行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 158 #11

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39

北斉二首 其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠 -103

鸞鳳 李商隠  -111

漫成五章 其四 李商隠 -107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠 -131

行次西郊作一百韻

行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149 #1、#2

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 150 #3

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 151 #4

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行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 154 #7

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 155 #8

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 156 #9

行次西郊作 一百韻 李商隠 150- 158 #10


#9
大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
#10
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10
奚寇西北來,揮霍如天翻。
天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
是時正忘戰,重兵多在邊。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
列城繞長河,平明插旗幡。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」
#-11
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲賊掃上陽,捉人送潼關。』#-12

#-9
大朝(だいちょう) 万方(ばんぽう)を会し、天子 正に軒に臨(のぞ)む。
采旂(さいき) 初旭(しょぎょく)に転じ、玉座 祥烟(しょうえん)に当たる。
金障 既に特に設けられ、珠簾(しゅれん) 亦高く褰(かか)げらる
#10
須(ひげ)を捋(な)でて蹇(けん)として顧(かえり)みずして、坐して禦榻(ぎょとう)の前に在り。
忤(さから)う者は艱屨(かんく)に死し、之に附(おもねれ)れば 頂顛(ちょうてん)に升(のぼ)る。
華侈(かし)  矜(ほこ)りて遞(たが)いに衒(てら)い、豪俊 (ごうしゅん) 相い 併呑(へいどん)す。
因りて生恵(せいけい)の養を失し、漸(ようや)く微求(ちょうきゅう)の頻(しき)りなるを見わす。

11

奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。

是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。

列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。

但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。

大婦は児を抱きて哭き、小婦は車(しゃはん)に攀(すが)る。

#12
生小 太平の年、夜にも門を閉ざすを識らず。
少壮のものは尽く点行せられ、疲老のみ空しき村を守る。
生き分れて死誓(しせい)を作し、涙を揮(ふる)いて秋雲に連なる。
廷臣は獐(くじか)の例(ごと)く怯(おび)え、諸軍は羸(えい)の如く奔(はし)る。
賊の為に上陽を掃い、人を捉(とら)えて潼関に送る。



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現代語訳と訳註
(本文)

奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11

(下し文)
奚寇(けいこう) 西北より来り、揮霍(きかく) 天の翻えるが如し。
是の時 正に戦いを忘れ、重兵(ちょうへい) 多く辺に在り。
列城(れつじょう) 長河を繞(めぐ)らすに、平朋 旗幡(きはん)を插(さしはさ)む。
但だ虜騎(りょき)の入るを聞き、漢兵の屯するを見ず。
大婦は児を抱きて哭き、小婦は車轓(しゃはん)に攀(すが)る。

(現代語訳)
天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。


(訳注)
奚寇西北來,揮霍如天翻。

天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
契寇 契は胡族。寇は1 外から侵入して害を加える賊。「外寇・元寇・倭寇(わこう)」 2 外から攻めこむ。あだする。「侵寇・入寇・来寇」。○西北来 長安城の北西。開遠門、光化門、芳林門から攻め入ったということ。○採宙 ひっかきまわすこと。○ ひっくりかえる。


是時正忘戰,重兵多在邊。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
重兵多在辺 玄宗皇帝のとき、藩鎮の制がしかれ、それまで地方警察軍としておかれていた諸州の兵力を辺疆十節度の管埋下においた。そのことをいう。平准西碑 (韓碑)#1 李商隠136 -#1
平准西碑 (韓碑)#2 137
平准西碑 (韓碑)#3 138
平准西碑 (韓碑)#4 139
平准西碑 (韓碑)#5 140
注参照。


列城繞長河,平明插旗幡。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
平明 夜明け。○捕旗幡 敵に占領されたことをいう。旗幡は安禄山の軍の旗。755年天宝十四年11月、安禄山註范陽に叛し、諸藩の騎歩の兵十五万をひきいて、夜半に行軍し平明に食事をとり、日に行くこと六十里、十二月に黄河を渡り、洛陽城を陥落させた。翌年元旦安禄山は自ら皇帝宣言をし、6月4日潼関で対峙したが、房琯率いる唐王朝軍は大敗した。6月12日長安城に入城した。その時は、王朝軍はほとんどが逃げ出していた。(【旧唐書】本紀)。


但聞虜騎入,不見漢兵屯。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
 南北朝時代、南人は北人を索虜と蔑称したごとく、北方異民族への蔑称である。○不見漢兵屯 叛兵の至る所の郡県、官兵の防禦する無し。甲仗も器械も朽壊し、郡県の官兵は皆白棒を持つに過ぎなかった、と「安禄山事蹟」に見える。


大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。
大婦 長安の大家族で兄弟出征している留守家族を言うのであり、上の嫁。小婦は下の嫁。○車幡 楼は車の被いのこと。

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