「行次西郊作一百韻」について李商隠の詩150 -147はじめに

はじめに
唐宋期漢詩ブログ、Ⅰ.李商隠の詩150 の最後に取り上げるものである。

はじめに
・行次西郊作一百韻と杜甫の昨品(北征、兵車行、など)
・ほぼ同じころ、有感二首、聖女詞、寄令狐郎中
・妻をめとる前 26歳
・令狐楚派から王茂元へ心揺れる段階

・当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。
・835年 甘露の変 事件として小さく扱われているがこの事件は李商隠の一生を狂わせるものであった。

・若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受けていた。
・837年、26歳 進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度は李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入る。
 この年「行次西郊作一百韻」をかいた。

・838年27歳 王茂元の娘を娶った。

・杜甫の「北征」は757年、安禄山の叛乱の2年後預けていた家族を迎えに行く道中に書いている。李商隠も衝撃を受けた甘露の変の翌年の作である。


李商隠の五言古詩 「行次西郊作一百韻(行きて西郊に次る作一百韻)」 詩は、現存する李商隠詩の中で最長の詩篇である。全二百句一千字にも及ぶこの長篇詩は自身の姿と重なり合う1人称の話者である 「我」が都長安の西郊'鳳期府近辺の荒廃した農村で出会った一農夫との対話いう形式を借りて叙述が進行していく。またその内容は太宗の貞観年間の太平世から説き起こし'続いて玄宗の開元・天宝年間から文宗の開成年間に至るまでの唐王朝衰退の歴史を述べ、衰退の原因を偏に政治の腐敗に求めて激しく指弾するというものである。

この 「行次西郊作一百韻」 詩については'従来 「無題」詩を始めとする艶情詩で知られる李商隠の詩篇中でも異色の作品という事もあり、先行する諸研究においてもしばば取上げられてきた。それらの中で必ずといってよほど言及されて来たのが'「行次西郊作一百韻」 詩にも杜甫詩の影響が見られる'という点である。

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など、杜甫を手本に自分に置き換え、歴史的な事跡に置き換え、李商隠らしく仕上げている。そして、この詩も長篇かつ著名な政治批判詩である。

① 型について。両詩共に五言古詩の型を用いた長篇詩である。
② 成について。両詩共に人自身が見聞したとする事実を元に詩を構成している。杜甫は独創的、李商隠は手本に、
③ 頭部分について。両詩の冒頭部分を挙げると'次のようにある。

北徵
皇帝二載秋、閏八月初吉。
杜子將北徵、蒼茫問家室。』

(北征)
皇帝 二載(にさい)の秋、閏八月の初吉(しょきつ)。
杜子(とし)  将(まさ)に北に征して、蒼茫(そうぼう)   家室(かしつ)を問わんとす。


行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。

(行きて西郊に次る作一百韻)
蛇(み)の年 建午(けんご)の月,我 梁より秦に還える。
南のかた 大散(たいさん)の關を下り,北して渭(い)これの濱(きし)を濟(わた)る。


北徵
皇帝二載秋、閏八月初吉。
杜子將北徵、蒼茫問家室。』

(北征)
皇帝 二載(にさい)の秋、閏八月の初吉(しょきつ)。
杜子(とし)  将(まさ)に北に征して、蒼茫(そうぼう)   家室(かしつ)を問わんとす。

粛宗皇帝の至徳二載の秋、閏八月一日のことである。
杜甫は北方に向かって突き進む旅をしようとし、乱によって先行きはまったく不安に駆られてながら、家族のもとへ向かうのである。


行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。

(行きて西郊に次る作一百韻)
蛇(み)の年 建午(けんご)の月,我 梁より秦に還える。
南のかた 大散(たいさん)の關を下り,北して渭(い)これの濱(きし)を濟(わた)る。

丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。



杜甫「北征」の詩について
 左拾遺を拝命してまもなく、杜甫は諫諍(かんしょう)をしている。悲陳陶 - 152   悲青坂 - 153 で大敗を喫し、周りの助けで、許されていた房琯(ぼうかん)が宰相を罷免され、太子少師(たいししょうし)に貶された。それを任命間もない杜甫が天子に諫諍し、粛宗が激怒したのだ。

 事件というのは房琯が身近に置いていた琴の名手の董廷蘭(とうていらん)が、房琯の威を借りて賄賂をとったというのだ。社甫にしてみれば、天子を諌めたことによって、たとえ一命を失うようなことがあったとしても、それは本望であり、いささかの悔いも残らなかったであろう。それは長年にわたって願いつづけた政治の舞台での晴れの姿であった。しかし、この事件を区切りとして、その官吏としての生命は失われ、以後は詩人として生きざるをえなくなる。政治の上で世に名を著わすことを念願しながら、意に反して、詩によって世に著われるようになる、そのきっかけとなった諫諍事件といえよう。

 粛宗にとってみれば、玄宗からの命で、いわばスパイの役割をしており、大敗して謹慎中の身でありながら、横暴な面を見せていた房琯を擁護した杜甫をそのままにしておくことは、他の官僚に示しはつかない。

 事件の背景には粛宗(しゅくそう)の近臣と玄宗の旧臣との間の対立があったこと、状況判断、政治的判断ができないことに問題がある。詩人である杜甫にとっては、政治的、客観的な人間でありえないものなのだ。


 それが一生を左右する大事になろうとはまったく思ってもおらず、職務に忠実に勤務を続けて、謝罪の文を奉って十日ばかりのちには、同僚との連署ではあるが、友人の岑参を推薦する上奏文「遺補の為に岑参を薦むる状」を書いている。この結果、岑参は右補闘に任じられた。右補闘は中書省に属する諌官で末席に近く、右拾遺より一つ上のポストであり、これに対応するものとして門下省に左補闘と左拾遺があった。

 岑参に触れたついでに、杜甫の他の友人の消息を見てみると、李白は江南の地で粛宗の弟永王璘の軍に加わっていたが、この年の二月、永王、が粛宗との仲たがいから反乱軍として討伐されたあとは、江南のあちこちを逃げまわっている。しかし、やがて捕らえられて尋陽の獄につながれることになる。


 高適は、皮肉にも永王追討軍を指揮して江南を転戦し、そのまま淮南節度使となって揚州にとどまっている。杜甫がのちに蜀の成都でその庇護を受けることになる厳武は、杜甫と同じ役所の門下省に、給事中として勤めている。鄭虔は叛乱軍の偽政府で水部郎中を授けられていたために、王維らとともに宜陽里の牢獄に投ぜられ、のちに台州(浙江省の東海岸)の司戸参軍として流された。



 杜甫は問責を受ける身になり、職務も停止された。
 新しく宰相になった張鎬(ちょうこう)らのとりなしもあって、六月一日には旧職に復している。粛宗の信任はもどってはこなかったのだ。杜甫は詔書によって鄜州羌村の家族を見舞ってもよいとのお許しを願い出るとが、思いがけず即ゆるされる。勅許というのは名目的で、実体は無用の人間とされ、休職処分だったのだ。


 粛宗のそのような意を知ってか知らずか、杜甫は鳳翔から鄜州まで約二〇〇キロの道を、当時、長安は叛乱軍の占領下にあったので、渭水に沿った東行の道はとれず、鄜州へ行くには鳳翔から北へ山越えの道をゆく必要があった。閏八月の初めから半月ばかりかかって、馬は与えられなかったために、途中で馬を借りるまでは徒歩で、何人かの下僕を供にして麟遊県-邠州―宜君県-鄜州という経路で帰っていった。このときの旅で作られたのが「北征」の詩で、七百字百四十句の長篇である。「北征」というのは征旅のことではなく、「北行」ということで、勅許を受けてゆくので北征と言ったのに過ぎないものだ。


 「北征」の詩の内容は四つの段に分けられる。すなわち第一段はこのたびの帰省のことと現在の時勢について、第二段は旅中の見聞、第三段は妻子との再会、第四段は胡賊撃退へと動き出した状況の説明と大乱平定の願い、となっている。

 “鳳翔県のほうを振りかえると、行在所の旌旗が日暮れの空に見え隠れしており、やがて杜甫は冬枯れのはじまった淋しい山道にはいっていゆく。山中の道端には軍馬の水かい場が幾つも残されており、いまは人けもなく打ち棄てられているのである。”ということで始まる。



李商隠 「行次西郊作一百韻」について
 宦官による大虐殺の「甘露の変」は、李商隠にとって『杜甫にとっての安禄山の乱』と同様な事件として映るのだ。実際に、関与した鳳翔におかれていた軍隊が関与したため、長安と鳳翔の惨状はすさまじい虐殺が行われていたということなのだろう。


 杜甫と同じように鳳翔府の状況、風景から始まる。門を入っても誰も迎えてくれない。誰に聞いても答えるものがいなかった。
 ようやく話してくれ始めた。
 今はこんな荒れ果てているが、仁徳深い地方長官の時代、楽園であった時もあった。しかし、玄宗の時代になると異民族の将軍たちは無秩序な支配により、奴隷のようにあつかわれた。楊貴妃の時代、安禄山の出現と出世のいきさつ、を白居易「長恨歌」とは違った観点で述べていく。

 安禄山の叛乱について述べられる。一朝にして叛乱軍に占領され、安禄山の軍旗にあふれた。鳳翔では家に鍵をかける家などなかったものが今では、老人しか残っていない。

 陥落した長安、逃げた玄宗について触れている。そして李商隠らしい点は、安史の乱を平定するため、異民族に援軍を求めたために、唐の財産が奪われるだけでなく、資源をかすみとられる交易になってしまって、唐の国家的財政に問題を残した。

 それ以降の粛宗、代宗、徳宗、憲宗と歴代の皇帝は恥辱の上塗りしかしなかった。奸臣ばかりが重用され、改革者は左遷された。この宦官だけが力をつけていった。この宦官を一掃しようと仕組んだクーデターも失敗に終わり、長安と鳳翔の間はならず者、一揆と無政府状態となった。その甘露の変から3年も過ぎるのに盗賊を捉まえることすらできないのだ。


行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24