第者が現われず、遂に廃止された。
以後、科挙に応募した者を秀才と称するようになった。
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