重憶 李白 賀知章の思い出(3)


重憶  
欲向江東去、定將誰擧杯。

わたしは江東の方へ行きたいと思っているが、いったい誰と杯をあげたらいいのだろう。
稽山無賀老、却棹酒船回。
会稽山には賀知章老はいない。それではいっそ、酒の船に棹さしてかえろう。

わたしは江東の方へ行きたいと思っているが、いったい誰と杯をあげたらいいのだろう。会稽山には賀知章老はいない。それではいっそ、酒の船に棹さしてかえろう。



重ねて憶う
江東に向って去らんと欲す、定めて誰と杯を挙げん。
稽山に 賀老無く、却って酒船に棹さして回る。



欲向江東去、定將誰擧杯。
わたしは江東の方へ行きたいと思っているが、いったい誰と杯をあげたらいいのだろう。
江東 長江の東。江蘇・浙江省方面。○ 与と同じ。



稽山無賀老、却棹酒船回。
会稽山には賀知章老はいない。それではいっそ、酒の船に棹さしてかえろう。
稽山 会稽山の略、すなわち賀知章の故郷。


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これからは短いものを取り上げても一首一日としていく、複数の詩を掲載すると検索しにくかったり、詩が埋没してしまうかもしれないので、どんなになながい詩でも分割して、細切れにして掲載するのは、作者に失礼と思うので分割掲載はしない。その考えで、複数掲載も行けないのではと考えたのである。そこで、関連した、物語をけいさいすることにした。



◎李白を朝廷に導いたのは

 李白と玉真公主との関係をひらいたのは、恐らく司馬承禎である。承禎は、字を子微といった。開元10年代の後半ぐらいであろうが、道教を以て玄宗に召されたひとである。その時、王屋山(山西省陽城県)にいたが、玄宗の妹、玉真公は玄宗の命によってここへ王屋山に使したことがある。この承禎(貞一先生)と李白とが江陵(荊州)で会ったことは、その「大鵬賦」の序にのべている。

 ただし周知の如く、秘書監であり、道士の資格者賀知章が彼の「蜀道難」に感嘆して、これを「謫仙人」と呼び、玄宗に推薦したといふのも重要なファクターである。
要するに承禎、玉真公主や呉筠等の道教関係の側と、賀知章との推薦が同時期に行われて、李白は翰林に入ることを得たのである。そして、玄宗が道教に傾倒していたこと、宮廷詩人はいないような状態であった。王維がいたが、張説、張九齢の派閥で、10年くらい涼州などに飛ばされ長安に帰ってきていたが、李林保などとの折り合いが悪く、半官半隠で、輞川荘の経営を本格化し始めたころである。



李白の臨終の際、李白の話を書き残したものに、李白のめからみた入朝の様子が述べられている。
唐朝 大明宮01

小尾郊一著「中国の詩人・李白」P74-75から

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唐の李陽氷の『草堂集』序には次のようにいっている。

天宝中、皇祖(玄宗) 詔を下して徴し、金馬(門)に就かしむ。輦を降り歩して迎え、綺皓を見るが如く、七宝の牀を以って食を賜う。御手もて羹を調え以って之に飯し、謂いて日わく、
「卿は是れ布衣にして、名は朕の知るところと為る、素より道義を蓄うるに非ざれは、何を以って此に及ばんと。」
金堂殿に置き、翰林中に出入せしめ、問うに国政を以ってし、潜かに詔誥を草せしむ。人知る者なし。

「金馬」門は、漢代の名で、唐では、大明宮の右銀台門を指し、この門を入ると、学士院・翰林院があり、その奥に金鑾殿がある。「綺皓」は秦末の商山の四胎を指す。東園公・用里先生・綺里季・夏黄公の四人が商山に隠れ、ともに八十余歳で、髪は白かったので商山の四皓という。その中の綺里季を代表させてという。漢の高祖が迎えたが、従わなかった。富貴に恬淡たる人物たちである。
玄宗が金馬門(右銀台門)まで歩いて出迎え、漢の高祖が南山の四階を迎えるごとく礼を尽くし、その上、七宝の食卓で、天子みずからが御馳走をとってくれたという。この記述による限り、天子としては最高の礼を尽くした出迎えである。事実この通りであったかどうかは疑わしいが、玄宗もけっして疎かには扱わなかったであろう。この記録は李白が最後に病身を託した一族である李陽妹の書いたものである。李陽次は李白の口述を記録したものにちがいない。李白の誇張もあるし、李陽次の修飾もあろう。また玄宗が、「きみの名は自分も知っているが、それは道義を身につけているからこそ有名になったのだ」とのことばがあったと記されているが、これもはたして玄宗が「道義」といったかどうか。これはむしろ、李白は自分こそ正しい道義を体しているという自信のほどをいっているのではなかろうか。また、「問うに国政を以ってす」というのも玄宗が果たしてそのつもりであったのか、これも李白自身がそう期待していたことではあるまいか。
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