262 《石鼓歌》 韓愈 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3636
- 2014/01/22
- 00:06
石鼓歌 韓愈中唐詩 石鼓文(せっこぶん)とは、唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑、またはそれに刻まれた文字をいう。現存する中国の石刻文字資料としては最古のもので、出土した当時から珍重され、現在は北京故宮博物院に展示されている。
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石鼓歌
石臼のよう太鼓の形の石に、先秦時代の文字がほりつけてあるため、「石鼓」といわれ、十個ある。そこにほられている文字が、石鼓文で、ふつうの篆書すなわち小篆とはやや異なる大篆という書体である。またその文革は、四書の詩で「詩経」の詩によく似ている。
韓愈はこの詩では、周の宣王(紀元前828-728年在位)の時としているが、現在では周の平王元年紀元前770年の作である。
石鼓文(せっこぶん)とは、唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑、またはそれに刻まれた文字をいう。現存する中国の石刻文字資料としては最古のもので、出土した当時から珍重され、現在は北京故宮博物院に展示されている。
石鼓歌 韓愈詩
#1
張生手持石鼓文,勸我試作石鼓歌。
少陵無人謫仙死,才薄將奈石鼓何。
周綱陵遲四海沸,宣王憤起揮天戈。
大開明堂受朝賀,諸侯劍佩鳴相磨。
#2
蒐于岐陽騁雄俊,萬里禽獸皆遮羅。
鐫功勒成告萬世,鑿石作鼓隳嵯峨。
從臣才藝鹹第一,揀選撰刻留山阿。
雨淋日炙野火燎,鬼物守護煩撝呵。
#3
公從何處得紙本,毫髮盡備無差訛。
辭嚴義密讀難曉,字體不類隸與科。
年深豈免有缺畫,快劍斫斷生蛟鼉。
鸞翔鳳翥眾仙下,珊瑚碧樹交枝柯。
#4
金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。
陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。
孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。
嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。
#5
憶昔初蒙博士征,其年始改稱元和。
故人從軍在右輔,為我度量掘臼科。
濯冠沐浴告祭酒,如此至寶存豈多。
氈包席裹可立致,十鼓只載數駱駝。
#6
薦諸太廟比郜鼎,光價豈止百倍過。
聖恩若許留太學,諸生講解得切磋。
觀經鴻都尚填咽,坐見舉國來奔波。
剜苔剔蘚露節角,安置妥帖平不頗。
#7
大廈深簷與蓋覆,經歷久遠期無佗。
中朝大官老於事,詎肯感激徒媕婀。
牧童敲火牛礪角,誰複著手為摩挲。
日銷月鑠就埋沒,六年西顧空吟哦。
#8
羲之俗書趁姿媚,數紙尚可博白鵝。
繼周八代爭戰罷,無人收拾理則那。
方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。
安能以此上論列,願借辨口如懸河。
石鼓之歌止於此,嗚呼吾意其蹉跎。
石鼓歌 韓愈詩
#1
張生手持石鼓文,勸我試作石鼓歌。
張籍君が「石鼓文」を私のところへ持って来ていう、「試みに石鼓の歌を作りませんか」とわたしに勧めるのだ。
少陵無人謫仙死,才薄將奈石鼓何。
そうはいっても、少陵にはもう大詩人の杜甫いないし、 謫仙の李白もこの世にはもういない。才能がとぼしいわたしなんかにいったい「石鼓」をどうしろというのだ。
周綱陵遲四海沸,宣王憤起揮天戈。
いにしえの周代の制度がおとろえ 四海に至る世界がみなわきかえるような動乱がおこった。その時、宜王は憤起して武力をもって天下を平らげたという。
大開明堂受朝賀,諸侯劍佩鳴相磨。
大礼を行なう殿堂を大いに開き諸侯の朝賀を受けられたので、それでかれら諸侯の剣や腰の佩び玉がすれあって、それは響いたものだという。
石鼓の歌
張生 手に石鼓の文を持し、我に勧めて 石鼓の歌を 試作せしむ
少陵に人無く謫仙【たくせん】死せり、才薄きに 將た石鼓を奈何せむ。
周綱【しゅうこう】 陵遲【りょうち】して四海 沸きしが、宣王【せんおう】憤起して天戈【てんか】を揮【ふる】う。
大いに明堂を開いて 朝賀を受け、諸侯の劍佩【けんぱい】鳴って相磨【ま】す。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #1
張生手持石鼓文,勸我試作石鼓歌。
少陵無人謫仙死,才薄將奈石鼓何。
周綱陵遲四海沸,宣王憤起揮天戈。
大開明堂受朝賀,諸侯劍佩鳴相磨。
(下し文) 石鼓の歌
張生 手に石鼓の文を持し、我に勧めて 石鼓の歌を 試作せしむ
少陵に人無く謫仙【たくせん】死せり、才薄きに 將た石鼓を奈何せむ。
周綱【しゅうこう】 陵遲【りょうち】して四海 沸きしが、宣王【せんおう】憤起して天戈【てんか】を揮【ふる】う。
大いに明堂を開いて 朝賀を受け、諸侯の劍佩【けんぱい】鳴って相磨【ま】す。
(現代語訳)
張籍君が「石鼓文」を私のところへ持って来ていう、
「試みに石鼓の歌を作りませんか」とわたしに勧めるのだ。
そうはいっても、少陵にはもう大詩人の杜甫いないし、 謫仙の李白もこの世にはもういない。才能がとぼしいわたしなんかにいったい「石鼓」をどうしろというのだ。
いにしえの周代の制度がおとろえ 四海に至る世界がみなわきかえるような動乱がおこった。その時、宜王は憤起して武力をもって天下を平らげたという。
大礼を行なう殿堂を大いに開き諸侯の朝賀を受けられたので、それでかれら諸侯の剣や腰の佩び玉がすれあって、それは響いたものだという。
(訳注) #1
石鼓歌
石臼のよう太鼓の形の石に、先秦時代の文字がほりつけてあるため、「石鼓」といわれ、十個ある。そこにほられている文字が、石鼓文で、ふつうの篆書すなわち小篆とはやや異なる大篆という書体である。またその文革は、四書の詩で「詩経」の詩によく似ている。
韓愈はこの詩では、周の宣王(紀元前828-728年在位)のときとしているが、現在では周の平王元年紀元前770年の作である。
張生手持石鼓文,勸我試作石鼓歌。
張籍君が「石鼓文」を私のところへ持って来ていう、「試みに石鼓の歌を作りませんか」とわたしに勧めるのだ。
・張生 張籍のこと。
張籍【768年(大暦三年)~830年(太和四年)】。は、中唐の詩人。字は文昌。和州(かしゅう)烏江(安徽省和県)の人。師友の韓愈に目をかけられ、その推薦によって、国子博士となった。楽府に長じている。賈島・孟郊などと唱和して古詩をよくし、盟友の王建とともに七言楽府に優れた作品を発表して「張王」と併称された。名詩人になろうとして、杜甫の詩集を焼いてその灰に膏蜜を混ぜて飲んだという逸話がある。表現は平易だが、世相の矛盾を指摘することは鋭く、白居易から「挙世(いまのよ)には其の倫(たぐい)少なし」と評せられ、後輩の姚合より「古風は敵手なく、新語は是れ人ぞ知る」と称えられた。中唐楽府運動の重要な担い手であり、白居易・元稹とともに「元和体」を形成した。『張司業詩集』8巻がある。
張籍は汴州の乱のおこった年の貞元十五年(799年)の進士であるが、韓愈より年長かも知れない。韓愈は孟郊に比べて後輩である。しかし韓愈の門人であって、その推薦によって官につき、水部員外郎〔水運水利を管理する職)となったので張水部と言われ、のち国子司業(大学教授)となったから張司業とも称せられる。
楽府体の詩に関しては友人の王建【768?~830?年(大暦10年進士)】と名を等しくするといわれ、元稹・白居易らの一群に数える文学史家もある。しかし晩年は律詩に力をそそぎ門人が多かった.張王二人の楽府は政治に対する批判と人民の苦痛を訴える点では杜甫・元結の風をうけるもので、七言の体が多い。
・石鼓文 石鼓に刻まれた詩の拓本。
・少陵 長安の南の郊外の杜陵の南部。そこに詩人杜甫の家があった。杜博に「少陵の野老声を呑んで笑す」という有名な句があり、杜甫のことを杜少陵とよぶのもこの地名に因む。
陪諸貴公子丈八溝携妓納涼晩際遇雨二首其一 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 73
醉時歌 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の 漢詩ブログ 誠実な詩人 杜甫 特集 77
などの詩にその地の様子が見える。
少陵無人謫仙死,才薄將奈石鼓何。
そうはいっても、少陵にはもう大詩人の杜甫いないし、 謫仙の李白もこの世にはもういない。才能がとぼしいわたしなんかにいったい「石鼓」をどうしろというのだ。
・無人 少陵には詩人杜甫もいない。
・謫仙 李白のこと。かれの「酒に対して賀藍を憶ふ詩」 の序に対酒憶賀監 二首 并序 其一 李白、
對酒憶賀監併序
太子賓客賀公、於長安紫極宮一見余、呼余為謫仙人。
因解金亀換酒為楽、没後対酒、悵然有懐而作是詩。(太子賓客の賀公は長安の紫極官に於て余を一見して、呼びて諦仙人と為せり)という。賀監といい太子賓客賀公というのは「飲中八仙歌 杜甫」にもうたわれた賀知章のこと。諦仙人とは天上、あるいは仙人の世界から人間世界に追放された仙人のこと。
知章騎馬似乘船,眼花落井水底眠。
賀知章は何時も酔っていて、馬に乗っても船に乗っているように揺れている、くるくると回る目が井戸に落ちて水底に眠る。
○知章 賀知章。会稽永興の人、自から四明狂客と号し、太子賓客・秘書監となった。天宝三載、疏を上って郷に帰るとき、玄宗は詩を賦して彼を送った。○乗船 ゆらゆらする酔態をいう。知章は出身が商人で、商人は船に乗るので、騎馬にまたがった状態をいったのだ。○眼花 酔眼でみるとき現象のちらつくことをいう。
・才薄 わたしは才能が浅薄だ。もとより韓愈の謙辞である。
周綱陵遲四海沸,宣王憤起揮天戈。
いにしえの周代の制度がおとろえ 四海に至る世界がみなわきかえるような動乱がおこった。その時、宜王は憤起して武力をもって天下を平らげたという。
・周綱 周代の政治秩序。
・陵遲 盛なものが次第に衰えてゆくこと。
・四海 中国をとりまく四つの海。ひいて、世界のこと。
・沸 わきかえるような動乱がおこった。周の代もはじめのうちはすぐれた王が次次に出てよく治ったがそのうち政治の秩序がみだれ、厲王のころには人民が蜂起して、王を国外に追い目すようなこともあった。
・宜王 周の中興の名主といわれる人である。『詩経』小雅六月に
六月棲棲、戎車既飭。
四牡驥驥、載是常服。
玁狁孔熾、我是用急。
王于出征、以匡王國。
と中興の功業を讃えたものである。
・天戈 天から与えられたホコ。それをふるうとは、戦争することである。
大開明堂受朝賀,諸侯劍佩鳴相磨。
大礼を行なう殿堂を大いに開き諸侯の朝賀を受けられたので、それでかれら諸侯の剣や腰の佩び玉がすれあって、それは響いたものだという。
・明堂 天子が天や祖先の霊を祭ったり、諸侯の朝見をぅけるなどの、大礼を行なう殿堂。
・劍佩 剣と佩玉。佩玉は官吏の制服の腰にさげる玉。
◎韓愈「三品の性」について
この詩の「孔子」について、韓愈は儒家として孔子の学問について、その論を否定して、小馬鹿にしたような表現八句「金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。」と少し小ばかにし、そして最終的には「方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。」とのべている。
韓愈は儒家の道徳の根原を「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五つの本質を原【たず】ねて推論をのべている。特に孟子の性善、荀子の性悪、楊雄の性善性悪混在説の三説に対して三品の性という新しい見解を述べたのであるが、韓愈の詩の理解のためには、韓愈が精魂込めた「原性」などを理解しなければならないのである。そこで、少し難しいが、このブログに取り上げ解説する予定である。
「学問を進めるための解明文」進学解(まとめ) 韓退之(韓愈)詩<114-16>Ⅱ中唐詩572 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1854
原道 韓退之(韓愈)詩<115-1>Ⅱ中唐詩573 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1858
#2
蒐于岐陽騁雄俊,萬里禽獸皆遮羅。
平定を祝って岐陽の野で「御狩」をされると、そこには豪傑や俊馬が馳せ参じて、万里にわたる地域の鳥や獣がことごとく網や仕掛けによってつかまえられた。
鐫功勒成告萬世,鑿石作鼓隳嵯峨。
またその功業を石碑に彫り刻むことで万年の後の世までも告げ知らそうとされた。それはけわしい山をうちくだき、石をはり、石鼓をつくったのである。
從臣才藝鹹第一,揀選撰刻留山阿。
宜王につき従う臣下らはみな一流の文武そろった学者であったが、選びにえらび、文章作り、刻ませて、山かげにとどめておいたという。
雨淋日炙野火燎,鬼物守護煩撝呵。
雨はしたたり、日の灼熱が照らし、野火に焼かれることもあったが、神はこのものの変化を守護してじゃまだてするものをしりぞけたのだ。
岐陽に蒐【かり】して 雄俊を騁【は】せ、萬里の禽獣 皆 遮羅せらる。
功を鐫り 成を勒して萬世に告げ,石を鑿【ほ】り鼓を作って嵯峨を隳【やぶ】りぬ。
従臣の才藝は鹹く第一、揀選し 撰刻し 山阿に留む
雨淋【そそ】ぎ 日炙り野火焼くも、鬼物 守護して 撝呵【きか】を煩はす。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #2
蒐于岐陽騁雄俊,萬里禽獸皆遮羅。
鐫功勒成告萬世,鑿石作鼓隳嵯峨。
從臣才藝鹹第一,揀選撰刻留山阿。
雨淋日炙野火燎,鬼物守護煩撝呵。
(下し文)
岐陽に蒐【かり】して 雄俊を騁【は】せ、萬里の禽獣 皆 遮羅せらる。
功を鐫り 成を勒して萬世に告げ,石を鑿【ほ】り鼓を作って嵯峨を隳【やぶ】りぬ。
従臣の才藝は鹹く第一、揀選し 撰刻し 山阿に留む
雨淋【そそ】ぎ 日炙り野火焼くも、鬼物 守護して 撝呵【きか】を煩はす。
(現代語訳)
平定を祝って岐陽の野で「御狩」をされると、そこには豪傑や俊馬が馳せ参じて、万里にわたる地域の鳥や獣がことごとく網や仕掛けによってつかまえられた。
またその功業を石碑に彫り刻むことで万年の後の世までも告げ知らそうとされた。それはけわしい山をうちくだき、石をはり、石鼓をつくったのである。
宜王につき従う臣下らはみな一流の文武そろった学者であったが、選びにえらび、文章作り、刻ませて、山かげにとどめておいたという。
雨はしたたり、日の灼熱が照らし、野火に焼かれることもあったが、神はこのものの変化を守護してじゃまだてするものをしりぞけたのだ。
(訳注) #2
蒐于岐陽騁雄俊,萬里禽獸皆遮羅。
平定を祝って岐陽の野で「御狩」をされると、そこには豪傑や俊馬が馳せ参じて、万里にわたる地域の鳥や獣がことごとく網や仕掛けによってつかまえられた。
・蒐 狩猟。
・岐陽 関内道岐州岐山県。(地図茶字参照・中国歴史地図第五冊、唐、京畿道・関内道40-41、⑨-5地点)いま陝西省岐陽県。
・遮羅 網や仕掛けにとらえる。
鐫功勒成告萬世,鑿石作鼓隳嵯峨。
またその功業を石碑に彫り刻むことで万年の後の世までも告げ知らそうとされた。それはけわしい山をうちくだき、石をはり、石鼓をつくったのである。
・鐫功 功業を石にはりきざむ。
・勒成 成果をきざむ。
・隳 くずす。
・嵯峨 けわしい山。
從臣才藝鹹第一,揀選撰刻留山阿。
宜王につき従う臣下らはみな一流の文武そろった学者であったが、選びにえらび、文章作り、刻ませて、山かげにとどめておいたという。
・従臣 宣王に随う臣。
・揀選 選抜。
・撰刻 文章を作って石に刻む。
雨淋日炙野火燎,鬼物守護煩撝呵。
雨はしたたり、日の灼熱が照らし、野火に焼かれることもあったが、神はこのものの変化を守護してじゃまだてするものをしりぞけたのだ。
・淋 しとどにぬれる。
#3
公從何處得紙本,毫髮盡備無差訛。
君は何処からこの拓本を見つけてもって来たのか、髪の毛ほどの微細な点まできれいにそなわっていて 間違ったところはない。
辭嚴義密讀難曉,字體不類隸與科。
「文辞謹厳」「義理縝密」であって、読もうとしても 難解でなかなか通じないものだし、書風、字体は科斗文字でも隷書にも似ていないではないか。
年深豈免有缺畫,快劍斫斷生蛟鼉。
なんにしても年月がたっており、字画が欠落してもやむをえないというものであり、鋭い鋼剣で生きた螭やワニを切りさいているようだ。
鸞翔鳳翥眾仙下,珊瑚碧樹交枝柯。
あるいは鸞が飛んで、鳳凰がはばたき、そのうえ仙人たちが下りてくるかのようであり、東海の滄海の珊瑚や仙郷の碧樹がたがいに枝を交わすほどに繁っているみたいでもある。
公 何れの處より 紙本を得たる、毫髪 盡く備はって 差訛 無し。
辭 厳に 義 密に 読めども曉【さと】り難く、字體は 隷と科とに類せず。
年深ければ 豈に 缺畫有るを免れんや、快劍 斫り断つ 生蛟鼉。
鸞 翔けり 鳳翥って 衆仙下り、珊瑚 碧樹 枝柯を交ふ。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #3
公從何處得紙本,毫髮盡備無差訛。
辭嚴義密讀難曉,字體不類隸與科。
年深豈免有缺畫,快劍斫斷生蛟鼉。
鸞翔鳳翥眾仙下,珊瑚碧樹交枝柯。
(下し文)
公 何れの處より 紙本を得たる、毫髪 盡く備はって 差訛 無し。
辭 厳に 義 密に 読めども曉【さと】り難く、字體は 隷と科とに類せず。
年深ければ 豈に 缺畫有るを免れんや、快劍 斫り断つ 生蛟鼉。
鸞 翔けり 鳳翥って 衆仙下り、珊瑚 碧樹 枝柯を交ふ。
(現代語訳)
君は何処からこの拓本を見つけてもって来たのか、髪の毛ほどの微細な点まできれいにそなわっていて 間違ったところはない。
「文辞謹厳」「義理縝密」であって、読もうとしても 難解でなかなか通じないものだし、書風、字体は科斗文字でも隷書にも似ていないではないか。
なんにしても年月がたっており、字画が欠落してもやむをえないというものであり、鋭い鋼剣で生きた螭やワニを切りさいているようだ。
あるいは鸞が飛んで、鳳凰がはばたき、そのうえ仙人たちが下りてくるかのようであり、東海の滄海の珊瑚や仙郷の碧樹がたがいに枝を交わすほどに繁っているみたいでもある。
(訳注) #3
公從何處得紙本,毫髮盡備無差訛。
君は何処からこの拓本を見つけてもって来たのか、髪の毛ほどの微細な点まできれいにそなわっていて 間違ったところはない。
・紙本 拓本。
・毫髮 秋に生え変わる毛ほどのこまかいところ。
・差訛 まちがい。
辭嚴義密讀難曉,字體不類隸與科。
「文辞謹厳」「義理縝密」であって、読もうとしても 難解でなかなか通じないものだし、書風、字体は科斗文字でも隷書にも似ていないではないか。
・辭嚴義密 文辞意義が厳密である。文章と意味、書風のことを謂う。「文辞謹厳」「義理縝密」
・隷与科 隷書と料斗文。料斗については韓愈『岣嶁山』。「岣嶁山尖神禹碑,字青石赤形模奇。蝌蚪拳身薤倒披,鸞飄鳳泊拿虎螭。事嚴跡秘鬼莫窺,道人獨上偶見之,我來咨嗟涕漣洏。千搜萬索何處有,森森綠樹猿猱悲。」蝌蚪とあり、・蝌蚪 おたまじゃくし。古代の文字に科斗を組み合わせたような形のものがあった。碑の文字のことをいっている。
岣嶁山 韓退之(韓愈)詩<52>Ⅱ中唐詩348 紀頌之の漢詩ブログ1123
年深豈免有缺畫,快劍斫斷生蛟鼉。
なんにしても年月がたっており、字画が欠落してもやむをえないというものであり、鋭い鋼剣で生きた螭やワニを切りさいているようだ。
・欠画 文字の画のかけたところ。
・快剣 するどい剣。
・斫断 切断と同じ。
・生蛟鼉 生きているミズチ(螭)やワニ。
鸞翔鳳翥眾仙下,珊瑚碧樹交枝柯。
あるいは鸞が飛んで、鳳凰がはばたき、そのうえ仙人たちが下りてくるかのようであり、東海の滄海の珊瑚や仙郷の碧樹がたがいに枝を交わすほどに繁っているみたいでもある。
・鸞翔鳳翥 鸞が飛んで、鳳凰がはばたいている。
・碧樹 東海の滄海の珊瑚や仙郷の碧樹。
・枝柯 えだ。
#4
金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。
金の縄や鉄のくさりで、がんじがらめに縛ったようであり、あるいは王権の象徴としても「古い鼎」が水にとびこんで竜が梭に化け昇天する、ま逆の出来事みたいでもある。
陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。
心が狭く卑しい学者が『詩経』を編纂したので、この石鼓詩を採用しなかった。詩経小雅・大雅はかたよっており、おおらかなところが全くない。
孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。
孔子は西へ旅したけれども秦までは来ておらず、星くずのような詩は拾ったが、義和の太陽や嫦娥の月についてはおさめのこしている。
嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。
ああ、わたしは古代のものを愛しているのに 生まれてくるのが遅すぎたというのか。これにむかえうって、涙がふたすじ流れ落ち、そしてそれはぼろぼろととめどなく落ちつづける。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #4
金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。
陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。
孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。
嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。
(下し文)
金繩【きんじょう】鐵索【てつさく】鎖紐、古鼎水に躍って 龍は梭を騰ぐ。
陋儒【ろうじゅ】詩を編みて 収め入れず、二雅は褊迫にして 委蛇たる無し。
孔子 西に行きしも 秦に到らず、星宿を掎摭して 義娥を遺せり。
嗟 余 古を好めども 生るること苦だ晩し、此に封して 涕淚 雙びて滂沱たり。
(現代語訳)
金の縄や鉄のくさりで、がんじがらめに縛ったようであり、あるいは王権の象徴としても「古い鼎」が水にとびこんで竜が梭に化け昇天する、ま逆の出来事みたいでもある。
心が狭く卑しい学者が『詩経』を編纂したので、この石鼓詩を採用しなかった。詩経小雅・大雅はかたよっており、おおらかなところが全くない。
孔子は西へ旅したけれども秦までは来ておらず、星くずのような詩は拾ったが、義和の太陽や嫦娥の月についてはおさめのこしている。
ああ、わたしは古代のものを愛しているのに 生まれてくるのが遅すぎたというのか。これにむかえうって、涙がふたすじ流れ落ち、そしてそれはぼろぼろととめどなく落ちつづける。
(訳注) #4
金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。
金の縄や鉄のくさりで、がんじがらめに縛ったようであり、あるいは王権の象徴としても「古い鼎」が水にとびこんで竜が梭に化け昇天する、ま逆の出来事みたいでもある。
・金縄鉄索 金や鉄のなわ。蒼海の三呉を取るためのものなどを云う。
・鎖紐 しばりつける。
・古鼎躍水 王権の象徴として殷・周に引き継がれ,楚(そ)の荘王が「鼎の軽重」を問い,秦統一の動乱で泗水に沈んだと言われている故事をいう。
・龍騰梭 晋の陶侃が雷沢で釣をしていると、はたを織る梭がひっかかった。壁にかけておくと夕立がしてその梭が竜になって飛び去ったという話が南朝宋‧劉敬叔の『異苑』にみえる。
陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。
心が狭く卑しい学者が『詩経』を編纂したので、この石鼓詩を採用しなかった。詩経小雅・大雅はかたよっており、おおらかなところが全くない。
・陋儒編詩不收入 心が狭く卑しい学者が『詩経』を編纂したので、この石鼓詩を採用しなかった。・陋 1場所が狭苦しい。2 心が狭く卑しい。
・二雅編迫不蚕蛇 『詩経」 の大雅小雅は当然石鼓の歌のようなものを収むべきであるが。窮迫すなわちセセッコマしく、委蛇すなわち大らかなところがないので、この詩を編入しなかった。◎孔子について
孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。
孔子は西へ旅したけれども秦までは来ておらず、星くずのような詩は拾ったが、義和の太陽や嫦娥の月についてはおさめのこしている。
・星宿 星座のこと。ここでは取るに足らない詩を云う。
・羲娥 義和の太陽や嫦娥の月ということ。
嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。
ああ、わたしは古代のものを愛しているのに 生まれてくるのが遅すぎたというのか。これにむかえうって、涙がふたすじ流れ落ち、そしてそれはぼろぼろととめどなく落ちつづける。
◎孔子について
韓愈は儒家として孔子の学問について、その論を否定して、小馬鹿にしたような表現八句「金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。」をのべているのではない。
韓愈は儒家の道徳の根原を「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五つの本質を原【たず】ねて推論をのべている。特に孟子の性善、荀子の性悪、楊雄の性善性悪混在説の三説に対して三品の性という新しい見解を述べた「原性」はこのブログに取り上げ解説する予定である。
これは2013年1月頃から開始している。
「学問を進めるための解明文」進学解(まとめ) 韓退之(韓愈)詩<114-16>Ⅱ中唐詩572 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1854
原道 韓退之(韓愈)詩<115-1>Ⅱ中唐詩573 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1858
#5
憶昔初蒙博士征,其年始改稱元和。
思い返せば数年前に初めて国学博士の官に召されたときのことだが、その年、年号が変わり、はじめて元和とよばれた。
故人從軍在右輔,為我度量掘臼科。
ふるくからの友人が鳳翔府の幕府軍隊に勤務していて、わたしのためにその遺跡を掘ってみようときかくしてくれた。
濯冠沐浴告祭酒,如此至寶存豈多。
そこで、わたしは冠あらい身をそそぎ清め、祭酒の国子監の総長に申請したのである、「こんな至宝というべきものはめったにあるものではありません。
氈包席裹可立致,十鼓只載數駱駝。
毛氈でつつみこみその上をむしろで側を囲いすぐにも持って参れましょう。そして十もある石鼓だとしても数頭の駱駝にそっくり載せてまいりましょう。」と。
憶う昔 初めて博士の征【め】しを蒙【こうむ】りしを、其の年 始めて改めて 元和と稱【しょう】す
故人 軍に従って右輔に在り、我が為に量度して臼科【きゅうか】を掘らんとす。
冠を濯って沐浴【もくよく】し祭酒に告ぐ、此の如き至寶【しほう】は存すること豈に多からむ。
氈【せん】に包み 席に裹【つつ】みて 立どころに致す可し、十鼓を只【た】だ載せむには 敷駱駝【らくだ】のみ。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #5
憶昔初蒙博士征,其年始改稱元和。
故人從軍在右輔,為我度量掘臼科。
濯冠沐浴告祭酒,如此至寶存豈多。
氈包席裹可立致,十鼓只載數駱駝。
(下し文)
憶う昔 初めて博士の征【め】しを蒙【こうむ】りしを、其の年 始めて改めて 元和と稱【しょう】す
故人 軍に従って右輔に在り、我が為に量度して臼科【きゅうか】を掘らんとす。
冠を濯って沐浴【もくよく】し祭酒に告ぐ、此の如き至寶【しほう】は存すること豈に多からむ。
氈【せん】に包み 席に裹【つつ】みて 立どころに致す可し、十鼓を只【た】だ載せむには 敷駱駝【らくだ】のみ。
(現代語訳)
思い返せば数年前に初めて国学博士の官に召されたときのことだが、その年、年号が変わり、はじめて元和とよばれた。
ふるくからの友人が鳳翔府の幕府軍隊に勤務していて、わたしのためにその遺跡を掘ってみようときかくしてくれた。
そこで、わたしは冠あらい身をそそぎ清め、祭酒の国子監の総長に申請したのである、「こんな至宝というべきものはめったにあるものではありません。
毛氈でつつみこみその上をむしろで側を囲いすぐにも持って参れましょう。そして十もある石鼓だとしても数頭の駱駝にそっくり載せてまいりましょう。」と。
(訳注)#5
憶昔初蒙博士征,其年始改稱元和。
思い返せば数年前に初めて国学博士の官に召されたときのことだが、その年、年号が変わり、はじめて元和とよばれた。
故人從軍在右輔,為我量度掘臼科。
ふるくからの友人が鳳翔府の幕府軍隊に勤務していて、わたしのためにその遺跡を掘ってみようときかくしてくれた。
・右輔 右扶風であり、鳳翔府のことをいう。
・量度 企画する。
・臼科 うすのようにくぼんだ所を云う。
濯冠沐浴告祭酒,如此至寶存豈多。
そこで、わたしは冠あらい身をそそぎ清め、祭酒の国子監の総長に申請したのである、「こんな至宝というべきものはめったにあるものではありません。
・祭酒 国子監の総長。国立大学の学長。
氈包席裹可立致,十鼓只載數駱駝。
毛氈でつつみこみその上をむしろで側を囲いすぐにも持って参れましょう。そして十もある石鼓だとしても数頭の駱駝にそっくり載せてまいりましょう。」と。
・氈包 毛氈で包む。
・席裹 筵やござで囲う
◎韓愈「三品の性」について
この詩の「孔子」について、韓愈は儒家として孔子の学問について、その論を否定して、小馬鹿にしたような表現八句「金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。」と少し小ばかにし、そして最終的には「方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。」とのべている。
韓愈は儒家の道徳の根原を「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五つの本質を原【たず】ねて推論をのべている。特に孟子の性善、荀子の性悪、楊雄の性善性悪混在説の三説に対して三品の性という新しい見解を述べたのであるが、韓愈の詩の理解のためには、韓愈が精魂込めた「原性」などを理解しなければならないのである。そこで、少し難しいが、このブログに取り上げ解説する予定である。
「学問を進めるための解明文」進学解(まとめ) 韓退之(韓愈)詩<114-16>Ⅱ中唐詩572 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1854
原道 韓退之(韓愈)詩<115-1>Ⅱ中唐詩573 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1858
#6
薦諸太廟比郜鼎,光價豈止百倍過。
この石鼓を国家の大廟に供え安置されたならば魯の国祖周公を祭った郜鼎にくらべてみても、かがやく値打はどうして百倍以上というくらいではおさまるものではありません。
聖恩若許留太學,諸生講解得切磋。
天子のお許しを得ることができるなら、大学に留めおくことをおゆるしねがいたいのです。するとここの学生たちが研究しあい、たがいに励み合って努力を重ねることとなりましょう。
觀經鴻都尚填咽,坐見舉國來奔波。
後漢の霊帝は蔡邕に命じ書かれた觀経は鴻都学校がこれを見に来たものでなひっきりなしにテンヤワンヤであったというし、まして、この石鼓ならば、こんどは 国を挙げて怒涛のように押しかけてくることは誰が考えてもそうなると思うことです。
剜苔剔蘚露節角,安置妥帖平不頗。
この石鼓のむした苔を削り取り、節目、門目をあらわしきれいにすることと、平らかにして、傾かぬよう どっしり据えて安置することです。
諸【これ】を太廟【たいびょう】に薦めて郜【こう】の鼎【かなえ】に比ぶれは、光價【こうか】は 豈に止【ただ】に 百倍過ぐるのみならむや。
聖恩 若し太學【だいがく】に留むるを許したまはば、諸生 講解して 切磋【せつさ】することを得む。
經を鴻都【こうと】に觀るも尚お填咽【てんえつ】す。
坐して見む 図を挙げて来って奔波【ほんは】せむことを。
苔を剜【え】り 蘇【こけ】を剔【けず】って 節角【せつかく】を露【あら】はし。
安置すること妥帖【だちょう】にし 平にして頗【かたぶ】かざらしむ。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #6
薦諸太廟比郜鼎,光價豈止百倍過。
聖恩若許留太學,諸生講解得切磋。
觀經鴻都尚填咽,坐見舉國來奔波。
剜苔剔蘚露節角,安置妥帖平不頗。
(下し文)
諸【これ】を太廟【たいびょう】に薦めて郜【こう】の鼎【かなえ】に比ぶれは、光價【こうか】は 豈に止【ただ】に 百倍過ぐるのみならむや。
聖恩 若し太學【だいがく】に留むるを許したまはば、諸生 講解して 切磋【せつさ】することを得む。
經を鴻都【こうと】に觀るも尚お填咽【てんえつ】す。
坐して見む 図を挙げて来って奔波【ほんは】せむことを。
苔を剜【え】り 蘇【こけ】を剔【けず】って 節角【せつかく】を露【あら】はし。
安置すること妥帖【だちょう】にし 平にして頗【かたぶ】かざらしむ。
(現代語訳)
この石鼓を国家の大廟に供え安置されたならば魯の国祖周公を祭った郜鼎にくらべてみても、かがやく値打はどうして百倍以上というくらいではおさまるものではありません。
天子のお許しを得ることができるなら、大学に留めおくことをおゆるしねがいたいのです。するとここの学生たちが研究しあい、たがいに励み合って努力を重ねることとなりましょう。
後漢の霊帝は蔡邕に命じ書かれた觀経は鴻都学校がこれを見に来たものでなひっきりなしにテンヤワンヤであったというし、まして、この石鼓ならば、こんどは 国を挙げて怒涛のように押しかけてくることは誰が考えてもそうなると思うことです。
この石鼓のむした苔を削り取り、節目、門目をあらわしきれいにすることと、平らかにして、傾かぬよう どっしり据えて安置することです。
(訳注) #6
薦諸太廟比郜鼎,光價豈止百倍過。
この石鼓を国家の大廟に供え安置されたならば魯の国祖周公を祭った郜鼎にくらべてみても、かがやく値打はどうして百倍以上というくらいではおさまるものではありません。
・郜鼎 郜すなわち今の山東省にあった国で鋳造された鼎。春秋時代末の国から魯へうつされ、魯の国祖周公を祭った廟に安置されていた。
韓愈「薦士」に「魯侯國至小,廟鼎猶納郜。」春秋時代の魯侯は至って小さな国を領有していたが、それでも『左伝、桓公二年』によれば、太廟の鼎は宋国の郜から運んできた。
○廟鼎猶納郜 廟:太廟 郜鼎:春秋時代宋の国にあった鼎:魯の桓公二年(前710年)内乱を起こした家老の華父督によって、魯の国に賄賂として贈られ魯の先祖を周公を祭る廟におかれた。今の山東省にあった郜の国で鋳造されたので郜鼎と称された。
左伝、桓公二年 無責任な甘やかしは、愛にもとづく厳格な戒めに及ばないことのたとえ。【城下の盟】敵に首都まで攻め入られてする、屈辱的な降伏の約束。
○紀元前701年、鄭の祭仲と公子突を抑留して脅迫し、盟を結ぶと帰国させて突(厲公)を国君に立てさせた。紀元前700年、魯の桓公や燕の人と穀丘で会談し、鄭との修好を求められた。また魯と虚や亀で会談したが、荘公は鄭との講和を拒否した。宋は魯・鄭の連合軍の攻撃を受けた。紀元前699年、斉・宋・衛・燕と魯・鄭・紀のあいだの会戦となった。
薦士 韓退之(韓愈)詩<62-#7>Ⅱ中唐詩374 紀頌之の漢詩ブログ1201
・光価 かがやくような価値。
聖恩若許留太學,諸生講解得切磋。
天子のお許しを得ることができるなら、大学に留めおくことをおゆるしねがいたいのです。するとここの学生たちが研究しあい、たがいに励み合って努力を重ねることとなりましょう。
・切磋/切瑳 骨・角(つの)などを切ったり磨いたりする意から、学問に励み徳義を磨くこと。努力を重ねること。
觀經鴻都尚填咽,坐見舉國來奔波。
後漢の霊帝は蔡邕に命じ書かれた觀経は鴻都学校がこれを見に来たものでなひっきりなしにテンヤワンヤであったというし、まして、この石鼓ならば、こんどは 国を挙げて怒涛のように押しかけてくることは誰が考えてもそうなると思うことです。
・観経 後漢の霊帝は蔡邕に命じ、五経を校定し古文と篆書と隷書の三つの書体で石に刻んで大学の門下に建てさせたので、これを観にくるもので市のようになったという。
・鴻都 後漢の霊帝のたてた学校の名。
・填咽 転んだり、息を衝かせたりする状況でてんやわんや、というほどの意。
・奔波 乱暴におしよせる。
剜苔剔蘚露節角,安置妥帖平不頗。
この石鼓のむした苔を削り取り、節目、門目をあらわしきれいにすることと、平らかにして、傾かぬよう どっしり据えて安置することです。
・剜苔剔蘚 こけをごっそりこそげとる。
・節角 ふしやかど。
・妥帖 ぴったりおちつく。
#7
大廈深簷與蓋覆,經歷久遠期無佗。
四方に吹き下ろした大きな屋根で、長い軒の影が深いとともに覆いかぶせるのです。そして年月が久しく経過したところであってもなんとか保存ができるというものです
中朝大官老於事,詎肯感激徒媕婀。
ところが中央朝廷の大官は事務に慣れ過ぎてしまっているから、もう感激などするはずないし、いたずらにだらだらとしてほったらかしにしている。
牧童敲火牛礪角,誰複著手為摩挲。
近くの牧童たちは石鼓に鎌か、蹴上げる石かなにかをぶちつけて火花を出したり、牛が角を研いでいる。あるいは誰がまた、わざわざ手をかけてくれてきれいに拭いたりしてくれるであろう。
日銷月鑠就埋沒,六年西顧空吟哦。
日一日と磨り減っていき、一月ごとに壊れてゆき、やがて埋没してはてるだろう。こうして六年間ものあいだ西の方をかえりみてはむなしく自分に言い聞かせ、欺いてきたものです。
大廈【たいか】深簷【しんえん】與【ため】に蓋覆【がいふ】し、経歴は久遠にして 佗【た】無きことを期せむ。
中朝の大官は 事に老【な】れたれば、詎【なん】ぞ育て感激せむ 徒に媕婀【あんあ】たり。
牧竜 火を敲【たた】き 牛 角を礪【と】ぐ、誰か復た手を著けて 爲に摩挲【まさ】せむ。
日に銷【き】え 月に鑠【さ】えて 埋没に就かむ、六年 西を顧【かえり】みて 空しく吟哦【ぎんが】す。
『石鼓歌』 現代語訳と訳註
(本文) #7
大廈深簷與蓋覆,經歷久遠期無佗。
中朝大官老於事,詎肯感激徒媕婀。
牧童敲火牛礪角,誰複著手為摩挲。
日銷月鑠就埋沒,六年西顧空吟哦。
(下し文)
大廈【たいか】深簷【しんえん】與【ため】に蓋覆【がいふ】し、経歴は久遠にして 佗【た】無きことを期せむ。
中朝の大官は 事に老【な】れたれば、詎【なん】ぞ育て感激せむ 徒に媕婀【あんあ】たり。
牧竜 火を敲【たた】き 牛 角を礪【と】ぐ、誰か復た手を著けて 爲に摩挲【まさ】せむ。
日に銷【き】え 月に鑠【さ】えて 埋没に就かむ、六年 西を顧【かえり】みて 空しく吟哦【ぎんが】す。
(現代語訳)
四方に吹き下ろした大きな屋根で、長い軒の影が深いとともに覆いかぶせるのです。そして年月が久しく経過したところであってもなんとか保存ができるというものです
ところが中央朝廷の大官は事務に慣れ過ぎてしまっているから、もう感激などするはずないし、いたずらにだらだらとしてほったらかしにしている。
近くの牧童たちは石鼓に鎌か、蹴上げる石かなにかをぶちつけて火花を出したり、牛が角を研いでいる。あるいは誰がまた、わざわざ手をかけてくれてきれいに拭いたりしてくれるであろう。
日一日と磨り減っていき、一月ごとに壊れてゆき、やがて埋没してはてるだろう。こうして六年間ものあいだ西の方をかえりみてはむなしく自分に言い聞かせ、欺いてきたものです。
(訳注) #7
大廈深簷與蓋覆,經歷久遠期無佗。
四方に吹き下ろした大きな屋根で、長い軒の影が深いとともに覆いかぶせるのです。そして年月が久しく経過したところであってもなんとか保存ができるというものです。
・大廈 廈は大きな家。屋根を四方に吹き下ろした屋根。
・深簷 ひさしがながい。長い軒の影が深い。
・蓋覆 覆いかぶせる。
中朝大官老於事,詎肯感激徒媕婀。
ところが中央朝廷の大官は事務に慣れ過ぎてしまっているから、もう感激などするはずないし、いたずらにだらだらとしてほったらかしにしている。
・老於事 事務に老練であること。ここではむしろマンネリズムにおちいっていると指摘する言葉として使っている。
・媕婀 テキパキしないさま。
牧童敲火牛礪角,誰複著手為摩挲。
近くの牧童たちは石鼓に鎌か、蹴上げる石かなにかをぶちつけて火花を出したり、牛が角を研いでいる。あるいは誰がまた、わざわざ手をかけてくれてきれいに拭いたりしてくれるであろう。
・敲火 石鼓に鎌か、蹴上げる石かなにかをぶちつけて火花を出すことをいう。
・摩挲 さする。大切にしてみがくことをいう。
日銷月鑠就埋沒,六年西顧空吟哦。
日一日と磨り減っていき、一月ごとに壊れてゆき、やがて埋没してはてるだろう。こうして六年間ものあいだ西の方をかえりみてはむなしく自分に言い聞かせ、欺いてきたものです。
#8-(最終回目)
羲之俗書趁姿媚,數紙尚可博白鵝。
今や書聖王義之の書が目の優しさによって世に評価されたが俗書となってしまっているが、それはもともと数枚の道徳経の写しと白い鵝鳥と交換できるというものであったのだ。
繼周八代爭戰罷,無人收拾理則那。
この周の石鼓を継承したことで、八代の王朝が戦争を終結させることとしたのである。それでもこれを大切にしまっておこうという人がいないというのは一体どうなっているのか。
方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。
この周の石鼓を継承したことで、八代の王朝が戦争を終結させることとしたのである。それでもこれを大切にしまっておこうという人がいないというのは一体どうなっているのか。
安能以此上論列,願借辨口如懸河。
いかにしたら、この問題をお上層部で審議してもらえるのでありましょうか。願うことなら、瀑布のように滔滔と流れおちる大弁舌をどなたかお貸し下さらないであろうか。
石鼓之歌止於此,嗚呼吾意其蹉跎。
石鼓の歌はこれでもって終わるのだけれど、ああ、こんなことでわたしの心はもうぐったりしている。
義之の俗書は 姿の媚なるを趁へども、数紙もて尚は白鵝【はくが】に博【か】ふべし。
周に繼ぐもの八代 爭戰【そうせん】罷み、人の収拾する無き 理は則ち那ぞ。
方今 太平にして日に無事、柄【へい】は儒術【じゅじゅつ】に任じて丘軻【きゅうか】を崇ぶ。
安んぞ能く此を以て上って論列【ろんれつ】せむ、願はくば 辨口【べんこう】の懸河の如きを借らむ。
石鼓之歌 此に止めむ,嗚呼 吾が意 其れ蹉跎【さた】たり。
『石鼓歌』-#8-(最終回) 現代語訳と訳註
(本文)
羲之俗書趁姿媚,數紙尚可博白鵝。
繼周八代爭戰罷,無人收拾理則那。
方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。
安能以此上論列,願借辨口如懸河。
石鼓之歌止於此,嗚呼吾意其蹉跎。
(下し文)
義之の俗書は 姿の媚なるを趁へども、数紙もて尚は白鵝【はくが】に博【か】ふべし。
周に繼ぐもの八代 爭戰【そうせん】罷み、人の収拾する無き 理は則ち那ぞ。
方今 太平にして日に無事、柄【へい】は儒術【じゅじゅつ】に任じて丘軻【きゅうか】を崇ぶ。
安んぞ能く此を以て上って論列【ろんれつ】せむ、願はくば 辨口【べんこう】の懸河の如きを借らむ。
石鼓之歌 此に止めむ,嗚呼 吾が意 其れ蹉跎【さた】たり。
(現代語訳)
今や書聖王義之の書が目の優しさによって世に評価されたが俗書となってしまっているが、それはもともと数枚の道徳経の写しと白い鵝鳥と交換できるというものであったのだ。
この周の石鼓を継承したことで、八代の王朝が戦争を終結させることとしたのである。それでもこれを大切にしまっておこうという人がいないというのは一体どうなっているのか。
この周の石鼓を継承したことで、八代の王朝が戦争を終結させることとしたのである。それでもこれを大切にしまっておこうという人がいないというのは一体どうなっているのか。
いかにしたら、この問題をお上層部で審議してもらえるのでありましょうか。願うことなら、瀑布のように滔滔と流れおちる大弁舌をどなたかお貸し下さらないであろうか。
石鼓の歌はこれでもって終わるのだけれど、ああ、こんなことでわたしの心はもうぐったりしている。
(訳注) #8
羲之俗書趁姿媚,數紙尚可博白鵝。
今や書聖王義之の書が目の優しさによって世に評価されたが俗書となってしまっているが、それはもともと数枚の道徳経の写しと白い鵝鳥と交換できるというものであったのだ。
・羲之俗書 王羲之(303年 - 361年)は書道史上、最も優れた書家で書聖と称される。末子の王献之と併せて二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称され、顔真卿と共に中国書道界の二大宗師とも謳われた。また「書道の最高峰」とも言われ、近代書道の体系を作り上げ、書道を一つの独立した芸術としての地位を確保し、後世の書道家達に大きな影響を与えた。「俗書」というのは王羲之の書いた書が超高価な価格で取引され、富豪のステイタスの象徴のよな存在になったことでこういう表現をした。
・數紙尚可博白鵝 晋書『王羲之傳』
「性愛鵝、會稽有孤居姥. 養一鵝、善鳴、求市未能得、遂攜親友命駕就觀。姥聞羲之將至、烹以待之、羲之歎惜彌日。又山陰有一道士、養好鵝、羲之往觀焉、意甚悅、固求市之。道士云「為寫道德經、當舉群相贈耳。乃為寫訖。籠鵝而去。(性、鵝を愛す、會稽に孤居の姥有り.一鵝を養い、善く鳴く、市に求むが未だ能く得ず、遂に親友に駕を命じ就して觀て攜えん。姥聞き羲之 將って至り、烹を以って之を待ち、羲之歎じて彌日を惜む。又、山陰に一道士有り、好き鵝を養う、羲之、往きて焉を觀る、意甚だ悅び、固く求めて之を市はむとす。道士云う「為に道德經を寫さば、當に群を舉げて相い贈らむのみ。」と。乃ち為に寫して訖う。鵝を籠にして去る。)
これに基づき作る。王羲之の「道徳経の書」は白鵝と交換されたのに、孔子孟子の儒学の扱い、石鼓に書かれた文言の扱いと比較して今はどうなっているのかと疑問を投げかけるのである。
繼周八代爭戰罷,無人收拾理則那。
この周の石鼓を継承したことで、八代の王朝が戦争を終結させることとしたのである。それでもこれを大切にしまっておこうという人がいないというのは一体どうなっているのか。
・繼周八代 周以後、秦・漢・魏・晋・北魏・北斉・北周・隋の八代にわたって石鼓のあった陝西省岐陽を管轄したことをいう。
方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。
たしかに今日、世間は太平で日日が平穏無事である。しかし今こそ世を治める政治はその根本原理を儒教に求めるものであり、孔子、孟子が尊敬されないといけないというものである。
・柄 権柄。国家権力をさす。
・丘軻 孔子と孟子。
安能以此上論列,願借辨口如懸河。
いかにしたら、この問題をお上層部で審議してもらえるのでありましょうか。願うことなら、瀑布のように滔滔と流れおちる大弁舌をどなたかお貸し下さらないであろうか。
石鼓之歌止於此,嗚呼吾意其蹉跎。
石鼓の歌はこれでもって終わるのだけれど、ああ、こんなことでわたしの心はもうぐったりしている。
・蹉跎 うまくゆかないこと。
◎韓愈「三品の性」について
この詩の「孔子」について、韓愈は儒家として孔子の学問について、その論を否定して、小馬鹿にしたような表現八句「金繩鐵索鎖紐壯,古鼎躍水龍騰梭。陋儒編詩不收入,二雅褊迫無委蛇。孔子西行不到秦,掎摭星宿遺羲娥。嗟予好古生苦晚,對此涕淚雙滂沱。」と少し小ばかにし、そして最終的には「方今太平日無事,柄任儒術崇丘軻。」とのべている。
韓愈は儒家の道徳の根原を「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五つの本質を原【たず】ねて推論をのべている。特に孟子の性善、荀子の性悪、楊雄の性善性悪混在説の三説に対して三品の性という新しい見解を述べたのであるが、韓愈の詩の理解のためには、韓愈が精魂込めた「原性」などを理解しなければならないのである。そこで、少し難しいが、このブログに取り上げ解説する予定である。
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