遣懐(昔我遊宋中)杜甫(李白を詠う-1)
天宝3載744年33歳 五言古詩
李白との交わり  斉・魯の旅へ

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二十五、六科挙試験のショックで四年斉・趙に遊んだ。杜甫は三十歳になって、年はじめ、洛陽に帰った。

開元29年741年30歳
 五言律詩 8「巳上人茅粛」
 五言律詩 9「房兵曹胡馬詩」

 そうして、河南省偃師県條師県にある首陽山のふもとに、陸渾荘と名づける家を建てている。おそらくこのころ、妻の楊氏を迎えた。楊氏の実家は、司農少卿(司農府の次官)楊怡の家の娘であった。

天宝1載742年 31歳
 五言律詩 10「畫鷹」
 陸渾荘を築く。まもなく「おば」万年県君が亡くなり、寒食日に遠祖杜預を祭る。
 五言律詩 11「過宋員外之問舊莊」
 五言律詩 12「夜宴左氏荘」

 洛陽の仁風里に住んでいた姑母は、杜甫は、母を失って間もないころにめんどうを見てもらった彼女のために、心をこめた墓誌を書いている。
 五言古詩13「假山」  天宝の初、我が太夫人の堂下に於て、土を塁ねてに慈竹を植え、この詩を作る。
 五言古詩14「龍門」
なお、この年に天宝と改元されるが、このころやがて杜甫と顔を合わせる李白が、道士呉筠䅈の推薦によって会稽から長安にやってきて、翰林院(天子の詔勅などをつかさどる役所)に供奉している。
安禄山、平鹿節度使となる。

天宝2載 正月、年を載と改めた。賀知章、辞して長安を去る。まもなく没。岑參、進士及第。李白、翰林院に出仕す。三月、安禄山、抱陽節度使を兼ねる。寿王妃楊氏、大兵と号して宮中に召さる。

天宝三年 744年、杜甫はこの年も洛陽に留まっている。そうして夏のころ、高力士らの讒言によって長安の宮廷を追放され、傷心を抱いて洛陽にやって来た李白と、はじめて会っている。
 時に李白は四十四歳、杜甫より十一歳の年長であり、すでにその文名は天下に高かった。まだ無名の存在である杜甫は、あこがれと尊敬の念をもって李白の話に耳を傾けたのである。そうして、李白の謫仙人というべき人物と新鮮な詩風に心ひかれるままにその跡を追った杜甫は、当時やはり不遇であった高適(時に四十四歳)とも出会い、三人で梁・宋(河南省の開封・商邦)の地に遊ぶ。「壮遊」と同じく晩年に襲州で作られた「遣懐」(懐いを遣る)また「昔遊」の中に、そのときの様子が次のように詠われている。

まず「遣懐」では、梁州でのことが、

昔我遊宋中惟梁孝王都
昔  宋州で遊んだことがある、梁の孝王が都としたところだ
名今陳留亜、劇則貝魏倶。
名は陳留につぐが、にぎわいは貝州や魏州にひとしい
邑中九万家、高棟照通衢。
城内には九万戸の家々、高い棟木が十字の街路につらなっている
舟車半天下、主客多歓娯。
舟や車は  天下の半ばを集め、土地の者も旅人も  共に楽しく暮らしている
白刃讎不義、黄金傾有無。
不義の者は白刃でこらしめ、黄金は有無にかかわらず使いつくす
殺人紅塵裏報答在斯須

街上で人を殺せば、すぐに報復を受けるのだ

(下し文)
懐を遣る
昔  我  宋中(そうちゅう)に遊ぶ、惟(こ)れ梁(りょう)の孝王の都なり
名は今  陳留(ちんりゅう)に亜(つ)ぎ、劇(げき)は則ち貝魏(ばいぎ)に倶(ひと)し
邑中(ゆうちゅう)  九万家(か)、高棟(こうとう)は通衢(つうく)を照らす
主客は歓娯(かんご)多し、舟車(しゅうしゃ)は天下に半(なか)ばし
白刃(はくじん)  不義に讎(あだ)し、黄金(おうごん)  有無(うむ)を傾く
人を紅塵(こうじん)の裏(うち)に殺し、報答(ほうとう)  斯須(ししゅ)に在り


憶(おも)う  高李(こうり)が輩(はい)と、交(こう)を論じて酒壚(しゅろ)に入る
両公  藻思(そうし)壮(さか)んなり、我を得て  色(いろ)敷腴(ふゆ)たり
気酣(たけなわ)にして吹台(すいだい)に登り、古(いにしえ)を懐(おも)うて平蕪(へいぶ)を視(み)る
芒碭(ぼうとう)  雲は一去(いちきょ)し、雁鶩(がんぼく)  空(むな)しく相呼ぶ


「書懐」の詩では、宋州での遊びが、

憶与高李輩、論交入酒壚。
思い起こせば高適・李自らと、交わりを結んで酒店に入った。
両公壮藻思、得我色敷腴。
二人は文章への思いは盛んで、私という相手を得て、のびやかに談じていた。
気酣登吹台、懐古視平蕪。
酒が回って意気は上がり、吹台(開封の東南にある台)に登って、うち続く荒野を眺めわたしながら、この地にまつわる昔の出来事をしのんだ。
芒碭雲一去、雁鶩空相呼。
芝山や楊山のあたりには(昔、秦の始皇帝の追及の手を逃れた漢の高祖がそこに隠れ、その間つねに立ち上っていたという)帝王の雲気はいまや去ってしまい、雁や鷲がむなしく鳴き交わしているだけであった

(下し文)
憶(おも)う  高李(こうり)が輩(はい)と、交(こう)を論じて酒壚(しゅろ)に入る
両公  藻思(そうし)壮(さか)んなり、我を得て  色(いろ)敷腴(ふゆ)たり
気酣(たけなわ)にして吹台(すいだい)に登り、古(いにしえ)を懐(おも)うて平蕪(へいぶ)を視(み)る
芒碭(ぼうとう)  雲は一去(いちきょ)し、雁鶩(がんぼく)  空(むな)しく相呼ぶ

「昔遊」では
昔者与高李、晩登単父台。
寒蕪際碣石、万里風雲来。
桑柘葉如雨、飛藿共徘徊。
清霜大沢凍、禽獣有余哀
「その昔、高適・李白と、夕暮れに単父台に登った。寒々とした荒地は遠く瑞石のあたりまで続いており、万里の果てから風雲が吹きつけてきた。桑や柘の葉が雨のように飛散し、なかに豆の葉も吹き迷っていた。清らかな霜が降りて大沢は凍り、鳥獣は近づく狩猟の季節におびえていた」
と詠われている。

梁・宋での遊びののち、高適は南方楚の地に遊び、杜甫は李白に従って斉・魯に行くことにした。李白は兗州(山東省滋陽)の我が家に帰り、北海(山東省益都)の道士高天師のところへ出かけて道教のお札をもらうためであった。