行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 152 #5


行次西郊作一百韻

行次西郊作一百韻
蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
降及開元中,奸邪撓經綸。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」
#-5
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6
皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲贼掃上陽,捉人送潼關。』#-12
玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開辟久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14
列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16
中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18
近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19
鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20
爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21
官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22
我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23
叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24


例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5

#4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』

5

(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴()し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。

(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。

晋公 此の事を忌()み、多く辺将の勲を録す。

()りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令()て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』


#6
中原 遂に故(こと)多く、除授(じょじゅ)するは至尊に非ず。
或いは倖臣(こうしん)の輩(はい)より出で’、或いは帝戚(ていせき)の恩に由る。
中原 屠解(とかい)に困(くる)しみ、奴隷 肥豚(ひとん)に厭(あ)く』
#7
皇子は棄(す)てられて乳(そだ)てられずして、楸房に禿渾を抱く
重き賜(たまもの) 中国を竭くし、強兵 北辺に臨む
控弦(こうげん) 二十万、長臂(ちょうひ) 皆 猿の如し。
皇都(こうと) 三千里、来往すること雕鳶(ちょうえん)に同(ひと)し。
#8
五里(ごり)に一たび馬を換え、十里に一たび筵(むしろ)を開く。
指さし顧みれば白日をも動かし、煖熱(だんねつ) 蒼旻(そうびん)を回らす。
公卿(こうけい) 嘲叱(ちょうしつ)に辱(はずかし)められ、唾棄(だき)せらるること糞丸(ふんがん)の如し


#-5 現代語訳と訳註
(本文) #-5

例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」

(下し文)
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』


(現代語訳)
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。



(訳注)
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。

通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
 以下の事の行われるのが通例だったという意味で、しきたり、慣例というところ。○陶鈞 陶鈞は陶器の型を造るときのロクロのこと。聖王の為政を陶工の製器に喩えたもの。したがってここでは中央で大臣、宰相をいう。李商隠、杜甫も宰相の政治姿勢を問う物差しとして使う語である。奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫 李林甫の行う政治姿勢を問う語として使っている。李商隠も井泥四十韻 李商隠のなかで政治姿勢を問う語として使っている。もともと天秤はかりの重さを言うのであるから、天下の公平ということである。ここでは史実により、国政の大綱も輝かしい文治の方針ということになる。
 
降及開元中,奸邪撓經綸。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
開元 それから約100年後、唐第六代皇帝玄宗李隆基(685~762年)は、クーデターに成功した。治政の前半の年号(712~741年)。文化的には開元と次の天宝の時代は唐朝の最盛期だったが、外夷懐柔政策が破綻を見せ始め、府兵制度の崩壊、節度藩鎮の制がかえって、その破綻に拍車をかけた。内政面でも、宦官が北司なる近衛師団を采配する実権を握り、外威勢力が官僚機構の上層を支配し始めた。特に、宰相李林甫と宦官高力士は貞観時代の国政の大綱も輝かしい文治の方針のすべてを崩れさせた。○姦邪 奸臣、よこしまなる者。以下に具体的に挙げられる、李林保など悪しき宰相、外戚、藩鎮などを、まず総括的に姦邪と言ったのである。○ まげる。みだす。○経綸 天下を経営すること。施政方針。


晉公忌此事,多錄邊將勳。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
晋公 玄宗の愛妃武恵妃にとり入って出世した宰相李林甫(生年未詳-752年)のこと。張説、張九齢を排除し、737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた故に晋公という。口に蜜あり腹に毒ありと評せられる官僚のほとんどを粛清して、宦官と協力しあって、全権を掌握し、腹黒く且つ無教養な宰相だった。「新唐書」では姦臣列伝に列せられる。○忌説事 此の事とは英賢な地方長官を召しいれて大臣とする習慣を指す。開元中、張嘉賓、王晙、張説、蕭嵩、杜遄など文官はみな一旦節度使として外に功績をあげ、そしてぬきんでられ入閣して、中央の政治に参与した。李林甫は自己の地位の存続を計る為にその慣例をやめ、文官の登用試験を事実上形骸化させた。「科挙」合格者をなくしいった。辺地が不穏であることを理由に、節度使に武将を用いる事を建言して採用された。多く辺将の勁を録すとは哥舒翰(生年未詳~757年)や高仙芝(生年未詳-755年)や安縁山(生年未詳-757年)など辺疆を守備する異族の諸将の功績を、李林甫が過大に称揚して、節度使として文官以上に重用されるようにした事実を指す。

因令猛毅輩,雜牧升平民。」
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
○猛毅輩 安縁山ら、異民族出身のたけだけしき武将たち。○雑牧 統一なく地方を支配する。○昇平民 多くの平和な民。

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 152 #5
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 153 #6
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 155 #8

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 156 #9
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 157 #10
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 158 #11
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #12
行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 159 #13
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 161 #14

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 163 #16
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 164 #17
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 165 #18

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 166 #19
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 167 #20
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 168 #21
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 169 #22
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 170 #23
行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 171 #24