懷仙歌 李白

  李白の生活・思想に強く影響を与えたものは、隠士や道士たちとの交わりであった。道士の元丹丘とともに河南の嵩山(登封県北)に隠居したり、また、湖北の胡紫陽に道を訪ねたり、また、道士の飲筠とともに剡中(浙江省嵊県付近)に隠居したりした。こうした道士、隠士との交わりの生活は、李白をして、現実の世間の生活を超脱して、それを蔑視する方向に走らせて、自由を求める気風を作り上げさせるようになった。あたかも、六朝・魂晋の清談家たちが、当時の礼俗に抵抗して、人間の本性のままに生きようとした生き方と似ている。かくて、しだいに李白の詩には、世の束縛から脱して、自由を慕い、道教にあこがれる詩がこれまで見てきたように多く現われるようになってきたのである。
 次にあげる詩「仙を懐う歌」は、このころ作られたものかどうかは分からない。ひたすら道教を求め、仙道を訪ねる考え方を表わす詩である。作られるにふさわしい年代とすれば、この時期(朝廷に出仕する以前)に当てはめられるものであろう。



懷仙歌
一鶴東飛過滄海放心散漫知何在
仙人に言伝を持っていく一羽の鶴が東に飛んでいく、はるか青海原過ぎていった、心にわだかまることなく、自然で自由気ままにすめるところはどこにあるかを知っている。
仙人浩歌望我來。 應攀玉樹長相待。
そこでは仙人は心置きなくおおらかに歌って私が来るのを待ち望んでくれている、まさに今頃は立派な樹に攀じ登っていつまでも待ってくれている。
堯舜之事不足驚。 自余囂囂直可輕。
儒教の国の堯帝と舜帝のやったことはのことも私にとっては驚くべきことではない、まして私に嘆いたり、心配してうるさいものはただ値打ちのない軽んじられるものなのだ
巨鰲莫戴三山去我欲蓬萊頂上行

ただ大亀いる、仙人の住む三山をはるか先に背負っていってしまってはいけない、私はこれから蓬萊山の頂上に行こうと思っている。

仙人に言伝を持っていく一羽の鶴が東に飛んでいく、はるか青海原過ぎていった、心にわだかまることなく、自然で自由気ままにすめるところはどこにあるかを知っている。
そこでは仙人は心置きなくおおらかに歌って私が来るのを待ち望んでくれている、まさに今頃は立派な樹に攀じ登っていつまでも待ってくれている。
儒教の国の堯帝と舜帝のやったことはのことも私にとっては驚くべきことではない、まして私に嘆いたり、心配してうるさいものはただ値打ちのない軽んじられるものなのだ
ただ大亀いる、仙人の住む三山をはるか先に背負っていってしまってはいけない、私はこれから蓬萊山の頂上に行こうと思っている。



一鶴東飛過滄海放心散漫知何在
仙人に言伝を持っていく一羽の鶴が東に飛んでいく、はるか青海原過ぎていった、心にわだかまることなく、自然で自由気ままにすめるところはどこにあるかを知っている。
滄海 あおうなばら。東海上にある三山までに広がる海を指す。李白「行路難「経下邳圯橋懐張子房」」 李商隠「錦瑟」「揺落」王維「送秘書晁監還日本国」陶淵明「読山海経十三首其十」「擬古九首其九」など道教に関連した場面で使われる。 ○何在 いずこかというのが「道」なのである。


仙人浩歌望我來。 應攀玉樹長相待。

そこでは仙人は心置きなくおおらかに歌って私が来るのを待ち望んでくれている、まさに今頃は立派な樹に攀じ登っていつまでも待ってくれている。
浩歌 大きな声で歌う。道を極めているのでおおらかに歌える。李白「尋蕹尊師隠居」○玉樹 晋の謝玄の「芝蘭玉樹はその庭階に生ずるを欲す」を踏まえている。李白「宮中行楽詞其四」では立派な樹という意味でつかわれる。


堯舜之事不足驚。 自余囂囂直可輕。
儒教の国の堯帝と舜帝のやったことはのことも私にとっては驚くべきことではない、まして私に嘆いたり、心配してうるさいものはただ値打ちのない軽んじられるものなのだ
堯舜 儒教でいう上古の理想国時代の皇帝の名。堯と舜の二人。ここでは儒教の対象としている○囂囂 きょうきょう 声のやかましいさま。満足して無欲なさま。嘆き心配するさま。


巨鰲莫戴三山去我欲蓬萊頂上行
ただ大亀いる、仙人の住む三山をはるか先に背負っていってしまってはいけない、私はこれから蓬萊山の頂上に行こうと思っている。
巨鰲 きょごう 巨大なおおがめ。○三山 東海に浮かぶ仙人の神山蓬莱山、方丈山、瀛州山を示す。江南の抒情詩では南京の南西にある山長江のそばにあるをいう。
 
 李白は放浪の始めに江陵で偉大な道士司馬承禎と出会ったことをきっかけに道教に心を傾けるようになった。そして30歳前後の頃には多くの道士や隠者と親しく交際し、隠者詩人孟浩然にもあった。そして、後に李白を皇帝に引き合わすきっかけを作った呉筠や、死罪になりかけたのを流刑罪、のち方面にまで尽力してくれた郭子儀にもあった。

 この詩は、儒教に嫌気し、道教の思想が色濃く反映して仙人の自由な生き方を歌ったものだ。


(下し文)

一鶴東に飛び沿海を過ぎ、心を放やかにして散漫やかに何れに在るかを知らんや
仙人は浩く歌って我を望んで来たり、応に玉樹に挙りて長く相い待つなるべし
尭舜の事は驚くに足らず
自余のものの囂囂(きょうきょう)たるは直だ軽んず可し
巨鰲は三山を戴きつつ去ること莫かれ
我は蓬莱の頂上に行かんと欲す


 これは仙境にあこがれて、そこに行きたいと願う詩であるが、「自余囂囂直可輕」(自余のものの囂囂(きょうきょう)たるは直だ軽んず可し)当時の李白から見れば儒教のような非現実主義的な生き方、礼節の強制、というものは性に合わなかった。尭・舜のような聖人さえも無視している。理想は天上のかなたにある仙界である。まさしく夢みる男であるといえよう。したがって李白は道教の世界に入り道教のつながりで士官を考えたとしてもおかしくない。当時一般のしきたりに従って、科挙の試験をまともに受けて、官吏に登用されるというコースは、全く考えていなかったのである。

 もっとも一口に道教といっても、本当はその成り立ちからはなはだ複雑な思想なのである。がんらい不老長寿を願う民間信仰をもとにして、やがて老子・荘子の教えが加わり、唐代になると、修行を目指しての一つの教団がその政治へのかかわりの度合いと寺観の存在する山の関係からいくつもできるのである。修行する者を道士といい、俗世間を超越して、不老不死を目指し、仙人となることを目標としていたことは共通するものだ。唐の開元・天宝の間713-755)にはこの道教が最も流行した。人々が儒教の礼節強要に辟易していたし、玄宗725年、の泰山に封禅の礼以降道教にのめりこんで行ってから国教とさえみなすことができる状態であった。したがって、当時の人々が、道教を信奉することは、別な一つの目的を持つことにもなってきた。それは利禄にありつく手段の一つでもあるとみなされていたようである。だから、李白の道教信奉も、政治の舞台に出る唯一の手段であったとも考えることができるのである。

 したがってここでは「就活大作戦」としたわけなのである。

 しかし、結局においては、道教へのあこがれは、李白ますます自由なふるまいをさせ、物に束縛されない奔放不韓の人間にしたことはまちがいない。むろん生来の李白の性格も相まってのことではある。彼の初志は、あくまで政治の舞台にのり出し、官僚として天子の側近に侍り、中枢の政治に参画することであったが、今やその望みは実現されない。いってみれば、このころの李白の姿は、まったく瓢々として放浪しつつ、道を求めて歩く隠士のようでもあった。