擬魏太子鄴中集詩八首 幷序 謝靈運 六朝魏詩<85>
擬魏太子鄴中集詩八首 幷序-#1
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。)
建安末,余時在鄴宮,
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、
朝游夕燕,究歡愉之極。
夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
古來此娛,書籍未見。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。
#2
何者?楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,
遊者美矣,而其主不文;
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
不誣方將,庶必賢於今日爾。
歲月如流,零落將盡,
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
(魏の太子の鄴中集の詩に擬す 八首 幷びに序)-#1
建安の末,余は時に鄴宮に在り,朝に游び夕に燕し,歡愉の極を究む。
天下の良辰・美景,賞心・樂事,四者は並せ難し。
今、昆弟友朋,二三の諸彥と,共に之を盡せり。
古來、此の娛は,書籍未だ見えず。
#2
何となれば?楚の襄王の時、宋玉・唐・景有り,梁の孝王の時、鄒、枚、嚴、馬有りて,遊ぶ者は美なり,而も其の主は文ならず;
漢の武帝のとき、徐樂らの諸才は,應對の能を備う,而るに雄猜 多忌なり,豈に晤言の適を獲んや?
方將に,庶はくば於今日を賢ると必すことを誣いざるのみ。
歲月は流るるが如く,零落して將に盡きんとし,
文を撰し人を懷い,往に感して愴みを增す。其の辭に曰く:
『擬魏太子鄴中集詩八首 幷序』 現代語訳と訳註
(本文) -#1
建安末,余時在鄴宮,朝游夕燕,究歡愉之極。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
古來此娛,書籍未見,何者?
(下し文)
(魏の太子の鄴中集の詩に擬す 八首 幷びに序)-#1
建安の末,余は時に鄴宮に在り,朝に游び夕に燕し,歡愉の極を究む。
天下の良辰・美景,賞心・樂事,四者は並せ難し。
今、昆弟友朋,二三の諸彥と,共に之を盡せり。
古來、此の娛は,書籍未だ見えず。
(現代語訳)
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。)
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。
(訳注)
擬魏太子鄴中集詩八首 幷序-#1
魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。
建安末,余時在鄴宮,朝游夕燕,究歡愉之極。
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
・建安 建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。建安25年は3月に改元されて延康元年となった。ただし、蜀(蜀漢)では延康の正統性を認めず、建安を26年まで使った。魏の曹操は天子たる実力を持ちながらも後漢に仕えたが、後、その子の曹丕は後漢を倒して魏を建て、帝位につく。すなわちそれが魏の文帝である。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
・良辰 良き日とは、上に明君あり、下に賢臣あって、よくおさまった時代のことをいう。
・楽事 宴をひらく、ともに遊戯・談論し、詩文を作る、などの楽しみをさす。太子曹丕、弟の平原侯曹植、および彼らをめぐる文人の作に、そのことが見える。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
・昆弟 兄弟。ここでは弟の曹植、あざな子建をさす。「昆」は兄。
・友朋 次の詩覧える王粂以→の友をさす。
・二三諸彦 「二三」とは、論語の諸第に見える「二三子」(諸弟子学たち)の意であろう。「彦」とは、美士、徳行すぐれた男子。
古來此娛,書籍未見。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。
擬魏太子鄴中集詩八首 幷序-#1
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首についてと並びに序文。)
建安末,余時在鄴宮,朝游夕燕,究歡愉之極。
建安の末ころ、私(太子の曹丕)は鄴宮に在り、朝に遊宴し、夕には宴席をひらき、歓楽なことを十分にたのしみつくしたものだ。
天下良辰美景,賞心樂事,四者難並。
いったい、天下の良き日、美しいひかりと景、親しい友、楽しいこと、この四つを一度に同時に満足できるようあわせもつことは難しいのだ。
今昆弟友朋,二三諸彥,共盡之矣。
したがって、われは今、弟や朋友諸君とともにこの四者のすべてを得ることができた。
古來此娛,書籍未見。
このような娯しみは、古くからいまだに書物には見えないものだ。
#2
何者?楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,遊者美矣,而其主不文;
なぜなら、楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
漢の武帝のとき、徐楽をはじめとして枚皐・東方朔らは文章応対の下臣の才は十分であった。
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
しかし武帝は剛強であり、かつ疑い深い性であり、したがって打ちとけて思う存分に話しあう楽しみを獲られなかった。
不誣方將,庶必賢於今日爾。
してみると、まあ、ほぼ、「われは、今日がまさっているのではないかと思う」、といっても、実際とちがっているのではないだろうか。
歲月如流,零落將盡,
ただ年月のたつのは水の流れるように速かなもので、わが友も亡くなってしまいそうである。
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
いま文をえらび集をつくり、その人を思い、それにつけても過ぎ去った日のことに心動かされて、悲しみいたむ情がいよいよ深い。その詩は次の通りいう。
『擬魏太子鄴中集詩八首 幷序』 現代語訳と訳註
(本文) #2
楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,遊者美矣,而其主不文;
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
不誣方將,庶必賢於今日爾。
歲月如流,零落將盡,
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
(下し文) #2
何となれば?楚の襄王の時、宋玉・唐・景有り,梁の孝王の時、鄒、枚、嚴、馬有りて,遊ぶ者は美なり,而も其の主は文ならず;
漢の武帝のとき、徐樂らの諸才は,應對の能を備う,而るに雄猜 多忌なり,豈に晤言の適を獲んや?
方將に,庶はくば於今日を賢ると必すことを誣いざるのみ。
歲月は流るるが如く,零落して將に盡きんとし,
文を撰し人を懷い,往に感して愴みを增す。其の辭に曰く:
(現代語訳)
なぜなら、楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。
漢の武帝のとき、徐楽をはじめとして枚皐・東方朔らは文章応対の下臣の才は十分であった。
しかし武帝は剛強であり、かつ疑い深い性であり、したがって打ちとけて思う存分に話しあう楽しみを獲られなかった。
してみると、まあ、ほぼ、「われは、今日がまさっているのではないかと思う」、といっても、実際とちがっているのではないだろうか。
ただ年月のたつのは水の流れるように速かなもので、わが友も亡くなってしまいそうである。
いま文をえらび集をつくり、その人を思い、それにつけても過ぎ去った日のことに心動かされて、悲しみいたむ情がいよいよ深い。その詩は次の通りいう。
(訳注) #2
何者?楚襄王時有宋玉、唐景,梁孝王時有鄒、枚、嚴、馬,遊者美矣,而其主不文;
なぜなら、楚の嚢王の時には、太夫の宋玉・唐勒・景差らあり、漢の景帝の弟である梁の孝王のときには、鄒陽・枚乗・厳忌・司馬相如らがあり、かれら従遊の士は文にすぐれたが、その主君は文学がなかった。
・楚襄王時有宋玉、唐景 「屈原既死之後,楚有宋玉、唐勒、景差之徒者,皆好辭而以賦見稱。」
司馬相如 ~B118 蜀郡成都の人。字は長卿。景帝の武騎常侍となったが、文学を好む梁孝王の食客に転じ、鄒陽・枚乗・荘忌らと交流した。
漢武帝徐樂諸才,備應對之能,
漢の武帝のとき、徐楽をはじめとして枚皐・東方朔らは文章応対の下臣の才は十分であった。
而雄猜多忌,豈獲晤言之適?
しかし武帝は剛強であり、かつ疑い深い性であり、したがって打ちとけて思う存分に話しあう楽しみを獲られなかった。
不誣方將,庶必賢於今日爾。
してみると、まあ、ほぼ、「われは、今日がまさっているのではないかと思う」、といっても、実際とちがっているのではないだろうか。
・不誣方將,庶必賢於今日爾。「誣」とは、実際とちがったことをいうこと。「不誣」を、「方将庶必賢於今日爾」の全体にかかるものと考え「われは、今日がまさっているのではないかと思う」との意とする。「方将」は、まさにまさに。「庶」は、近いこと。「必」はは、かたく期すること。
歲月如流,零落將盡,
ただ年月のたつのは水の流れるように速かなもので、わが友も亡くなってしまいそうである。
・零落將盡 徐幹・陳琳・王瑒・阮瑀・王粲の文才を評する。ちなみに、阮瑀は建安十七年(212年)ころ死し、徐幹・陳琳・王瑒・劉楨・王粲は、同二十二年217年に死んだ。
撰文懷人,感往增愴。其辭曰:
いま文をえらび集をつくり、その人を思い、それにつけても過ぎ去った日のことに心動かされて、悲しみいたむ情がいよいよ深い。その詩は次の通りいう。
・撰文 ここは、詩を撰定したこと。