過宋員外之問舊莊  杜甫
(宋員外之問が旧荘に過る)考功員外郎宋之問のふるい別荘に立ち寄って作った詩である。
* 天宝1載 742年 31歳 五言律詩

ちょうど同時期、王維が藍田の宋之問の別荘を購入している。宗之問の死から30年経過していてほとんど手入れをされていない状態のものであった。王維は二十数年かけて整理し輞川集を完成させた。杜甫・王維関連年表参照。しかし王維の輞川荘は長安の東南50km藍田にある。
この杜甫の詩の宋之問の別荘は洛陽の北西河南省偃師県にある。高級官僚であるし、武則天は洛陽にほとんどいたので、むしろ偃師県に別荘の利用が多かったかもしれない。宋之問と杜甫の祖父の杜審言と交友があった。
杜甫は、741年開元 二十九年、首陽山の下に室を築き、遠祖当陽君(晋の杜頚)を祭った。また、このとき、陸渾荘を建て,妻を娶る。世話になったおばの死からの喪明けの年とすべてが重なるが、これら一連をやり、李白の後を追って旅に出ることになる。


過宋員外之問舊莊
宋之問公の旧荘にたちよる。
宋公舊池館,零落首陽阿。
昔ありし宋之問公の館、それは今首陽山の丘におちぶれた状態にある。
枉道祗從入,吟詩許更過。
横道に入ってみると番人もきびしくなくてここをたずねると勝手にはいることができる、また詩を作って吟じるために今日再びここに過ることも許される。
淹留問耆老,寂寞向山河。
自分はひさしくここに居残って附近の老人たちに宋家の様子をたずねてみた、心さびしく寂しくなっておもわず山河の方をむかってしまった。
更識將軍樹,悲風日暮多。

これだけ荒れ果てたうえ、このあとわかったのは、その弟君、之悌公にちなんだ將軍樹も、夕方悲しき風ばかりが多く吹きわたっている。

宋之問公の旧荘にたちよる
昔ありし宋之問公の館、それは今首陽山の丘におちぶれた状態にある。
横道に入ってみると番人もきびしくなくてここをたずねると勝手にはいることができる、また詩を作って吟じるために今日再びここに過ることも許される。
自分はひさしくここに居残って附近の老人たちに宋家の様子をたずねてみた、心さびしく寂しくなっておもわず山河の方をむかってしまった。
これだけ荒れ果てたうえ、このあとわかったのは、その弟君、之悌公にちなんだ將軍樹も、夕方悲しき風ばかりが多く吹きわたっている。


(下し文)宋員外之問が旧荘に過る
宋公の旧池館 零落す首陽の阿
道を柾げて穣入るに従す 詩を吟じて更に過るを許す
掩留して者老に問い 寂実山河に向う
更に識る将軍の樹 悲風日暮に多きを

過宋員外之問舊莊
宋之問公の旧荘にたちよる
宋員外之問 末は姓、之問は名、姓名の問に員外をはさむ。宋之問は字は延清、我州弘農の人、中宗の景竜中に考功員外郎となった。○旧荘 ふるい別荘、これは首陽山の下に在ったもの。宋之問と杜甫の祖父杜審言とは武后の時、供に修文館学士であり、世々の交りがあった。杜甫は開元二十九年首陽山の下に室を築き、遠祖当陽君(晋の杜頚)を祭ったことがあるが、当時そうした関係から之問の荘に立ち寄ったのであろう。

宋公舊池館,零落首陽阿。
昔ありし宋之問公の館、それは今首陽山の丘におちぶれた状態にある。
宋公 宋之問をさす。○池館 池ややかた。○零落 おちぶれる。○首陽 山の名、河南省偃師県の西北二十五里にある。杜甫の居は偃師県の尸郷に在り、そこより首陽の方へと来たのである。○ おか。

枉道祗從入,吟詩許更過。
横道に入ってみると番人もきびしくなくてここをたずねると勝手にはいることができる、また詩を作って吟じるために今日再びここに過ることも許される
枉道 わざわざよこみちへはいりこむ。○ 砥と同じく、ただの意。○従入 従はまかす。勝手に入れる。○吟詩 この題詠の詩を吟ずること。
 
淹留問耆老,寂寞向山河
自分はひさしくここに居残って附近の老人たちに宋家の様子をたずねてみた、心さびしく寂しくなっておもわず山河の方をむかってしまった。
淹留 ひさしくとどまる。○問耆老 耆老は附近の父老をさす。間とは之問の家の其の後の事情についてたずねること。○向山河 向こうとは自分がこれに対することをいう。

更識將軍樹,悲風日暮多。
これだけ荒れ果てたうえ、このあとわかったのは、その弟君、之悌公にちなんだ將軍樹も、夕方悲しき風ばかりが多く吹きわたっている。
将軍樹 後漢の鴻異は戦功があったが、功を論ずるときには独り樹下にしりぞいておったので、兵士たちは彼を大樹将軍といった。これはそれを借りて之問の弟の之悌をさす。題下の原注の員外季弟執金吾とは蓋し之悌をいう。之悌は勇力があり、開元中に右羽林将軍より益州長史、剣商節度使・兼探訪使となり、ついで太原尹に還っている。○悲風多 多とは樹上に多く吹くことをいう、これによれば時に之悌はすでに没していたことを知るのである。


宋之問 (そうしもん) 652~712 "宋 之問(そう しもん、656年?-712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。
(690)楊炯とともに習芸館学士
(698)則天武后の寵臣である張易之兄弟に取り入り、尚方監丞として『三教珠英』の編集に参加。(これにも疑惑あり)
(705)瀧州(広東省)に流刑された
(706)ひそかに脱出して洛陽へ逃げ帰った。
(707)張沖之が朝廷に陰謀を企てていることを密告して、その功績で罪を許されて鴻臚主簿
(709)収賄の罪で越州(現浙江省紹興市)の長史に左遷
(710)欽州(現広東省)に流刑される
(712)「獪険盈悪」の罪により自殺刑を命じられた
 上記のほか人の詩を盗んだりして 評判の悪い人物である。王維はこの宗之問の長安郊外の別荘を購入し、杜甫は洛陽の宗之問の別荘の近くに陸渾荘を建てる。