83諸葛亮(孔明) 《出師表-後出師表》 漢詩 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3341
- 2013/11/24
- 00:30
出師表-後出師表-諸葛亮 漢詩 亮が以下のように申し上げる。「大軍は祁山と箕谷にあります。そのどちらも魏の賊軍が多くおるのです。ところが、我々がその賊軍を破ることができなくて反対に賊軍に打ち破られている現状なのです。つまりこの苦しい状況は我々の兵の数が少ないからではなく、その敗北の戦略責任はわたくし、ただ一人にあるのです。
83諸葛亮(孔明) 《出師表-後出師表》 漢詩 | kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3341 |
後出師表 #1
亮曰:「大軍在祁山﹑箕谷、皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、則此病不在兵少也、在一人耳。今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来;若不能然者、雖兵多何益!自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
#2
於是考微労、甄烈壮、引咎責躬、布所失於天下、厲兵講武、以為後図、戎士簡練、民忘其敗矣。亮聞孫権破曹休、魏兵東下、関中虚弱。
#2
十一月、上言曰:
「先帝慮漢﹑賊不両立、王業不偏安、故託臣以討賊也。以先帝之明、量臣之才、故知臣伐賊才弱敵強也;然不伐賊、王業亦亡、惟坐待亡、孰与伐之?是故託臣而弗疑也。
#3
臣受命之日、寝不安席、食不甘味、思惟北征、宜先入南、故五月渡瀘、深入不毛、并日而食。臣非不自惜也、顧王業不得偏全於蜀都、故冒危難以奉先帝之遺意也、而議者謂為非計。今賊適疲於西、又務於東、兵法乘労、此進趨之時也。
#4
謹陳其事如左:
高帝明並日月、謀臣淵深、然渉険被創、危然後安。今陛下未及高帝、謀臣不如良﹑平、而欲以長計取勝、坐定天下、此臣之未解一也。
#5
劉繇﹑王朗各拠州郡、論安言計、動引聖人、群疑満腹、衆難塞胸、今歳不戦、明年不征、使孫策坐大、遂并江東、此臣之未解二也。
#6
曹操智計殊絶於人、其用兵也、髣彿孫﹑呉、然困於南陽、険於烏巣、危於祁連、偪於黎陽、幾敗北山、殆死潼関、然後偽定一時耳、況臣才弱、而欲以不危而定之、此臣之未解参也。
#7
曹操五攻昌霸不下、四越巣湖不成、任用李服而李服図之、委夏侯而夏侯敗亡、先帝毎称操為能、猶有此失、況臣駑下、何能必勝?此臣之未解四也。
#8
自臣到漢中、中間期年耳、然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、若復数年、則損参分之二也、当何以図敵?此臣之未解五也。
#9
今民窮兵疲、而事不可息、事不可息、則住与行労費正等、而不及今図之、欲以一州之地与賊持久、此臣之未解六也。
#10
夫難平者、事也。昔先帝敗軍於楚、当此時、曹操拊手、謂天下以定。然後先帝東連呉﹑越、西取巴﹑蜀、挙兵北征、夏侯授首、此操之失計而漢事将成也。然後呉更違盟、関羽毀敗、秭帰蹉跌、曹丕称帝。凡事如是、難可逆見。臣鞠躬尽力、死而後已、至於成敗利鈍、非臣之明所能逆睹也」
是有散関之役。此表、亮集所無、出張儼黙記。
後出師表 #1
亮曰:「大軍在祁山﹑箕谷、
亮が以下のように申し上げる。「大軍は祁山と箕谷にあります。
皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、
そのどちらも魏の賊軍が多くおるのです。ところが、我々がその賊軍を破ることができなくて反対に賊軍に打ち破られている現状なのです。
則此病不在兵少也、在一人耳。
つまりこの苦しい状況は我々の兵の数が少ないからではなく、その敗北の戦略責任はわたくし、ただ一人にあるのです。
今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来;
今はまず、兵の数を減らして将軍の数を少なくすること、刑罰を明らかにして間違ったところについて明らかにすること、それから、事態に臨機応変に対処する方策を立てるためにいろんなことを引きあわせて調べることに致すことなのです。
若不能然者、雖兵多何益!
もしそうすることができなければ、我々の兵の数が多くても何の利益があるというのでしょうか。
自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、
こから後は、もろもろの事態に忠臣愛国、真心を維持し国をおもう、ひたすらに私のこれまでの過失を責めることに励みます。
則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
そうすれば万事定まって、賊は死ぬことになるでしょう。功績はつま先立ちをするように期待をして待つことができます」と。
亮曰く、「大軍は祁山【きざん】・箕谷【きこく】に在りて、
皆な賊多し、而るに賊を破る能わずして賊の破る所となるのは、
則ち此の病は兵の少なきにあらず、一人に在るのみ。
今、兵を減じ将を省かんとして、罰を明らかにし過ちを思い、変通【へんつう】の道を将来に校【くら】ぶ;
若【も】し然る能わざれば、兵の多きと雖も何の益かあらん。
今より已後【いご】、諸【もろも】ろを忠に国を慮【おもんばか】ること有りて、但だ吾の闕【けつ】を攻めることを勤めば、
則ち事は定まるべくして、賊は死すべし、功は足を蹻【あ】げて待つべし」と。
『後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) #1
亮曰:「大軍在祁山﹑箕谷、
皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、
則此病不在兵少也、在一人耳。
今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来;
若不能然者、雖兵多何益!
自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、
則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
(下し文)
亮曰く、「大軍は祁山【きざん】・箕谷【きこく】に在りて、
皆な賊多し、而るに賊を破る能わずして賊の破る所となるのは、
則ち此の病は兵の少なきにあらず、一人に在るのみ。
今、兵を減じ将を省かんとして、罰を明らかにし過ちを思い、変通【へんつう】の道を将来に校【くら】ぶ;
若【も】し然る能わざれば、兵の多きと雖も何の益かあらん。
今より已後【いご】、諸【もろも】ろを忠に国を慮【おもんばか】ること有りて、但だ吾の闕【けつ】を攻めることを勤めば、
則ち事は定まるべくして、賊は死すべし、功は足を蹻【あ】げて待つべし」と。
(現代語訳)
亮が以下のように申し上げる。「大軍は祁山と箕谷にあります。
そのどちらも魏の賊軍が多くおるのです。ところが、我々がその賊軍を破ることができなくて反対に賊軍に打ち破られている現状なのです。
つまりこの苦しい状況は我々の兵の数が少ないからではなく、その敗北の戦略責任はわたくし、ただ一人にあるのです。
今はまず、兵の数を減らして将軍の数を少なくすること、刑罰を明らかにして間違ったところについて明らかにすること、それから、事態に臨機応変に対処する方策を立てるためにいろんなことを引きあわせて調べることに致すことなのです。
もしそうすることができなければ、我々の兵の数が多くても何の利益があるというのでしょうか。
こから後は、もろもろの事態に忠臣愛国、真心を維持し国をおもう、ひたすらに私のこれまでの過失を責めることに励みます。
そうすれば万事定まって、賊は死ぬことになるでしょう。功績はつま先立ちをするように期待をして待つことができます」と。
(訳注)
後出師表 #1
建興6年(228年)、諸葛亮は劉禅に再び「出師表」を上奏したとされている。この時の文章は、先の「出師表」と区別して「後出師表」と呼ばれている。しかし、この文章は『三国志』の本文では言及されず、裴松之の注釈の中で、習鑿歯『漢晋春秋』から引用され、さらに陳寿の編纂した『諸葛亮集』にも見えず、呉の張儼『黙記』に見えると書かれている上、歴史事実との相違点が多い。こうしたことから後世の偽作とする見方が有力である。
亮曰:「大軍在祁山﹑箕谷、
亮が以下のように申し上げる。「大軍は祁山と箕谷に魏の曹真が在集している。
・祁山﹑箕谷 諸葛亮はまず斜谷道から郿を奪うと宣伝し、趙雲・鄧芝を囮とし、箕谷に布陣させた。魏の曹真が全軍を率いてこの方面に向かった隙に、自らは軍を率いて西に回り込み、祁山を攻めた。諸葛亮のこの動きに呼応して、天水・南安・安定の3郡が蜀に寝返った。この時、魏の天水郡の武将であった姜維が蜀に降伏している。
皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、
そのどちらも魏の賊軍が多くおるのです。ところが、我々がその賊軍を破ることができなくて反対に賊軍に打ち破られている現状なのです。
則此病不在兵少也、在一人耳。
つまりこの苦しい状況は我々の兵の数が少ないからではなく、その敗北の戦略責任はわたくし、ただ一人にあるのです。
今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来;
今はまず、兵の数を減らして将軍の数を少なくすること、刑罰を明らかにして間違ったところについて明らかにすること、それから、事態に臨機応変に対処する方策を立てるためにいろんなことを引きあわせて調べることに致すことなのです。
・校: いろんな事を引きあわせて調べる。
・変通: あらゆる物事に臨機応変に対処する。
若不能然者、雖兵多何益!
もしそうすることができなければ、我々の兵の数が多くても何の利益があるというのでしょうか。
自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、
こから後は、もろもろの事態に忠臣愛国、真心を維持し国をおもう、ひたすらに私のこれまでの過失を責めることに励みます。
則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
そうすれば万事定まって、賊は死ぬことになるでしょう。功績はつま先立ちをするように期待をして待つことができます」と。
・已後: それから後。
・闕: 欠点や過失のことです。
後出師表 #1
亮曰:「大軍在祁山﹑箕谷、
亮が以下のように申し上げる。「大軍は祁山と箕谷にあります。
皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、
そのどちらも魏の賊軍が多くおるのです。ところが、我々がその賊軍を破ることができなくて反対に賊軍に打ち破られている現状なのです。
則此病不在兵少也、在一人耳。
つまりこの苦しい状況は我々の兵の数が少ないからではなく、その敗北の戦略責任はわたくし、ただ一人にあるのです。
今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来;
今はまず、兵の数を減らして将軍の数を少なくすること、刑罰を明らかにして間違ったところについて明らかにすること、それから、事態に臨機応変に対処する方策を立てるためにいろんなことを引きあわせて調べることに致すことなのです。
若不能然者、雖兵多何益!
もしそうすることができなければ、我々の兵の数が多くても何の利益があるというのでしょうか。
自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、
こから後は、もろもろの事態に忠臣愛国、真心を維持し国をおもう、ひたすらに私のこれまでの過失を責めることに励みます。
則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
そうすれば万事定まって、賊は死ぬことになるでしょう。功績はつま先立ちをするように期待をして待つことができます」と。
亮曰く、「大軍は祁山【きざん】・箕谷【きこく】に在りて、
皆な賊多し、而るに賊を破る能わずして賊の破る所となるのは、
則ち此の病は兵の少なきにあらず、一人に在るのみ。
今、兵を減じ将を省かんとして、罰を明らかにし過ちを思い、変通【へんつう】の道を将来に校【くら】ぶ;
若【も】し然る能わざれば、兵の多きと雖も何の益かあらん。
今より已後【いご】、諸【もろも】ろを忠に国を慮【おもんばか】ること有りて、但だ吾の闕【けつ】を攻めることを勤めば、
則ち事は定まるべくして、賊は死すべし、功は足を蹻【あ】げて待つべし」と。
#2
於是考微労、甄烈壮、
これからは微に入り細に入って苦労することをおしまず、勇ましく激しい兵士を育てるのです。
引咎責躬、布所失於天下、
責任の所在をはっきりさせ、信賞必罰にします。そして、天下の人にも過失のあるところを公明正大にします。
厲兵講武、以為後図、
それには兵士たちを鍛えて武術を鍛錬させる、まずそんな風に将来の計画をたてます。
戎士簡練、民忘其敗矣。
兵士たちは選び出されて鍛えてゆき、民衆は前に戦に負けたことも忘れるほどになる。
亮聞孫権破曹休、魏兵東下、関中虚弱。
私、亮は以下を把握しています、それは“呉の孫権が魏の曹休を破り、魏の兵は東に下がって、関中地方での勢力が弱まっている”のです。
是に於て微に労を考え、烈壮【れっそう】を甄【そだ】て、
引咎【いんきゅう】して躬【み】を責め、天下に失うところを布【の】べ、
兵を厲【みが】き武を講じて、以て後図【こうと】を為し、
戎士【じゅうし】は簡練【かんれん】し、民は其の敗るるを忘る。
亮は孫権の曹休を破り、魏の兵は東に下り、関中は虚弱たるを聞けり。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文)#2 於是考微労、甄烈壮、
引咎責躬、布所失於天下、
厲兵講武、以為後図、
戎士簡練、民忘其敗矣。
亮聞孫権破曹休、魏兵東下、関中虚弱。
(下し文)
是に於て微に労を考え、烈壮【れっそう】を甄【そだ】て、
引咎【いんきゅう】して躬【み】を責め、天下に失うところを布【の】べ、
兵を厲【みが】き武を講じて、以て後図【こうと】を為し、
戎士【じゅうし】は簡練【かんれん】し、民は其の敗るるを忘る。
亮は孫権の曹休を破り、魏の兵は東に下り、関中は虚弱たるを聞けり。
(現代語訳)
これからは微に入り細に入って苦労することをおしまず、勇ましく激しい兵士を育てるのです。
責任の所在をはっきりさせ、信賞必罰にします。そして、天下の人にも過失のあるところを公明正大にします。
それには兵士たちを鍛えて武術を鍛錬させる、まずそんな風に将来の計画をたてます。
兵士たちは選び出されて鍛えてゆき、民衆は前に戦に負けたことも忘れるほどになる。
私、亮は以下を把握しています、それは“呉の孫権が魏の曹休を破り、魏の兵は東に下がって、関中地方での勢力が弱まっている”のです。
私、亮は以下を把握しています、それは“呉の孫権が魏の曹休を破り、魏の兵は東に下がって、関中地方での勢力が弱まっている”のです。
(訳注) #2
於是考微労、甄烈壮、
これからは微に入り細に入って苦労することをおしまず、勇ましく激しい兵士を育てるのです。
・烈壮: 勇ましく、激しいこと。
引咎責躬、布所失於天下、
責任の所在をはっきりさせ、信賞必罰にします。そして、天下の人にも過失のあるところを公明正大にします。
・引咎: 責任を負う。
厲兵講武、以為後図、
それには兵士たちを鍛えて武術を鍛錬させる、まずそんな風に将来の計画をたてます。
・講武: 武術を習って鍛錬する。
・後図: 将来への計画。
戎士簡練、民忘其敗矣。
兵士たちは選び出されて鍛えてゆき、民衆は前に戦に負けたことも忘れるほどになる。
・簡練: 選び出して鍛える。
亮聞孫権破曹休、魏兵東下、関中虚弱。
私、亮は以下を把握しています、それは“呉の孫権が魏の曹休を破り、魏の兵は東に下がって、関中地方での勢力が弱まっている”のです。
・関中:函谷関から長安地方。
#3
十一月、上言曰:
そこで十一月になったので、主君(劉禅)に以下のように申し上げる。
「先帝慮漢﹑賊不両立、
「先帝(劉備)は漢の再興に配慮されて、賊(魏)に並び立ってはいけないと思っておられた。
王業不偏安、故託臣以討賊也。
それに天下を治めるための事業は安定している状況とは言えなく、それゆえ、先帝は家臣の私に後のこと、賊討伐を託されたのです。
以先帝之明、量臣之才、
先帝の明晰な知恵によって、家臣の才能を推量なされた。
故知臣伐賊才弱敵強也;
魏という敵が強いことを理解しておられ、賊を征伐するには家臣の才能が乏しいと思っておられた。そう思われたからこそ先帝は、家臣の私に後のことを託して疑うことはなかったのです。
然不伐賊、王業亦亡、
だからといって賊を討伐てず、それによって天下統一して治めることも失ってしまうことはできない。
惟坐待亡、孰与伐之?
ただ目の前の状況をそのままにして自分が滅びるのを待つようであれば、一体誰が賊を討伐できるのだろうか?
是故託臣而弗疑也。
そう思われたからこそ先帝は、家臣の私に後のことを託して疑うことはなかったのです
十一月、上言して曰く、
「先帝は漢を慮【おもんぱか】り﹑賊に両立せず、
王業は偏【ひとえ】には安からず、故に臣に託して以て賊を討たんとするなり。
先帝の明を以て、臣の才を量れば、
故に臣の賊を伐つに才の弱く敵の強きを知るなり。
然るに賊を伐たず、王業も亦た亡び、
惟だ坐して亡ぶるを待つ、孰【いずれ】か与【とも】に之を伐たん?
是の故に臣に託して疑わざるなり。
#4
臣受命之日、寝不安席、
食不甘味、思惟北征、
宜先入南、故五月渡瀘、
深入不毛、并日而食。
臣非不自惜也、顧王業不得偏全於蜀都、
故冒危難以奉先帝之遺意也、而議者謂為非計。
今賊適疲於西、又務於東、
兵法乘労、此進趨之時也。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) #3
十一月、上言曰:
「先帝慮漢﹑賊不両立、
王業不偏安、故託臣以討賊也。
以先帝之明、量臣之才、
故知臣伐賊才弱敵強也;
然不伐賊、王業亦亡、
惟坐待亡、孰与伐之?
是故託臣而弗疑也。
(下し文) #3
十一月、上言して曰く、
「先帝は漢を慮【おもんぱか】り﹑賊に両立せず、
王業は偏【ひとえ】には安からず、故に臣に託して以て賊を討たんとするなり。
先帝の明を以て、臣の才を量れば、
故に臣の賊を伐つに才の弱く敵の強きを知るなり。
然るに賊を伐たず、王業も亦た亡び、
惟だ坐して亡ぶるを待つ、孰【いずれ】か与【とも】に之を伐たん?
是の故に臣に託して疑わざるなり。
(現代語訳)
そこで十一月になったので、主君(劉禅)に以下のように申し上げる。
「先帝(劉備)は漢の再興に配慮されて、賊(魏)に並び立ってはいけないと思っておられた。
それに天下を治めるための事業は安定している状況とは言えなく、それゆえ、先帝は家臣の私に後のこと、賊討伐を託されたのです。
先帝の明晰な知恵によって、家臣の才能を推量なされた。
魏という敵が強いことを理解しておられ、賊を征伐するには家臣の才能が乏しいと思っておられた。
だからといって賊を討伐てず、それによって天下統一して治めることも失ってしまうことはできない。
ただ目の前の状況をそのままにして自分が滅びるのを待つようであれば、一体誰が賊を討伐できるのだろうか?
そう思われたからこそ先帝は、家臣の私に後のことを託して疑うことはなかったのです。
(訳注) #3
十一月、上言曰:
そこで十一月になったので、主君(劉禅)に以下のように申し上げる。
「先帝慮漢﹑賊不両立、
「先帝(劉備)は漢の再興に配慮されて、賊(魏)に並び立ってはいけないと思っておられた。
王業不偏安、故託臣以討賊也。
それに天下を治めるための事業は安定している状況とは言えなく、それゆえ、先帝は家臣の私に後のこと、賊討伐を託されたのです。
・王業:帝王として天下をおさめる事業。
以先帝之明、量臣之才、
先帝の明晰な知恵によって、家臣の才能を推量なされた。
故知臣伐賊才弱敵強也;
魏という敵が強いことを理解しておられ、賊を征伐するには家臣の才能が乏しいと思っておられた。
然不伐賊、王業亦亡、
だからといって賊を討伐てず、それによって天下統一して治めることも失ってしまうことはできない。
惟坐待亡、孰与伐之?
ただ目の前の状況をそのままにして自分が滅びるのを待つようであれば、一体誰が賊を討伐できるのだろうか?
是故託臣而弗疑也。
そう思われたからこそ先帝は、家臣の私に後のことを託して疑うことはなかったのです。
#4
臣受命之日、寝不安席、
家臣としてその命令を受けた日は、寝るのに寝床に安心して居ることはできませんでした。
食不甘味、思惟北征、
食事をするときもその味をあじわくこともできませんし、ただ、私の気持ちは魏を討つ北征にあるだけでした。
宜先入南、故五月渡瀘、
そのためにはまず南方を平定しなければいけないのです。ゆえに五月に瀘水渡り攻め込むことにしたのです。
深入不毛、并日而食。
土地の性質が悪く農作物も十分に育たないような土地に深く入り込んで、二日に一度食事を取るほどの苦心をしたのです。
臣非不自惜也、顧王業不得偏全於蜀都、
家臣の私はその苦しみを自ら惜しいと思わないわけではないのです。天下統一を治めることを常に考えてこの蜀の都を他の二国に比較して劣ることのない状態に保つことはできていない現状なのです。
故冒危難以奉先帝之遺意也、而議者謂為非計。
ゆえに危険を冒してでも先帝が私に託されたご意思を大切にして万事を行っているのです。しかしあれこれと文句をつける者たちはこれを良いはかりごとではないと言っているのです。
今賊適疲於西、又務於東、
現在、賊軍は西のまもりをするのに疲弊しており、その状態でまた呉対策の東に備えているのです。
兵法乘労、此進趨之時也。
兵法の基本は相手が疲れ苦労しているときそれに乗じること、この趨勢に時機を逸しないで進攻することなのです。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) #4 臣受命之日、寝不安席、
食不甘味、思惟北征、
宜先入南、故五月渡瀘、
深入不毛、并日而食。
臣非不自惜也、顧王業不得偏全於蜀都、
故冒危難以奉先帝之遺意也、而議者謂為非計。
今賊適疲於西、又務於東、
兵法乘労、此進趨之時也。
(下し文) #4
臣の命を受くるの日、寝ても席に安んぜず、
食べても味を甘しとせず、思は惟【た】だ北征にあるのみ。宜しく先んじて南に入るべし、
故に五月に瀘【ろ】を渡り、深く不毛に入り、
日を并【あわ】せて食らう。
臣は自ら惜まざるに非ざるなり、王業を顧みて偏に蜀都【しょくと】を全【まっと】うするを得ず、
故に危難を冒して以て先帝の遺意【いい】を奉ずるなり、而れども議する者は非計を為すと謂う。
今、賊は適きて西に疲れ、又た東に務む、
兵法は労するに乗ず、此れ進趨の時なり。
(現代語訳)
家臣としてその命令を受けた日は、寝るのに寝床に安心して居ることはできませんでした。
食事をするときもその味をあじわくこともできませんし、ただ、私の気持ちは魏を討つ北征にあるだけでした。
そのためにはまず南方を平定しなければいけないのです。ゆえに五月に瀘水渡り攻め込むことにしたのです。
土地の性質が悪く農作物も十分に育たないような土地に深く入り込んで、二日に一度食事を取るほどの苦心をしたのです。
家臣の私はその苦しみを自ら惜しいと思わないわけではないのです。天下統一を治めることを常に考えてこの蜀の都を他の二国に比較して劣ることのない状態に保つことはできていない現状なのです。
ゆえに危険を冒してでも先帝が私に託されたご意思を大切にして万事を行っているのです。しかしあれこれと文句をつける者たちはこれを良いはかりごとではないと言っているのです。
現在、賊軍は西のまもりをするのに疲弊しており、その状態でまた呉対策の東に備えているのです。
兵法の基本は相手が疲れ苦労しているときそれに乗じること、この趨勢に時機を逸しないで進攻することなのです。
(訳注) #4
臣受命之日、寝不安席、
家臣としてその命令を受けた日は、寝るのに寝床に安心して居ることはできませんでした。
食不甘味、思惟北征、
食事をするときもその味をあじわくこともできませんし、ただ、私の気持ちは魏を討つ北征にあるだけでした。
宜先入南、故五月渡瀘、
そのためにはまず南方を平定しなければいけないのです。ゆえに五月に瀘水渡り攻め込むことにしたのです。
・瀘: 川の名。瀘水。今の金沙江。雲南省を流れて、四川省で岷江と合流して長江に合流。
深入不毛、并日而食。
土地の性質が悪く農作物も十分に育たないような土地に深く入り込んで、二日に一度食事を取るほどの苦心をしたのです。
・不毛: 土地の性質が悪くて、農作物が十分に育たない土地。ここでは魏のことをいう。諸葛亮の問題点であるが攻め込む際に蜀量を豊富に持っていかないで現地での調達を考えているので、肥沃でない処責めていくという意味になる
臣非不自惜也、顧王業不得偏全於蜀都、
家臣の私はその苦しみを自ら惜しいと思わないわけではないのです。天下統一を治めることを常に考えてこの蜀の都を他の二国に比較して劣ることのない状態に保つことはできていない現状なのです。
故冒危難以奉先帝之遺意也、而議者謂為非計。
ゆえに危険を冒してでも先帝が私に託されたご意思を大切にして万事を行っているのです。しかしあれこれと文句をつける者たちはこれを良いはかりごとではないと言っているのです。
今賊適疲於西、又務於東、
現在、賊軍は西のまもりをするのに疲弊しており、その状態でまた呉対策の東に備えているのです。
兵法乘労、此進趨之時也。
兵法の基本は相手が疲れ苦労しているときそれに乗じること、この趨勢に時機を逸しないで進攻することなのです。
後出師表 99-#1
亮曰:「大軍在祁山﹑箕谷、
皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、
則此病不在兵少也、在一人耳。
今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来;
若不能然者、雖兵多何益!
自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、
則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
99-#2
於是考微労、甄烈壮、引咎責躬、布所失於天下、厲兵講武、以為後図、戎士簡練、民忘其敗矣。亮聞孫権破曹休、魏兵東下、関中虚弱。
99-#3
十一月、上言曰:
「先帝慮漢﹑賊不両立、王業不偏安、故託臣以討賊也。以先帝之明、量臣之才、故知臣伐賊才弱敵強也;然不伐賊、王業亦亡、惟坐待亡、孰与伐之?是故託臣而弗疑也。
99-#4
臣受命之日、寝不安席、食不甘味、思惟北征、宜先入南、故五月渡瀘、深入不毛、并日而食。臣非不自惜也、顧王業不得偏全於蜀都、故冒危難以奉先帝之遺意也、而議者謂為非計。今賊適疲於西、又務於東、兵法乘労、此進趨之時也。
99-#5
謹陳其事如左:
高帝明並日月、謀臣淵深、
然渉険被創、危然後安。
今陛下未及高帝、謀臣不如良﹑
平、而欲以長計取勝、
坐定天下、此臣之未解一也。
99-#6
劉繇﹑王朗各拠州郡、論安言計、
動引聖人、群疑満腹、衆難塞胸、
今歳不戦、明年不征、使孫策坐大、
遂并江東、此臣之未解二也。
99-#7
曹操智計殊絶於人、其用兵也、
髣彿孫﹑呉、然困於南陽、険於烏巣、危於祁連、偪於黎陽、幾敗北山、殆死潼関、然後偽定一時耳、況臣才弱、而欲以不危而定之、此臣之未解参也。
99-#8
曹操五攻昌霸不下、四越巣湖不成、任用李服而李服図之、委夏侯而夏侯敗亡、先帝毎称操為能、猶有此失、況臣駑下、何能必勝?此臣之未解四也。
99-#9
自臣到漢中、中間期年耳、然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、若復数年、則損参分之二也、当何以図敵?此臣之未解五也。
99-#10
今民窮兵疲、而事不可息、事不可息、則住与行労費正等、而不及今図之、欲以一州之地与賊持久、此臣之未解六也。
99-#11
夫難平者、事也。昔先帝敗軍於楚、当此時、曹操拊手、謂天下以定。
然後先帝東連呉﹑越、西取巴﹑蜀、挙兵北征、夏侯授首、此操之失計而漢事将成也。
99-#12
然後呉更違盟、関羽毀敗、秭帰蹉跌、曹丕称帝。凡事如是、難可逆見。臣鞠躬尽力、死而後已、至於成敗利鈍、非臣之明所能逆睹也」
是有散関之役。此表、亮集所無、出張儼黙記。
出師表-後出師表-諸葛亮 漢詩<99-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩832 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2708
99-#5
謹陳其事如左:
謹んで陛下にそのことを左記(以下)の通り陳述いたします。
高帝明並日月、謀臣淵深、
高帝(漢の高祖=劉邦)は、明晰な知恵はまるで太陽や月のようであり、智謀のたくみな部下たちは奥深い知恵を備えていた。
然渉険被創、危然後安。
それでいても危険なところを進んでいって傷を受けたのに、その危険な状況が後には安全なものになっていくのです。
今陛下未及高帝、謀臣不如良﹑平、
そこで今段階、陛下はいまだ劉邦には及びはしない。はかりごとをする部下たちも劉邦の有名な参謀である張良(ちょうりょう)や陳平(ちんぺい)にはとても及びません。
而欲以長計取勝、坐定天下、
そうであるにもかかわらず、すぐれた計画を立てること、計略して勝利をなしとげたいとだけなのである。何もせずに天下を平定しようとされているとおもわれるのです。
此臣之未解一也。
これは臣下である私がいまだ理解していないことの一点目です。
99-#6
劉繇﹑王朗各拠州郡、
論安言計、動引聖人、
群疑満腹、衆難塞胸、
今歳不戦、明年不征、
使孫策坐大、遂并江東、
此臣之未解二也。
#-5
謹んで其の事を陳【の】ぶれば左の如し:
高帝【こうてい】の明なるは日月に並び、謀臣【ぼうしん】は淵深【しんえん】なり、
然れども険【けん】を渉【わた】りて創【きず】を被【こうむ】り、危くして然る後に安し。
今の陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は良・平に如かず、
而れども長計【ちょうけい】を以て勝を計り、坐して天下を定めんと欲するは、此れ臣の未だ解せざるの一なり。
#-6
劉繇【りゅうよう】・王朗は各【おのお)の州郡に拠りて、
安きを論じて計を言い、動くに聖人を引くも、
群疑【ぐんぎ】は腹を満たし、衆難【しゅうなん】は胸を塞【ふさ】ぎ、
今歳【こんさい】にして戦わず、明年にして征せず、
孫策【そんさく】をして坐【いながら】に大ならしめて、遂に江東を并【あわ】さる、
此れ臣の未だ解せざるの二なり。
『後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) 99-#5
謹陳其事如左:
高帝明並日月、謀臣淵深、
然渉険被創、危然後安。
今陛下未及高帝、謀臣不如良﹑平、
而欲以長計取勝、坐定天下、此臣之未解一也。
(下し文) #-5
謹んで其の事を陳【の】ぶれば左の如し:
高帝【こうてい】の明なるは日月に並び、謀臣【ぼうしん】は淵深【しんえん】なり、
然れども険【けん】を渉【わた】りて創【きず】を被【こうむ】り、危くして然る後に安し。
今の陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は良・平に如かず、
而れども長計【ちょうけい】を以て勝を計り、坐して天下を定めんと欲するは、此れ臣の未だ解せざるの一なり。
(現代語訳)
謹んで陛下にそのことを左記(以下)の通り陳述いたします。
高帝(漢の高祖=劉邦)は、明晰な知恵はまるで太陽や月のようであり、智謀のたくみな部下たちは奥深い知恵を備えていた。
それでいても危険なところを進んでいって傷を受けたのに、その危険な状況が後には安全なものになっていくのです。
そこで今段階、陛下はいまだ劉邦には及びはしない。はかりごとをする部下たちも劉邦の有名な参謀である張良(ちょうりょう)や陳平(ちんぺい)にはとても及びません。
そうであるにもかかわらず、すぐれた計画を立てること、計略して勝利をなしとげたいとだけなのである。何もせずに天下を平定しようとされているとおもわれるのです。
これは臣下である私がいまだ理解していないことの一点目です。
(訳注) 99-#5
謹陳其事如左:
謹んで陛下にそのことを左記(以下)の通り陳述いたします。
高帝明並日月、謀臣淵深、
高帝(漢の高祖=劉邦)は、明晰な知恵はまるで太陽や月のようであり、智謀のたくみな部下たちは奥深い知恵を備えていた。
・高帝: 漢の高祖のこと。
・高祖: (紀元前 247 ~紀元前 195 )前漢の初代皇帝で、
在位は紀元前 206 ~紀元前 195 です。姓名は劉邦で字は季です。江蘇省の沛の人。項羽らとともに秦を滅ぼした。のちに項羽と争って帝位につき漢王朝をたて、都を長安に定めた。沛公のこと。
・謀臣: はかりごとの巧みな部下。
・淵深: 奥深いこと。
然渉険被創、危然後安。
それでいても危険なところを進んでいって傷を受けたのに、その危険な状況が後には安全なものになっていくのです。
今陛下未及高帝、謀臣不如良﹑平、
そこで今段階、陛下はいまだ劉邦には及びはしない。はかりごとをする部下たちも劉邦の有名な参謀である張良(ちょうりょう)や陳平(ちんぺい)にはとても及びません。
・張良: (未詳~前 189 )前漢の高祖の謀臣で、字は子房。先祖は秦に滅ぼされた韓の国の宰相であったので、秦に報復するため始皇帝を博浪沙で討とうとしたが失敗した。
のち、蕭何や・韓信らとともに高祖を輔佐して天下を統一させた。漢の三傑の一人に挙げられている。
・陳平:(未詳- 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。 当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。
而欲以長計取勝、坐定天下、
そうであるにもかかわらず、すぐれた計画を立てること、計略して勝利をなしとげたいとだけなのである。何もせずに天下を平定しようとされているとおもわれるのです。
・長計: すぐれた計画。
此臣之未解一也。
これは臣下である私がいまだ理解していないことの一点目です。
99-#5
謹陳其事如左:
謹んで陛下にそのことを左記(以下)の通り陳述いたします。
高帝明並日月、謀臣淵深、
高帝(漢の高祖=劉邦)は、明晰な知恵はまるで太陽や月のようであり、智謀のたくみな部下たちは奥深い知恵を備えていた。
然渉険被創、危然後安。
それでいても危険なところを進んでいって傷を受けたのに、その危険な状況が後には安全なものになっていくのです。
今陛下未及高帝、謀臣不如良﹑平、
そこで今段階、陛下はいまだ劉邦には及びはしない。はかりごとをする部下たちも劉邦の有名な参謀である張良(ちょうりょう)や陳平(ちんぺい)にはとても及びません。
而欲以長計取勝、坐定天下、
そうであるにもかかわらず、すぐれた計画を立てること、計略して勝利をなしとげたいとだけなのである。何もせずに天下を平定しようとされているとおもわれるのです。
此臣之未解一也。
これは臣下である私がいまだ理解していないことの一点目です。
99-#6
劉繇﹑王朗各拠州郡、
御存じの様に、後漢末期、長江下流域の江東を治めていた劉繇や王朗はそれぞれ州や郡に拠点を構えていた。
論安言計、動引聖人、
国を安定させることを論じてそのためのはかりごとのことを言い、行動指針は聖人の言葉を引いていた。
群疑満腹、衆難塞胸、
多くの疑義に満腹状態になり、多くの苦難に心をふさがれてしまって、江東に新たに勢力を伸ばしてきたのが孫策(孫権の兄そんさく)である。
今歳不戦、明年不征、
孫策という新勢力に対し今年には戦わず、次の年には征伐をすることもしない。
使孫策坐大、遂并江東、
そんな状況だから孫策の勢力はひとりでに大きくなってきて、ついには孫策に江東を併合されてしまったのです。
此臣之未解二也。
これは臣下の私がいまだ理解していない二点目です。
#-5
謹んで其の事を陳【の】ぶれば左の如し:
高帝【こうてい】の明なるは日月に並び、謀臣【ぼうしん】は淵深【しんえん】なり、
然れども険【けん】を渉【わた】りて創【きず】を被【こうむ】り、危くして然る後に安し。
今の陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は良・平に如かず、
而れども長計【ちょうけい】を以て勝を計り、坐して天下を定めんと欲するは、此れ臣の未だ解せざるの一なり。
#-6
劉繇【りゅうよう】・王朗は各【おのお)の州郡に拠りて、
安きを論じて計を言い、動くに聖人を引くも、
群疑【ぐんぎ】は腹を満たし、衆難【しゅうなん】は胸を塞【ふさ】ぎ、
今歳【こんさい】にして戦わず、明年にして征せず、
孫策【そんさく】をして坐【いながら】に大ならしめて、遂に江東を并【あわ】さる、
此れ臣の未だ解せざるの二なり。
『後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) 99-#6 劉繇﹑王朗各拠州郡、
論安言計、動引聖人、
群疑満腹、衆難塞胸、
今歳不戦、明年不征、
使孫策坐大、遂并江東、
此臣之未解二也。
(下し文) #-6
劉繇【りゅうよう】・王朗は各【おのお)の州郡に拠りて、
安きを論じて計を言い、動くに聖人を引くも、
群疑【ぐんぎ】は腹を満たし、衆難【しゅうなん】は胸を塞【ふさ】ぎ、
今歳【こんさい】にして戦わず、明年にして征せず、
孫策【そんさく】をして坐【いながら】に大ならしめて、遂に江東を并【あわ】さる、
此れ臣の未だ解せざるの二なり。
(現代語訳)
御存じの様に、後漢末期、長江下流域の江東を治めていた劉繇や王朗はそれぞれ州や郡に拠点を構えていた。
国を安定させることを論じてそのためのはかりごとのことを言い、行動指針は聖人の言葉を引いていた。
多くの疑義に満腹状態になり、多くの苦難に心をふさがれてしまって、江東に新たに勢力を伸ばしてきたのが孫策(孫権の兄そんさく)である。
孫策という新勢力に対し今年には戦わず、次の年には征伐をすることもしない。
そんな状況だから孫策の勢力はひとりでに大きくなってきて、ついには孫策に江東を併合されてしまったのです。
これは臣下の私がいまだ理解していない二点目です。
(訳注) #6
劉繇﹑王朗各拠州郡、
御存じの様に、後漢末期、長江下流域の江東を治めていた劉繇や王朗はそれぞれ州や郡に拠点を構えていた。
・劉繇(りゅう よう、156年 - 197年)は、中国後漢末期の政治家。字は正礼。青州東莱郡牟平県(山東省煙台市牟平区)の人。漢の皇族の一人で、前漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭(劉肥の子)の少子の牟平共侯劉渫の直系末孫にあたる。祖父は劉本(劉丕とも、平原郡般県令)。父は劉輿(劉方とも、山陽太守)。伯父は劉寵(字は祖栄、会稽太守。陳王劉寵とは別人。)・劉韙。兄は劉岱ら。子は劉基・劉鑠・劉尚。『三国志』呉志に伝がある。
・王朗 王 朗(おう ろう、未詳 - 太和2年(228年))は、中国後漢末期から三国時代の政治家。徐州東海郡郯県(現:江蘇省連雲港市東海県)の人。字は景興。子は王粛。甥(兄の子)は王詳。孫は王元姫。『三国志』魏書に伝がある。『魏略』によれば、元の諱は厳であったという。なお、于禁を曹操に推挙した同姓同名の別人がいる。
論安言計、動引聖人、
国を安定させることを論じてそのためのはかりごとのことを言い、行動指針は聖人の言葉を引いていた。
群疑満腹、衆難塞胸、
多くの疑義に満腹状態になり、多くの苦難に心をふさがれてしまって、江東に新たに勢力を伸ばしてきたのが孫策(孫権の兄そんさく)である。
今歳不戦、明年不征、
孫策という新勢力に対し今年には戦わず、次の年には征伐をすることもしない。
使孫策坐大、遂并江東、
そんな状況だから孫策の勢力はひとりでに大きくなってきて、ついには孫策に江東を併合されてしまったのです。
此臣之未解二也。
これは臣下の私がいまだ理解していない二点目です。
2-2-3#7
曹操智計,殊絕於人,其用兵也,
曹操の知力と計略は、すぐれていて他の人たちとは全く違い、その兵法を用いることにある。
仿怫孫、吳,然困於南陽,
まるで兵法の書物でも有名な孫子(そんし)や呉子(ごし)を思わせるほどのものです。そうであるにもかかわらず、南陽の地で苦しめられた。
險於烏巢,危於祁連,
烏巣(うそう)では危険であったし、祁連(きれん)山でも危うい状況であった。
逼於黎陽,幾敗北山,
黎陽(れいよう)の地では敵に迫られて、北山では何度も敗北したのだ。
殆死潼關,然後偽定一時耳;
潼関では全軍ほとんど全滅状態なり、その後にやっと一時の見せかけ安定状態に持ちこたえたのです。
況臣才弱,而欲以不危而定之:
ましてや陛下の臣下である私の才能は乏しいのですから、それなのに危険を冒さずに国を安定させようとすることなどできるはずがないのです。
此臣之未解三也。
これは臣下の私がいまだに理解していないことの三点目です。
2-2-4#8
曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,
任用李服而李服圖之,委任夏侯而夏侯敗亡,
先帝每稱操為能,猶有此失;
況臣弩下,何能必勝:
此臣之未解四也。
#7
曹操の智計【ちけい】は殊【こと】に人に絶し、其の兵を用いるや、
孫・呉を髣彿【ほうふつ】とさせる、然るに南陽に困しみ、
烏巣【うそう】に険しく、祁連【きれん】に危うく、
黎陽【れいよう】に偪【せま】られ、幾たびも北山【ほくざん】に敗れ、
殆【ほと】んど潼関に死し、然る後に偽りて一時を定むるのみ、
況んや臣の才の弱く、而して以て危うからずして之を定めんと欲するにおいてをや。
此れ臣の未だ解せざるの参【さん】なり。
『出師表-後出師表』-諸葛亮 現代語訳と訳註
(本文) 2-2-3#7
曹操智計,殊絕於人,其用兵也,
仿怫孫、吳,然困於南陽,
險於烏巢,危於祁連,
逼於黎陽,幾敗北山,
殆死潼關,然後偽定一時耳;
況臣才弱,而欲以不危而定之:
此臣之未解三也。
(下し文)
曹操の智計【ちけい】は殊【こと】に人に絶し、其の兵を用いるや、
孫・呉を髣彿【ほうふつ】とさせる、然るに南陽に困しみ、
烏巣【うそう】に険しく、祁連【きれん】に危うく、
黎陽【れいよう】に偪【せま】られ、幾たびも北山【ほくざん】に敗れ、
殆【ほと】んど潼関に死し、然る後に偽りて一時を定むるのみ、
況んや臣の才の弱く、而して以て危うからずして之を定めんと欲するにおいてをや。
此れ臣の未だ解せざるの参【さん】なり。
(現代語訳)
曹操の知力と計略は、すぐれていて他の人たちとは全く違い、その兵法を用いることにある。
まるで兵法の書物でも有名な孫子(そんし)や呉子(ごし)を思わせるほどのものです。そうであるにもかかわらず、南陽の地で苦しめられた。
烏巣(うそう)では危険であったし、祁連(きれん)山でも危うい状況であった。
黎陽(れいよう)の地では敵に迫られて、北山では何度も敗北したのだ。
潼関では全軍ほとんど全滅状態なり、その後にやっと一時の見せかけ安定状態に持ちこたえたのです。
ましてや陛下の臣下である私の才能は乏しいのですから、それなのに危険を冒さずに国を安定させようとすることなどできるはずがないのです。
これは臣下の私がいまだに理解していないことの三点目です。
(訳注)2-2-3#7
曹操智計,殊絕於人,其用兵也,
曹操の知力と計略は、すぐれていて他の人たちとは全く違い、その兵法を用いることにある。
・智計 知力と計略。
仿怫孫、吳,然困於南陽,
まるで兵法の書物でも有名な孫子(そんし)や呉子(ごし)を思わせるほどのものです。そうであるにもかかわらず、南陽の地で苦しめられた。
・孫 春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書。後に武経七書の一つに数えられている。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。 『孫子』の成立以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦史研究の結果から、戦争には勝った理由、負けた理由があり得ることを分析した。『孫子』の意義はここにある。 著者と目される孫武は、紀元前500年ごろに生きた人物で、当時新興国であった呉に仕え、その勢力拡大に大いに貢献した。
・吳 春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。古くから『孫子』と並び評されていた。しかし著者ははっきりとしない。中身の主人公でもある呉起またはその門人が著者であると言われるが、定かではない。 内容は呉起を主人公とした物語形式となっている。現存している『呉子』は六篇だが、『漢書』「芸文志」には「呉子四十八篇」と記されている。 部隊編制の方法、状況・地形毎の戦い方、兵の士気の上げ方、騎兵・戦車・弩・弓の運用方法などを説いている。
・南陽 春秋時代には楚に属する宛と呼ばれる都市であり、金属工業が盛んだった。秦の時代に強制的に移民が送り込まれて南陽郡が設置され、前漢の時代に発展が進んだ。後漢を興した光武帝は、この都市周辺の南陽盆地を勢力基盤としていた。後漢後期の140年(永和5)では、南陽郡の人口は52万戸で全土で最高を記録している。その後も、中国における経済、文化の中心地の一つとして発展を続けた。古代中国の科学者、文学者で地震計を発明したとされる張衡が南陽の出身である。
險於烏巢,危於祁連,
烏巣(うそう)では危険であったし、祁連(きれん)山でも危うい状況であった。
・烏巢 215年に起こった戦いが有名で、孫権が劉備に荊州の一部返還を求めた際、劉備側から条件として曹操を攻めるように依頼されたことから始まった。孫権率いる大軍勢が張遼・楽進・李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。208年、赤壁の戦いで孫権、劉備の連合軍は烏林で曹操の軍を打ち破り曹操はまず江陵にそして荊州守備を部将たちに任せると許昌へと撤退した。周瑜らの曹操迎撃軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を率いて江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。
・祁連 祁連山草原和世界第三大峽谷的黑河大峽谷。
逼於黎陽,幾敗北山,
黎陽(れいよう)の地では敵に迫られて、北山では何度も敗北したのだ。
・黎陽 官渡の戦いで敗れた袁紹は病没した後、袁譚と袁尚が袁家の後継をめぐり争った。曹操は内紛につけこんで袁譚・袁尚と黎陽で戦い、これを破った。
・北山 夏侯淵が敗北すると、曹公は漢中の地を争い、北山の麓に運んだ軍糧米は数千万囊もあった。
殆死潼關,然後偽定一時耳;
潼関では全軍ほとんど全滅状態なり、その後にやっと一時の見せかけ安定状態に持ちこたえたのです。
・潼関 南流した黄河が華山につき当たって東に向かう屈曲点に位置し,また西からは渭水が注いで天下の険をなし,古来中原地方から関中に入る最大の要地として有名である。
況臣才弱,而欲以不危而定之:
ましてや陛下の臣下である私の才能は乏しいのですから、それなのに危険を冒さずに国を安定させようとすることなどできるはずがないのです。
此臣之未解三也。
これは臣下の私がいまだに理解していないことの三点目です。
2-2-3#7
曹操智計,殊絕於人,其用兵也,
曹操の知力と計略は、すぐれていて他の人たちとは全く違い、その兵法を用いることにある。
仿怫孫、吳,然困於南陽,
まるで兵法の書物でも有名な孫子(そんし)や呉子(ごし)を思わせるほどのものです。そうであるにもかかわらず、南陽の地で苦しめられた。
險於烏巢,危於祁連,
烏巣(うそう)では危険であったし、祁連(きれん)山でも危うい状況であった。
逼於黎陽,幾敗北山,
黎陽(れいよう)の地では敵に迫られて、北山では何度も敗北したのだ。
殆死潼關,然後偽定一時耳;
潼関では全軍ほとんど全滅状態なり、その後にやっと一時の見せかけ安定状態に持ちこたえたのです。
況臣才弱,而欲以不危而定之:
ましてや陛下の臣下である私の才能は乏しいのですから、それなのに危険を冒さずに国を安定させようとすることなどできるはずがないのです。
此臣之未解三也。
これは臣下の私がいまだに理解していないことの三点目です。
2-2-4#8
曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,
曹操は五回も昌霸を攻めましたが攻め落とすことはできず、四回も巣湖(そうこ)を越えても覇業をなし遂げることはできなかった。
任用李服而李服圖之,委任夏侯而夏侯敗亡,
そこで李服を用いてはかりごとを立案し、夏侯淵将軍に任せたが、戦いに敗れてしまった。
先帝每稱操為能,猶有此失;
それでも先帝は常に曹操を有能な人物だと賞賛しておられた。そしてこの有能な人物を失ってはいけないと考えられていたのです。
況臣弩下,何能必勝:
しかし、先帝があれほど賞賛された曹操までがこんな様子なのですから、ましてや才能に乏しい私などは、どうして必勝することができると言えましょうか。
此臣之未解四也。
これは臣下の私がいまだ理解していない四点目です。
#-5
謹んで其の事を陳【の】ぶれば左の如し:
高帝【こうてい】の明なるは日月に並び、謀臣【ぼうしん】は淵深【しんえん】なり、
然れども険【けん】を渉【わた】りて創【きず】を被【こうむ】り、危くして然る後に安し。
今の陛下は未だ高帝に及ばず、謀臣は良・平に如かず、
而れども長計【ちょうけい】を以て勝を計り、坐して天下を定めんと欲するは、此れ臣の未だ解せざるの一なり。
#-6
劉繇【りゅうよう】・王朗は各【おのお)の州郡に拠りて、
安きを論じて計を言い、動くに聖人を引くも、
群疑【ぐんぎ】は腹を満たし、衆難【しゅうなん】は胸を塞【ふさ】ぎ、
今歳【こんさい】にして戦わず、明年にして征せず、
孫策【そんさく】をして坐【いながら】に大ならしめて、遂に江東を并【あわ】さる、
此れ臣の未だ解せざるの二なり。
#7
曹操の智計【ちけい】は殊【こと】に人に絶し、其の兵を用いるや、
孫・呉を髣彿【ほうふつ】とさせる、然るに南陽に困しみ、
烏巣【うそう】に険しく、祁連【きれん】に危うく、
黎陽【れいよう】に偪【せま】られ、幾たびも北山【ほくざん】に敗れ、
殆【ほと】んど潼関に死し、然る後に偽りて一時を定むるのみ、
況んや臣の才の弱く、而して以て危うからずして之を定めんと欲するにおいてをや。
此れ臣の未だ解せざるの参【さん】なり。
#8
曹操は五たび昌霸【しょうは】を攻めて下せず、四たび巣湖【そうこ】を越ゆるも成らず、
李服【りふく】を任用して李服は之を図り、夏侯に委ねて夏侯は敗亡す。
先帝は毎に操【そう】を称して能と為すこと、猶お此を失うこと有るがごとし。
況んや臣の駑下【どか】なるにおいてをや。何ぞ必勝を能くせん?
此れ臣の未だ解せざるの四なり。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) 2-2-4#8
曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,
任用李服而李服圖之,委任夏侯而夏侯敗亡,
先帝每稱操為能,猶有此失;
況臣弩下,何能必勝:
此臣之未解四也。
(下し文) 2-2-4#8
曹操は五たび昌霸【しょうは】を攻めて下せず、四たび巣湖【そうこ】を越ゆるも成らず、
李服【りふく】を任用して李服は之を図り、夏侯に委ねて夏侯は敗亡す。
先帝は毎に操【そう】を称して能と為すこと、猶お此を失うこと有るがごとし。
況んや臣の駑下【どか】なるにおいてをや。何ぞ必勝を能くせん?
此れ臣の未だ解せざるの四なり。
(現代語訳)
曹操は五回も昌霸を攻めましたが攻め落とすことはできず、四回も巣湖(そうこ)を越えても覇業をなし遂げることはできなかった。
そこで李服を用いてはかりごとを立案し、夏侯淵将軍に任せたが、戦いに敗れてしまった。
それでも先帝は常に曹操を有能な人物だと賞賛しておられた。そしてこの有能な人物を失ってはいけないと考えられていたのです。
しかし、先帝があれほど賞賛された曹操までがこんな様子なのですから、ましてや才能に乏しい私などは、どうして必勝することができると言えましょうか。
これは臣下の私がいまだ理解していない四点目です。
(訳注) 2-2-4#8 曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,
曹操は五回も昌霸を攻めましたが攻め落とすことはできず、四回も巣湖(そうこ)を越えても覇業をなし遂げることはできなかった。
・昌霸(しょうは)昌豨(シヤウキ)(?~206)ともいう《先主伝》。はじめ臧霸・孫観・呉敦・尹礼らとともに軍勢を集めて呂布に味方していたが、建安三年(一九八)に呂布が敗北すると曹操に降服した。同五年に劉備が下邳で曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備に呼応したが、まもなく鎮圧された《武帝紀・先主伝》。その後四度叛し計五度降伏している。
任用李服而李服圖之,委任夏侯而夏侯敗亡,
そこで李服を用いてはかりごとを立案し、夏侯淵将軍に任せたが、戦いに敗れてしまった。
・李服 王子服(おう しふく、未詳- 200年)のこと。後漢末期の人物。字は子由。名を王服、または李服とも。 曹操暗殺計画に加わった罪で、200年(建安5年)に処刑されている。 『正史』では、献帝の密命により董承や劉備が中心となり計画した。曹操暗殺計画に加担した
・夏侯 夏侯 淵(かこう えん、未詳- 建安24年(219年)1月)は、中国、後漢末の武将。字は妙才。夏侯惇の族弟。正妻は曹操の妻の妹。従子に夏侯尚。子に夏侯覇ら。 軍の拠点間の迅速な移動やそれに基づいた奇襲攻撃、前線型武将の指揮、兵糧監督などの後方支援を得意とし、その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた(『魏略』)。
先帝每稱操為能,猶有此失;
それでも先帝は常に曹操を有能な人物だと賞賛しておられた。そしてこの有能な人物を失ってはいけないと考えられていたのです。
況臣弩下,何能必勝:
しかし、先帝があれほど賞賛された曹操までがこんな様子なのですから、ましてや才能に乏しい私などは、どうして必勝することができると言えましょうか。
此臣之未解四也。
これは臣下の私がいまだ理解していない四点目です。
#9
自臣到漢中、中間期年耳、
私が漢中に行きましてから、ただ半年が経っただけであります。
然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。
それなのに趙雲・陽群(ようい)・馬玉・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白壽(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)、鄧銅(とうどう)という部下たちや、その下の曲長・屯将(とんしょう)の地位にある者たちの七十数名を失うだけでなく、先頭で突撃していく将軍はいなくなってしまいました。
賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、
賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)といった異民族の兵や陛下のそば近くに使える騎士やその他の勇敢な騎士千人余りを失ったのです。
此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、
この者たちは皆、数十年の間に四方の各地にいた精鋭たちを寄せ集めたもので、一つの州の人員だけで構成されているわけではないのです。
若復数年、則損参分之二也、
もしこの先数年も同じような状況を重ねるのであれば、さらに三分の二を失うこととおもわれます。
当何以図敵?
そうなればどうやって敵にはかりごとを行うことができるでしょうか。
此臣之未解五也。
これは臣下の私がいまだ理解していない五点目です。
臣の漢中に到りてより、中間にして期年するのみにて、
然るに趙雲【ちょううん】・陽群【ようい】・馬玉・閻芝【えんし】・丁立【ていりつ】・白壽【はくじゅ】・劉郃【りゅうこう】、鄧銅【とうどう】ら及び曲長【きょくちょう】・屯将の七十餘人を喪い、突将は前に無し。
賨叟【そうそう】・青羌【せいきょう】・散騎【さんき】・武騎一千餘人を喪い、
此れ皆な数十年の内に四方の精鋭を糾合【きゅうごう】せし所にして、一州の有する所に非ず、
若し数年を復【ふたた】びすれば、則ち参分の二を損するなり、
当に何を以て敵に図すべきや?
此れ臣の未だ解せざるの五なり。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文)
自臣到漢中、中間期年耳、
然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、
此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、
若復数年、則損参分之二也、
当何以図敵?
此臣之未解五也。
(下し文)
臣の漢中に到りてより、中間にして期年するのみにて、
然るに趙雲【ちょううん】・陽群【ようい】・馬玉・閻芝【えんし】・丁立【ていりつ】・白壽【はくじゅ】・劉郃【りゅうこう】、鄧銅【とうどう】ら及び曲長【きょくちょう】・屯将の七十餘人を喪い、突将は前に無し。
賨叟【そうそう】・青羌【せいきょう】・散騎【さんき】・武騎一千餘人を喪い、
此れ皆な数十年の内に四方の精鋭を糾合【きゅうごう】せし所にして、一州の有する所に非ず、
若し数年を復【ふたた】びすれば、則ち参分の二を損するなり、
当に何を以て敵に図すべきや?
此れ臣の未だ解せざるの五なり。
(現代語訳)
私が漢中に行きましてから、ただ半年が経っただけであります。
それなのに趙雲・陽群(ようい)・馬玉・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白壽(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)、鄧銅(とうどう)という部下たちや、その下の曲長・屯将(とんしょう)の地位にある者たちの七十数名を失うだけでなく、先頭で突撃していく将軍はいなくなってしまいました。
賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)といった異民族の兵や陛下のそば近くに使える騎士やその他の勇敢な騎士千人余りを失ったのです。
この者たちは皆、数十年の間に四方の各地にいた精鋭たちを寄せ集めたもので、一つの州の人員だけで構成されているわけではないのです。
もしこの先数年も同じような状況を重ねるのであれば、さらに三分の二を失うこととおもわれます。
そうなればどうやって敵にはかりごとを行うことができるでしょうか。
これは臣下の私がいまだ理解していない五点目です。
(訳注)
自臣到漢中、中間期年耳、
私が漢中に行きましてから、ただ半年が経っただけであります。
然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。
それなのに趙雲・陽群(ようい)・馬玉・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白壽(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)、鄧銅(とうどう)という部下たちや、その下の曲長・屯将(とんしょう)の地位にある者たちの七十数名を失うだけでなく、先頭で突撃していく将軍はいなくなってしまいました。
・趙雲 (未詳- 229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍。字は子龍(しりゅう)。冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。子は趙統・趙広。
・陽羣
・馬玉
・閻芝 蜀の巴西太守。劉備が夷陵で敗れた時に、諸県で兵五千を集め加勢した。
・丁立
・白壽
・劉郃
・鄧銅
賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、
賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)といった異民族の兵や陛下のそば近くに使える騎士やその他の勇敢な騎士千人余りを失ったのです。
此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、
この者たちは皆、数十年の間に四方の各地にいた精鋭たちを寄せ集めたもので、一つの州の人員だけで構成されているわけではないのです。
若復数年、則損参分之二也、
もしこの先数年も同じような状況を重ねるのであれば、さらに三分の二を失うこととおもわれます。
当何以図敵?
そうなればどうやって敵にはかりごとを行うことができるでしょうか。
此臣之未解五也。
これは臣下の私がいまだ理解していない五点目です。
#9
自臣到漢中、中間期年耳、
私が漢中に行きましてから、ただ半年が経っただけであります。
然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。
それなのに趙雲・陽群(ようい)・馬玉・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白壽(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)、鄧銅(とうどう)という部下たちや、その下の曲長・屯将(とんしょう)の地位にある者たちの七十数名を失うだけでなく、先頭で突撃していく将軍はいなくなってしまいました。
賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、
賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)といった異民族の兵や陛下のそば近くに使える騎士やその他の勇敢な騎士千人余りを失ったのです。
此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、
この者たちは皆、数十年の間に四方の各地にいた精鋭たちを寄せ集めたもので、一つの州の人員だけで構成されているわけではないのです。
若復数年、則損参分之二也、
もしこの先数年も同じような状況を重ねるのであれば、さらに三分の二を失うこととおもわれます。
当何以図敵?
そうなればどうやって敵にはかりごとを行うことができるでしょうか。
此臣之未解五也。
これは臣下の私がいまだ理解していない五点目です。
臣の漢中に到りてより、中間にして期年するのみにて、
然るに趙雲【ちょううん】・陽群【ようい】・馬玉・閻芝【えんし】・丁立【ていりつ】・白壽【はくじゅ】・劉郃【りゅうこう】、鄧銅【とうどう】ら及び曲長【きょくちょう】・屯将の七十餘人を喪い、突将は前に無し。
賨叟【そうそう】・青羌【せいきょう】・散騎【さんき】・武騎一千餘人を喪い、
此れ皆な数十年の内に四方の精鋭を糾合【きゅうごう】せし所にして、一州の有する所に非ず、
若し数年を復【ふたた】びすれば、則ち参分の二を損するなり、
当に何を以て敵に図すべきや?
此れ臣の未だ解せざるの五なり。
#10
今民窮兵疲,而事不可息;
今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
事不可息,則住與行,勞費正等;
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
此臣之未解六也。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
今、民は窮して兵は疲れ、而るに事は息むべからず。
事は息むべからずして、則ち住【とど】まると行くと労するも費やすも正に等し。
而れども今は之を図るに及ばず、一州の地を以て賊に与えて持久す、
此れ臣の未だ解せざるの六なり。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) #10
今民窮兵疲,而事不可息;
事不可息,則住與行,勞費正等;
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
此臣之未解六也。
(下し文)
今、民は窮して兵は疲れ、而るに事は息むべからず。
事は息むべからずして、則ち住【とど】まると行くと労するも費やすも正に等し。
而れども今は之を図るに及ばず、一州の地を以て賊に与えて持久す、
此れ臣の未だ解せざるの六なり。
(現代語訳) 今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
(訳注) #10
今民窮兵疲,而事不可息;
今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
事不可息,則住與行,勞費正等;
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
此臣之未解六也。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
#9
自臣到漢中、中間期年耳、
私が漢中に行きましてから、ただ半年が経っただけであります。
然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯将七十餘人、突将無前。
それなのに趙雲・陽群(ようい)・馬玉・閻芝(えんし)・丁立(ていりつ)・白壽(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)、鄧銅(とうどう)という部下たちや、その下の曲長・屯将(とんしょう)の地位にある者たちの七十数名を失うだけでなく、先頭で突撃していく将軍はいなくなってしまいました。
賨﹑叟﹑青羌散騎﹑武騎一千餘人、
賨叟(そうそう)・青羌(せいきょう)といった異民族の兵や陛下のそば近くに使える騎士やその他の勇敢な騎士千人余りを失ったのです。
此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、
この者たちは皆、数十年の間に四方の各地にいた精鋭たちを寄せ集めたもので、一つの州の人員だけで構成されているわけではないのです。
若復数年、則損参分之二也、
もしこの先数年も同じような状況を重ねるのであれば、さらに三分の二を失うこととおもわれます。
当何以図敵?
そうなればどうやって敵にはかりごとを行うことができるでしょうか。
此臣之未解五也。
これは臣下の私がいまだ理解していない五点目です。
臣の漢中に到りてより、中間にして期年するのみにて、
然るに趙雲【ちょううん】・陽群【ようい】・馬玉・閻芝【えんし】・丁立【ていりつ】・白壽【はくじゅ】・劉郃【りゅうこう】、鄧銅【とうどう】ら及び曲長【きょくちょう】・屯将の七十餘人を喪い、突将は前に無し。
賨叟【そうそう】・青羌【せいきょう】・散騎【さんき】・武騎一千餘人を喪い、
此れ皆な数十年の内に四方の精鋭を糾合【きゅうごう】せし所にして、一州の有する所に非ず、
若し数年を復【ふたた】びすれば、則ち参分の二を損するなり、
当に何を以て敵に図すべきや?
此れ臣の未だ解せざるの五なり。
#10
今民窮兵疲,而事不可息;
今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
事不可息,則住與行,勞費正等;
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
此臣之未解六也。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
今、民は窮して兵は疲れ、而るに事は息むべからず。
事は息むべからずして、則ち住【とど】まると行くと労するも費やすも正に等し。
而れども今は之を図るに及ばず、一州の地を以て賊に与えて持久す、
此れ臣の未だ解せざるの六なり。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) #10
今民窮兵疲,而事不可息;
事不可息,則住與行,勞費正等;
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
此臣之未解六也。
(下し文)
今、民は窮して兵は疲れ、而るに事は息むべからず。
事は息むべからずして、則ち住【とど】まると行くと労するも費やすも正に等し。
而れども今は之を図るに及ばず、一州の地を以て賊に与えて持久す、
此れ臣の未だ解せざるの六なり。
(現代語訳) 今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
(訳注) #10
今民窮兵疲,而事不可息;
今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
事不可息,則住與行,勞費正等;
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
此臣之未解六也。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
#10
今民窮兵疲,而事不可息;
今、民衆は生活に苦しく、兵は疲労してしまっておりますが、それでも有事は休むことなく必ずやって来るのです。
事不可息,則住與行,勞費正等;
その有事が休むことなくやって来る状況であれば、その場に止まるにしても先に行くにしても、そのための労働と、そのための費えは常に等しいのです。
而不及今圖之,欲以一州之地,與賊持久:
しかしながら今はこのことに対してはきちんとした計画を立てることができていないで、賊に一つの州を与えることで持久できているのです。
此臣之未解六也。
これは臣下の私がいまだ理解していない六点目です。
今、民は窮して兵は疲れ、而るに事は息むべからず。
事は息むべからずして、則ち住【とど】まると行くと労するも費やすも正に等し。
而れども今は之を図るに及ばず、一州の地を以て賊に与えて持久す、
此れ臣の未だ解せざるの六なり。
99-3-1#11
夫難平者,事也。
そもそも平穏というのは保つのが難しいもので、有事をかんがえていなければいけないのです。
昔先帝敗軍於楚,當此時,
昔、先帝は楚の土地で戦に敗れた、まさにそのときであります。
曹操拊手,謂天下已定。
曹操は自分の思う通りになったということをポンと手を打って喜んで、これで天下は落ち着いたと言ったのです。
然後先帝東連吳、越,西取巴、蜀,
その後に、先帝は東の呉や越を支配していた孫権と同盟をして、西の巴州や蜀州を攻め取った。
舉兵北征,夏侯授首:
その後さらに兵を挙げて北に遠征し、魏の将軍の夏侯淵の首を取りました。
此操之失計,而漢事將成也。
これは曹操の失策であり、漢の再興という事業が今まさに実現しようとしていたときでした。
夫れ平らかなり難きは、事なり。
昔、先帝は軍を楚に敗れ、此の時に当たり、
曹操は拊手【ふしゅ】し、天下は以て定まれりと謂えり。
然る後、先帝は東に呉・越を連ねて、西に巴・蜀を取り、
兵を挙げて北征し、夏侯の首を授かる、
此れ操の失計にして漢の事の将に成らんとするなり。
『出師表-後出師表』 現代語訳と訳註
(本文) 99-3-1#11
夫難平者,事也。
昔先帝敗軍於楚,當此時,
曹操拊手,謂天下已定。
然後先帝東連吳、越,西取巴、蜀,
舉兵北征,夏侯授首:
此操之失計,而漢事將成也。
(下し文)
夫れ平らかなり難きは、事なり。
昔、先帝は軍を楚に敗れ、此の時に当たり、
曹操は拊手【ふしゅ】し、天下は以て定まれりと謂えり。
然る後、先帝は東に呉・越を連ねて、西に巴・蜀を取り、
兵を挙げて北征し、夏侯の首を授かる、
此れ操の失計にして漢の事の将に成らんとするなり。
(現代語訳)
そもそも平穏というのは保つのが難しいもので、有事をかんがえていなければいけないのです。
昔、先帝は楚の土地で戦に敗れた、まさにそのときであります。
曹操は自分の思う通りになったということをポンと手を打って喜んで、これで天下は落ち着いたと言ったのです。
その後に、先帝は東の呉や越を支配していた孫権と同盟をして、西の巴州や蜀州を攻め取った。
その後さらに兵を挙げて北に遠征し、魏の将軍の夏侯淵の首を取りました。
これは曹操の失策であり、漢の再興という事業が今まさに実現しようとしていたときでした。
(訳注)99-3-1#11
夫難平者,事也。
そもそも平穏というのは保つのが難しいもので、有事をかんがえていなければいけないのです。
昔先帝敗軍於楚,當此時,
昔、先帝は楚の土地で戦に敗れた、まさにそのときであります。
・敗軍 劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民十数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。
その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、娘は曹操に捕らえられるという悲惨な状況だった。
曹操拊手,謂天下已定。
曹操は自分の思う通りになったということをポンと手を打って喜んで、これで天下は落ち着いたと言ったのです。
・拊手 ぽんとてをうつ、我が意を得たりと喜ぶさま。
然後先帝東連吳、越,西取巴、蜀,
その後に、先帝は東の呉や越を支配していた孫権と同盟をして、西の巴州や蜀州を攻め取った。
舉兵北征,夏侯授首:
その後さらに兵を挙げて北に遠征し、魏の将軍の夏侯淵の首を取りました。
・夏侯 夏侯淵(かこうえん)
此操之失計,而漢事將成也。
これは曹操の失策であり、漢の再興という事業が今まさに実現しようとしていたときでした。
凡事如是、難可逆見。
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